ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

43、USオープン・テニス

2007年09月01日 | Weblog
USオープン テニスはニューヨーク市郊外のフラッシング・メドウで毎年8月の最終月曜日から2週間の日程で行われます。
世界4大大会(グランド・スラム)の一つで観客動員数、賞金総額等において世界最大のテニス・トーナメントです。
9月第1月曜日のLabor Day(労働感謝の日)を挟んで行われます。
Labor Dayはアメリカ人にとって夏のバケーション気分の終わりを意味し、新たな気持ちで仕事ムードに切り替わる日でもあります。
学校も夏休みが終り新学期が始まります。
しかし、テニスファンにとってはUSオープンが終わるまではこの切り替えも難しいものです。

会場はUSTAナショナルテニスセンターで、主催は全米テニス協会(United States Tennis Association)です。
2006年に会場名が「USTAビリー・ジーン・キング・ナショナル・テニス・センター」になりました。 
マンハッタンの東に位置し、地下鉄7ラインに乗って終点フラッシングの一つ手前Willets Point-Shea Stadiumで降ります。
線路を挟んで北に大リーグメッツの本拠地シェイスタジアムがあります。
マンハッタンからフラッシングに向かって行くと左にシェイスタジアム右にUSTAナショナルテニスセンターが見えます。
ニューヨークの地下鉄はマンハッタンでは地下を走っていますがほとんどのラインはマンハッタンを出ると高架になります。
電車のロングアイランド・レイルロードでも行けます。
この辺りは大きな公園Flushing Meadows Corona Park(フラッシング・メドウ・コロナ・パーク)になっていて科学館、動物園、植物園、美術館など様々な施設があります。
ケネディー空港からマンハッタンに向かうときこの公園の近くを通りますが、巨大な地球儀が見えます。
これは1964年ニューヨーク世界博覧会の会場となったところでその名残です。

USオープン・テニス1881年に始まり、米国の国内大会として出発しました。
以前はクイーンズ区の「フォレストヒルズ」(Forest Hills)で行われていました。
「フォレストヒルズ」はテニス選手たちのあこがれの地でした。
1968年からオープン化されプロのテニス選手も4大大会に出場できるようになり「USオープン」となりました。
1970年代後半に、全米オープンの会場はフォレストヒルズから同じクイーンズ区のフラッシング・メドウへ移転しました。
1997年に新しく「アーサー・アッシュ・スタジアム」が建設され、2万5千人以上を収容できる世界最大のテニス・コートが完成しました。
それ以前使われていたセンター・コートも2万人収容の大きなスタジアムで、現在は「ルイ・アーム・ストロング・スタジアム」の名が付けられています。
私が行っていた頃は「アーサー・アッシュ・スタジアム」はまだ無く、このセンター・コートとその周りにある30余りのコートでトーナメントが行われていました。
近くにラガーディア空港があり試合中に上空を通過する飛行機の騒音もUSオープンの名物です。
フォレストヒルズのスタジアムは地下鉄Eラインのフォレストヒルズ駅近くにあり、現在もいろんな大会が行われています。
客席2000人くらいの小さなスタジアムですがトッププロの試合も行われ、私も何度か見に行きました。

アーサー・アッシュは黒人テニス選手の先駆者として活躍しましたが、エイズのため49歳で死去しました。
オープン化された最初のUSオープンで優勝し、男子選手として初の黒人チャンピオンになりました。
1968年全米オープン、1970年全豪オープン、1975年ウィンブルドンで優勝し、4大大会男子シングルス「3勝」を挙げ、キャリア通算でシングルス33勝を記録しています。
シングルスの最高ランキングは2位です。
アッシュは幼少期から人種差別を受けジュニアのテニス・トーナメントに参加することができませんでしたが公民権運動の高まりとともに徐々に試合に出られるようになりました。
1960年と1961年に「全米室内テニス選手権」で2連覇を果たしています。
カリフォルニア大学に進学し「全米大学テニス選手権」のシングルス優勝も達成しています。
1963年から男子国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手に選ばれ、黒人の選手として初めてデ杯でプレーするようになりました。
1981年から5年間、デビスカップのアメリカ・チーム代表監督を務めています。
現役引退後はアメリカ・テニス協会のジュニア育成委員として活動し、1985年に国際テニス殿堂入りを果たしました。
紳士的なマナーとスポーツマンシップで当時のテニス界から深い尊敬を受け、引退後も数多くの社会的活動を行っています。

アッシュは早くから心臓の病気に悩まされていました。
1988年に受けた心臓手術の際に施された輸血でエイズウイルスに感染しました。
1992年にエイズ感染を公表し、最晩年はエイズとの闘いでも前面に立っていましたが1993年2月6日に49歳の生涯を閉じました。
多くの選手から尊敬され指導者として期待されていたのに残念です。

アッシュの逝去から4年後、1997年にUSオープンの会場に新しいセンター・コートが建設され、彼の功績を称えて「アーサー・アッシュ・スタジアム」と命名されました。
その開場式典でジョン・マッケンローが「彼は偉大なテニス大使だった」とのスピーチを行いアッシュを称えました。

USTAナショナル・テニス・センターに名を冠されたビリー・ジーン・キング選手は1960年代から1980年代初頭までの四半世紀の長い間女子テニス界でトップ選手として活躍した偉大な選手です。
彼女は選手として活躍しただけでなく、女子テニス協会(Women's Tennis Association, 略称 WTA)を設立したり、女子テニス界のシステムを変革し、女子スポーツに革命的な影響を及ぼしました。
以前はUSオープンの優勝賞金も男女間で大きな差がありましたが彼女らの努力によって現在は同額になっています。
4大大会では女子シングルス 12勝、女子ダブルス 16勝、混合ダブルス 11勝を挙げています。

以前にも書きましたが、私は1980年から1992年まで毎年USオープンを見に行きましたが、その人気は年々高まって行きました。
85年ごろまではチケットも容易に手に入れることができましたが80年代後半になると難しくなっていきました。



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