ここしばらく、毎度のように野口晴哉がいわくとやっていて大半の人は飽き飽きしていることだろうが、まだ続ける。
子供の頃から例えば味の素や、本来なくても良かったはずの食品添加物だとかが気になっていた。
影響の一つに漫画の『美味しんぼ』もあっただろう。小学校か中学校でそういった教育があったように思う。
そこでコーラで骨が溶けるとか、とある着色料は何かの虫からとっている、というのは見た覚えがある。
風邪に付いても、小林よしのりがコラム漫画『新ゴーマニズム宣言』で、自身の風邪の処置について、森鴎外の言葉を引用しつつ述べていたのを見、「風邪は寝て治すもの」と思ったものである。
つまりは風邪を引いたからと薬を飲んでいては、自身の免疫が落ちていくだけだと思い、以来、風邪を引いても市販薬は薬局などで売られている「葛根湯」と銘打った顆粒状の薬を飲んだことが何度かあったぐらいで、もう二十年近く飲んだ覚えはない。
医者にかかったのはこれも十数年ほど前に、腕と顔がアトピーのような症状になり腫れ上がったのを診てもらい、その時貰った薬を塗って治って以来、再発もなく、医者にかかった記憶もそれ以降ない。
医者にかかるかからないはともかくとして、なるべくそうしてきた。
顔と腕が腫れた時とどちらが先だったかは忘れたが、これまた十数年前のある日立ち寄った本屋で野口晴哉の『整体入門』と『風邪の効用』というものを見つける。
その時の本の帯に「身体への信頼感があがる」とかいう読者の声が書かれていたように覚えている。
専門書でもないのに整体入門と書かれているのがひどく気になったのと、帯にあった『風邪の効用』と一緒に読めば身体への理解がもっと深まる!という煽り文句も気になり、両方買って帰った。
風邪の症状や身体の状態によって効果的な対処が違ったりはするようだが、自分が思ったことは間違っていなかったのだなと、読んでやたら感動したものである。
風邪は身体の調整作用であって病気ではないというのも、他では聞いたことの無い話であった。
『整体入門』の最初の方に「氣」(現在売られている文庫では「気」)について話しているのだが、氣については野口晴哉のオリジナルではないだろうが、こう具体的に語るものも読んだことがなかった。
ただ、気功で人を治療するという意味合いではなく、氣を操作して自身の身体を健康にしていくというのが目的だという。そのための色々なコツが書かれていたり、ちょっとしたからかうような引き合いに出した話が笑えたりと、読み物としても面白かったりする。
思い出話を長々と書いたが、冒頭の最後にこのように語っていた。
ある作家の方が整体協会に入会したら、作家仲間から「お前も野蛮人の仲間入りか」と言われたそうですが、わたしたちが求めているのは文明生活の中で野蛮人の力を発揮できるようにしていくことです。
見て書いてるわけではないが、こういう風だった。
つまり、人が健康に生きていくというのは、身体の中で眠っている力を引き出してこそ、ということなのだと。
整体入門の終わりの方には、病状と依存の関連性について語っている。
ある子供が風邪を引いたというので野口晴哉の所に連れてこられる。
まるで手品みたいな話だが、野口はぐいっとやって風邪をあっという間に治してしまう。
そして親子は帰っていくのだが、また何日かするとまた風邪を引いたと連れてこられる。
どうやらその子供は、母親に構ってもらいたかったようで、風邪を引けば構ってもらえるからまた風邪を引く、という風になっていたという。
こんな感じで、病気になったからと人に世話をしてもらって当然だと思っている人を治すのは難しいという。
口では治りたいと言うが、本心ではそう思っていないというわけで、治るものも治らない。
現代でもメンタル・ブロックという言葉があるが、こういう風な心理が語られている。
わたしは不細工だからもてない、としよう。別にそうでもないのだが「不細工だから」という建前にしがみつき、もてないことを僻むのに、もてないこと自体をどうしようもせずに言い訳に終始するというものである。
言葉はそれぞれ違うが、人はこういう心理状態にはまっていたりする。
ちょくちょく自身の内の言葉に耳を傾けると、そういう動きがあるのに気付く人もいるだろう。
つまり、建前に依存しているのである。病気同様、否定したいはずなのにそれに安住してしまうと。
こういう話を聞いていたりしたものだが、結局理解が半端だったのか、後年「~が悪い」という話ばかりする人と付き合うことになってしまった。その件は昔からちょくちょく書いてきた。
ま、類は友を呼ぶという奴か。
そこで先ほどTwitterで「添加物を目の敵にしているが、それは食べ過ぎのせいではないか」という趣旨の一文を書き上げた。反応はない。
どうして添加物が使われるのかを考える必要がある。
それは国民の健康を損なうため・・・というのが陰謀論という奴だが、結局は周り周って国民の要望である。
いつでもどこでも安心して綺麗な色をした食べ物をたらふく食いたいというのがあるから、腐りにくくしたり色鮮やかにしたり、味も再現する。
昔は戦後の飢餓の時代を生きてきた人が多かった。その要望に応えざるを得なかったはず。
