中性の秋
2019-10-08 | 雑記
今朝、仕事の交代をしながら、直接ではなく他の人のやり取りを聞いていたら、「今朝は寒いが、昼間は暑くなる」とのことだった。
まるで夏と秋が同居しているようだなぁと述べると、それを聞いていた相手は「ホントにそうですねぇ」と答えていた。
ただ、曇っているので現時点(昼の二時半ごろ)では涼しくはない、という具合である。家が熱のこもりやすい構造なのもあるので、外の方が涼しいのかもしれないが。
というわけで、今だに折々に触れて繰り返している話をまたやろうと考えている。
サル、ではなく然る翻訳家がどうこうという話である。
彼の人物は、今はその相棒が表立って更新しているHPはあれども、本人は恐らく登場していないようで、農業専念しているようである。
その話をものすごくかいつまんで喋る機会を得てしまい、少々書き散らそうというわけなので、見飽きた人はずっと昔のゲームの実況プレイ動画でもご覧いただいた方が楽しいであろう。ブログをずっと遡れば埋め込みで入れてある。このブログのリニューアルで使えなくなったとかがない限りは見れるだろう。
それはともかく。拙が何を言っているのか、もしくは考えているかの復習となり得ると思うので、しばしのお付き合い願う。
然る翻訳家が翻訳した、海外の活動家の啓蒙本というのがある。
その主張を掻い摘んで言うと、「物質は幻で、普通の感覚ではつかみどころのない潜在だとかの意識が人間の本体だ」というものである。
物質が幻?御冗談を。という方も多いだろうから、その本にあった内容も併せて書いておこう。
まず、その本には無かったと思うが、かのアインシュタインは『相対性理論』において、こう主張している。
「物質とエネルギーは同質である」と。
申し訳ないが直に読んだわけではない。とはいえ、この手の話を書いているところで、そう引用されていた。
エネルギーと形容される状態というのは、物質とは言えないだろう。
石ころが転がるとき、その転がる力は何かの物質と言えるだろうか?何かの物質が原因だとしても、転がり続ける理由になるだろうか?
火あぶりにされて驚いて動いたとかいうメルヘンな理由があったとしても、火から離れればもはや関係はない。
案外、本当に火あぶりに驚いたのかもしれないが、それは措くとする。
そして、上記の啓蒙本の話では、最先端の物理学の見解を引用していて、ほぼ同上となる。
物質というものを細かくしていくと、行き着いた先はモヤのようなもので、確たる形のない状態だったという。
そして、このモヤのようなものは、人の意識でもって動きうるというのが、物理学の見解なのだと述べていた。
完全に制御できる、とは言っていないが、それが出来たら出来たで、色々と困るだろう。
それ故に、例の海外の活動家は、人の本質は物質にはなく、意識なのだと言っている。
これが、その著作の主張である。
ただし。それらのことを理解するには心身の感覚が健全でなければならないのだが、それらを阻害する働きの物質(例:アスパルテーム、グルタミン酸ナトリウム)だとか設備(例:WiFiなどの電波や特定の周波数に調律されたテレビやラジオから流れる音)を広めて人類を牢獄に閉じ込めているのだという。
この部分は陰謀論と括られる部分だが、人間の本質についての論はスピリチュアルだとか精神世界というカテゴリになるだろう。
一読しただけでも、すぐ上記からさらに上記の内容に繋げて論を展開しているというのは判るものだった。
のだが、何を思ったのか、然る翻訳者は、本質に向かうために気付いてほしいこと(前述の人類を牢獄に云々の箇所)が全てだと主張しだしたのである。
そしてさらに、「彼の言っていることは昔から言われてきたことに過ぎない」とまで切って捨てた。
(何かの基準や戒律などによる)正しい食事と生活をすれば、人は正しく生きられる、というのもまた、昔から言われてきたことに過ぎないのだが、そこには思い至らなかったらしい。
こういえば勘違いされることが世の中多いのだろうが、そういう生活は無駄だから辞めろと言っているわけではない。
乱雑で投げやりな生活をするものに、慎重さを求めるのは無理だというのは言うまでもなかろう。
例の啓蒙本の話から例えるなら、こうなる。
「有害な食品添加物や電波や周波数を避ける生活を志すというのはよろしいが、それが出来たことと本質に到達するのは別なのだ」と。
件の活動家は、ニューエイジャーに世界の危険さを伝えに行ったそうだが、「そんなネガティブなことを聞かせるな」と、まったく相手にされなかったそうで、こう述べている。
「健康だからといって、判るわけではないのだ」と。
物質を覆すことは出来ない、というのは常識のようだが、実際はこれ自体が思い込みというものである。
だったら今すぐ金塊でも出して見せろ!というのもまた、常識的な反応であるが、物質界隈のみが全てだと思い込んでいるからそういう反応になるというわけである。
もうこの時点で受け付けない人は受け付けないだろうが、構わず進める。
我々の人体は数多の細胞で構成されており、その細胞もまたアミノ酸だとか炭素だとかの細かい物質で出来上がっている。
さて、既に述べたが、物質の本質はモヤのようなものだと。
例えばナトリウムなら、空気に触れると激しい酸化反応を起こして、量によっては爆発する。
これがナトリウムの本質となるが、それもまた本質ではないことになる。
ナトリウムをナトリウムたらしめているのは何か?人を人ならしめているのは何か?