そしてその当初の理由は忘れて、食べ物がふんだんにある社会を維持するためになっていったわけだ。
しかし疑問に思う。国が認可を出した添加物を疑うなとは言わないが、国は添加物を入れたものを毎日食べなさい、とは言っていないはず。
三食食べるというのは大昔に根付いた習慣だというが、農民にしろ武士に江戸の町の商人や職人しろ、現代より動き回る事が多いので食わねばならなかったところが大きいなら、現代の実態にはそぐわない。食べるなという話でもないが。
栄養学を根拠に三食をというのが現代にも続いているが、三食食わないと罰せられるというわけでもない。
それを入れた方が推進した方が悪い、というのはいったいどういう了見なのかと疑問に思う。
政府や企業の思惑というものが全く無いわけでもないが。
Twitterで書いた意見を改めてここにも示しておく。
添加物は確かに物によっては毒だろうが、それなら栄養も毒となり得るものがある。日常の量では遥かに及ばないが、それでも大量に摂ればその分身体に負担がかかるといえる。
そんな風に身体を疲れさせてるところに添加物を解毒せよと来れば、さらに疲弊する。
そして栄養が摂れてないからとさらに食べる。
それなら普段から摂取している毒も節制しなさい。
と、このように書いた。その後しばらくしてからまた別の話を持ち出した。
腹が減って食べたいと思った時に、例えばコンビニ弁当を平らげる。
さして食べたいと思わないが、栄養が不足するからと例えば薬膳料理を無理に食べる。
どちらが健康的か?食事に付いては後者とはいえる。
現代は後者の方が多く、これは頭で物を食べている。
己の健康を発揮しようとしているのではなく、食べ物に健康にしてもらおうとしている。
人の身体はそんな小賢しさを悠々と超えていく力があるのだ。
と書いて最後にはちゃんとフォローもしている。
だからといって、毒だけ選んで食え、ということではない。
添加物の危険性を指摘するのはおかしなことではない。
それを避けるのもおかしなことではない。
そもそも毎日ふんだんに食えとは国も言っていないし、守られているのか本当に大丈夫なのかは分からないとしても、ある程度の基準を設けてはいる。
そういうものなのに、認めた国が悪い入れる企業が悪いという風に話を持っていくというのは、国やらが最初から最後まで自分を守ってくれることを前提にしている、依存の態度ではないのかと考える。
食べ物に健康にしてもらおうというのも、国に保護してもらおうというのも、行き過ぎればただの「おんぶにだっこ」である。「おんぶにだっこ」が日常となれば、もはや自分の脚で歩くことも叶わなくなる。
では、よき終末を。
子供の頃から例えば味の素や、本来なくても良かったはずの食品添加物だとかが気になっていた。
影響の一つに漫画の『美味しんぼ』もあっただろう。小学校か中学校でそういった教育があったように思う。
そこでコーラで骨が溶けるとか、とある着色料は何かの虫からとっている、というのは見た覚えがある。
風邪に付いても、小林よしのりがコラム漫画『新ゴーマニズム宣言』で、自身の風邪の処置について、森鴎外の言葉を引用しつつ述べていたのを見、「風邪は寝て治すもの」と思ったものである。
つまりは風邪を引いたからと薬を飲んでいては、自身の免疫が落ちていくだけだと思い、以来、風邪を引いても市販薬は薬局などで売られている「葛根湯」と銘打った顆粒状の薬を飲んだことが何度かあったぐらいで、もう二十年近く飲んだ覚えはない。
医者にかかったのはこれも十数年ほど前に、腕と顔がアトピーのような症状になり腫れ上がったのを診てもらい、その時貰った薬を塗って治って以来、再発もなく、医者にかかった記憶もそれ以降ない。
医者にかかるかからないはともかくとして、なるべくそうしてきた。
顔と腕が腫れた時とどちらが先だったかは忘れたが、これまた十数年前のある日立ち寄った本屋で野口晴哉の『整体入門』と『風邪の効用』というものを見つける。
その時の本の帯に「身体への信頼感があがる」とかいう読者の声が書かれていたように覚えている。
専門書でもないのに整体入門と書かれているのがひどく気になったのと、帯にあった『風邪の効用』と一緒に読めば身体への理解がもっと深まる!という煽り文句も気になり、両方買って帰った。
風邪の症状や身体の状態によって効果的な対処が違ったりはするようだが、自分が思ったことは間違っていなかったのだなと、読んでやたら感動したものである。
風邪は身体の調整作用であって病気ではないというのも、他では聞いたことの無い話であった。
『整体入門』の最初の方に「氣」(現在売られている文庫では「気」)について話しているのだが、氣については野口晴哉のオリジナルではないだろうが、こう具体的に語るものも読んだことがなかった。
ただ、気功で人を治療するという意味合いではなく、氣を操作して自身の身体を健康にしていくというのが目的だという。そのための色々なコツが書かれていたり、ちょっとしたからかうような引き合いに出した話が笑えたりと、読み物としても面白かったりする。
思い出話を長々と書いたが、冒頭の最後にこのように語っていた。