もっと具体的に言えば、そのモヤをこねてこの世を作り上げたのは何か?という問いかけが必要なのである。
判らないから問いかけるのが、人に必要なことである。それは、判ろうとしているからである。
そのモヤをこねてこの世を作ったのが神だというのなら、我々は神とは何なのかを判ろうとすべきである。
判ろうとするというのは、その対象と同じになるということなのだ、というのを何かで読んで、以前にもここで書いたものである。
話が少し戻るが、物質が意識で動くというのなら、金塊でも出せるのか?というと、実は出ているのだそうな。
どこに出るのかというと、一般でいう「あの世」には出ていると、とある専門家が語っていた。
「あの世」には出ているのだが、物質化するには時間や砕けた言い方だと気合が欲しかったりと、一筋縄では行かないのであるという。
それをどうしていくか、というのをセミナーを開催して教えている人が、そのとある専門家なのだが、これは余談である。
判ろうとするのを辞めた時、それは堕落の始まりである。
鰯の頭も信心からというが、つまりは堕落しているといえよう。から、なので、その先を含めている言い方ではあるが。
鰯の頭を拝めば万事解決!などとやっていたら、鰯の頭も困って頭を垂れてしまうというもの。
人もこの世にも、本質的な善も悪もないという。ただ、バランスを欠いているのだという。
酸性でもアルカリ性でもない、中性がよろしかろう。
丁度、夏と秋が混在するような天気である。『中世の秋』ならぬ、「中性の秋」とでも名付けよう。
葉の色が変わりかけている木々でも眺めながら、思い起こして戴ければ幸いである。
では、よき終末を。
まるで夏と秋が同居しているようだなぁと述べると、それを聞いていた相手は「ホントにそうですねぇ」と答えていた。
ただ、曇っているので現時点(昼の二時半ごろ)では涼しくはない、という具合である。家が熱のこもりやすい構造なのもあるので、外の方が涼しいのかもしれないが。
というわけで、今だに折々に触れて繰り返している話をまたやろうと考えている。
サル、ではなく然る翻訳家がどうこうという話である。
彼の人物は、今はその相棒が表立って更新しているHPはあれども、本人は恐らく登場していないようで、農業専念しているようである。
その話をものすごくかいつまんで喋る機会を得てしまい、少々書き散らそうというわけなので、見飽きた人はずっと昔のゲームの実況プレイ動画でもご覧いただいた方が楽しいであろう。ブログをずっと遡れば埋め込みで入れてある。このブログのリニューアルで使えなくなったとかがない限りは見れるだろう。
それはともかく。拙が何を言っているのか、もしくは考えているかの復習となり得ると思うので、しばしのお付き合い願う。
然る翻訳家が翻訳した、海外の活動家の啓蒙本というのがある。
その主張を掻い摘んで言うと、「物質は幻で、普通の感覚ではつかみどころのない潜在だとかの意識が人間の本体だ」というものである。
物質が幻?御冗談を。という方も多いだろうから、その本にあった内容も併せて書いておこう。
まず、その本には無かったと思うが、かのアインシュタインは『相対性理論』において、こう主張している。
「物質とエネルギーは同質である」と。
申し訳ないが直に読んだわけではない。とはいえ、この手の話を書いているところで、そう引用されていた。
エネルギーと形容される状態というのは、物質とは言えないだろう。
石ころが転がるとき、その転がる力は何かの物質と言えるだろうか?何かの物質が原因だとしても、転がり続ける理由になるだろうか?