ある作家の方が整体協会に入会したら、作家仲間から「お前も野蛮人の仲間入りか」と言われたそうですが、わたしたちが求めているのは文明生活の中で野蛮人の力を発揮できるようにしていくことです。
見て書いてるわけではないが、こういう風だった。
つまり、人が健康に生きていくというのは、身体の中で眠っている力を引き出してこそ、ということなのだと。
整体入門の終わりの方には、病状と依存の関連性について語っている。
ある子供が風邪を引いたというので野口晴哉の所に連れてこられる。
まるで手品みたいな話だが、野口はぐいっとやって風邪をあっという間に治してしまう。
そして親子は帰っていくのだが、また何日かするとまた風邪を引いたと連れてこられる。
どうやらその子供は、母親に構ってもらいたかったようで、風邪を引けば構ってもらえるからまた風邪を引く、という風になっていたという。
こんな感じで、病気になったからと人に世話をしてもらって当然だと思っている人を治すのは難しいという。
口では治りたいと言うが、本心ではそう思っていないというわけで、治るものも治らない。
現代でもメンタル・ブロックという言葉があるが、こういう風な心理が語られている。
わたしは不細工だからもてない、としよう。別にそうでもないのだが「不細工だから」という建前にしがみつき、もてないことを僻むのに、もてないこと自体をどうしようもせずに言い訳に終始するというものである。
言葉はそれぞれ違うが、人はこういう心理状態にはまっていたりする。
ちょくちょく自身の内の言葉に耳を傾けると、そういう動きがあるのに気付く人もいるだろう。
つまり、建前に依存しているのである。病気同様、否定したいはずなのにそれに安住してしまうと。
こういう話を聞いていたりしたものだが、結局理解が半端だったのか、後年「~が悪い」という話ばかりする人と付き合うことになってしまった。その件は昔からちょくちょく書いてきた。
ま、類は友を呼ぶという奴か。
そこで先ほどTwitterで「添加物を目の敵にしているが、それは食べ過ぎのせいではないか」という趣旨の一文を書き上げた。反応はない。
どうして添加物が使われるのかを考える必要がある。
それは国民の健康を損なうため・・・というのが陰謀論という奴だが、結局は周り周って国民の要望である。
いつでもどこでも安心して綺麗な色をした食べ物をたらふく食いたいというのがあるから、腐りにくくしたり色鮮やかにしたり、味も再現する。
昔は戦後の飢餓の時代を生きてきた人が多かった。その要望に応えざるを得なかったはず。
そしてその当初の理由は忘れて、食べ物がふんだんにある社会を維持するためになっていったわけだ。
しかし疑問に思う。国が認可を出した添加物を疑うなとは言わないが、国は添加物を入れたものを毎日食べなさい、とは言っていないはず。
三食食べるというのは大昔に根付いた習慣だというが、農民にしろ武士に江戸の町の商人や職人しろ、現代より動き回る事が多いので食わねばならなかったところが大きいなら、現代の実態にはそぐわない。食べるなという話でもないが。
栄養学を根拠に三食をというのが現代にも続いているが、三食食わないと罰せられるというわけでもない。
それを入れた方が推進した方が悪い、というのはいったいどういう了見なのかと疑問に思う。
政府や企業の思惑というものが全く無いわけでもないが。
Twitterで書いた意見を改めてここにも示しておく。
添加物は確かに物によっては毒だろうが、それなら栄養も毒となり得るものがある。日常の量では遥かに及ばないが、それでも大量に摂ればその分身体に負担がかかるといえる。
そんな風に身体を疲れさせてるところに添加物を解毒せよと来れば、さらに疲弊する。
そして栄養が摂れてないからとさらに食べる。
それなら普段から摂取している毒も節制しなさい。
と、このように書いた。その後しばらくしてからまた別の話を持ち出した。
腹が減って食べたいと思った時に、例えばコンビニ弁当を平らげる。
さして食べたいと思わないが、栄養が不足するからと例えば薬膳料理を無理に食べる。
どちらが健康的か?食事に付いては後者とはいえる。
現代は後者の方が多く、これは頭で物を食べている。
己の健康を発揮しようとしているのではなく、食べ物に健康にしてもらおうとしている。
人の身体はそんな小賢しさを悠々と超えていく力があるのだ。
と書いて最後にはちゃんとフォローもしている。
だからといって、毒だけ選んで食え、ということではない。
添加物の危険性を指摘するのはおかしなことではない。
それを避けるのもおかしなことではない。
そもそも毎日ふんだんに食えとは国も言っていないし、守られているのか本当に大丈夫なのかは分からないとしても、ある程度の基準を設けてはいる。
そういうものなのに、認めた国が悪い入れる企業が悪いという風に話を持っていくというのは、国やらが最初から最後まで自分を守ってくれることを前提にしている、依存の態度ではないのかと考える。
食べ物に健康にしてもらおうというのも、国に保護してもらおうというのも、行き過ぎればただの「おんぶにだっこ」である。「おんぶにだっこ」が日常となれば、もはや自分の脚で歩くことも叶わなくなる。
では、よき終末を。