火あぶりにされて驚いて動いたとかいうメルヘンな理由があったとしても、火から離れればもはや関係はない。
案外、本当に火あぶりに驚いたのかもしれないが、それは措くとする。
そして、上記の啓蒙本の話では、最先端の物理学の見解を引用していて、ほぼ同上となる。
物質というものを細かくしていくと、行き着いた先はモヤのようなもので、確たる形のない状態だったという。
そして、このモヤのようなものは、人の意識でもって動きうるというのが、物理学の見解なのだと述べていた。
完全に制御できる、とは言っていないが、それが出来たら出来たで、色々と困るだろう。
それ故に、例の海外の活動家は、人の本質は物質にはなく、意識なのだと言っている。
これが、その著作の主張である。
ただし。それらのことを理解するには心身の感覚が健全でなければならないのだが、それらを阻害する働きの物質(例:アスパルテーム、グルタミン酸ナトリウム)だとか設備(例:WiFiなどの電波や特定の周波数に調律されたテレビやラジオから流れる音)を広めて人類を牢獄に閉じ込めているのだという。
この部分は陰謀論と括られる部分だが、人間の本質についての論はスピリチュアルだとか精神世界というカテゴリになるだろう。
一読しただけでも、すぐ上記からさらに上記の内容に繋げて論を展開しているというのは判るものだった。
のだが、何を思ったのか、然る翻訳者は、本質に向かうために気付いてほしいこと(前述の人類を牢獄に云々の箇所)が全てだと主張しだしたのである。
そしてさらに、「彼の言っていることは昔から言われてきたことに過ぎない」とまで切って捨てた。
(何かの基準や戒律などによる)正しい食事と生活をすれば、人は正しく生きられる、というのもまた、昔から言われてきたことに過ぎないのだが、そこには思い至らなかったらしい。
こういえば勘違いされることが世の中多いのだろうが、そういう生活は無駄だから辞めろと言っているわけではない。
乱雑で投げやりな生活をするものに、慎重さを求めるのは無理だというのは言うまでもなかろう。
例の啓蒙本の話から例えるなら、こうなる。
「有害な食品添加物や電波や周波数を避ける生活を志すというのはよろしいが、それが出来たことと本質に到達するのは別なのだ」と。
件の活動家は、ニューエイジャーに世界の危険さを伝えに行ったそうだが、「そんなネガティブなことを聞かせるな」と、まったく相手にされなかったそうで、こう述べている。
「健康だからといって、判るわけではないのだ」と。
物質を覆すことは出来ない、というのは常識のようだが、実際はこれ自体が思い込みというものである。
だったら今すぐ金塊でも出して見せろ!というのもまた、常識的な反応であるが、物質界隈のみが全てだと思い込んでいるからそういう反応になるというわけである。
もうこの時点で受け付けない人は受け付けないだろうが、構わず進める。
我々の人体は数多の細胞で構成されており、その細胞もまたアミノ酸だとか炭素だとかの細かい物質で出来上がっている。
さて、既に述べたが、物質の本質はモヤのようなものだと。
例えばナトリウムなら、空気に触れると激しい酸化反応を起こして、量によっては爆発する。
これがナトリウムの本質となるが、それもまた本質ではないことになる。
ナトリウムをナトリウムたらしめているのは何か?人を人ならしめているのは何か?
もっと具体的に言えば、そのモヤをこねてこの世を作り上げたのは何か?という問いかけが必要なのである。
判らないから問いかけるのが、人に必要なことである。それは、判ろうとしているからである。
そのモヤをこねてこの世を作ったのが神だというのなら、我々は神とは何なのかを判ろうとすべきである。
判ろうとするというのは、その対象と同じになるということなのだ、というのを何かで読んで、以前にもここで書いたものである。
話が少し戻るが、物質が意識で動くというのなら、金塊でも出せるのか?というと、実は出ているのだそうな。
どこに出るのかというと、一般でいう「あの世」には出ていると、とある専門家が語っていた。
「あの世」には出ているのだが、物質化するには時間や砕けた言い方だと気合が欲しかったりと、一筋縄では行かないのであるという。
それをどうしていくか、というのをセミナーを開催して教えている人が、そのとある専門家なのだが、これは余談である。
判ろうとするのを辞めた時、それは堕落の始まりである。
鰯の頭も信心からというが、つまりは堕落しているといえよう。から、なので、その先を含めている言い方ではあるが。
鰯の頭を拝めば万事解決!などとやっていたら、鰯の頭も困って頭を垂れてしまうというもの。
人もこの世にも、本質的な善も悪もないという。ただ、バランスを欠いているのだという。
酸性でもアルカリ性でもない、中性がよろしかろう。
丁度、夏と秋が混在するような天気である。『中世の秋』ならぬ、「中性の秋」とでも名付けよう。
葉の色が変わりかけている木々でも眺めながら、思い起こして戴ければ幸いである。
では、よき終末を。