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ナショナリズムは国境を越えて

2019-10-11 | 雑記
先月、何かの拍子にジョージ・オーウェルの『ナショナリズムについて』という短編を読んだ。

たまたまたどり着いたサイトで翻訳文を読んでいたのだが、サイト運営者が書いているにしては時間が古いのに当時のように語っていておかしいと思い、ページのトップに戻ってみたら、「ジョージ・オーウェル」の名と著作名が書かれていたのに改めて気づいた。

そういえば、岩波文庫か何かの巻末の既刊一覧で、このタイトルがあったような気がする。それなので、仕事が終わっていたのもあって、読んでいた。


誰の発言だったか思い出せないが、「ナショナリズム」という言葉は少し翻訳しづらいという。

国粋主義とよく訳されているのだが、それも面倒になったのか当てはまらないのか、上記の著作名はカタカナである。


一般に国粋主義とするなら別に問題ないだろうが、読んでみると、上記の著作では実際に無理があるなと言える。


なにせ、オーウェルが指摘している作家や政治家は、イギリスの人間でありながらイギリスのことを無視して、その人物が理想としている他の国への「ナショナリズム」だったからである。

これを「国粋主義」と訳するのは無理があるだろうと。

例えば、その中に挙げられたある人物の言動は、何で読んだか思い出せないが、同じことを指摘していたことを思い出したものである。

誰で何の話だったかは忘れたが、端的に言うとこうなる。

イギリスが戦争か何かで常軌を逸した行いをしていたのを糾弾していながら、その人物が心の中で忠誠を誓っている(らしい)国がまったく同じようなことをしているのを聞いても、無視するという。

そのナショナリズムの分類を示して考察していたり、上記の話なんかは人物や出来事が違うだけで、現代にも当てはまるという点で、実に面白いものであった。

現代日本なら、直近は日韓関係が当てはまる。もっと前で現代にも続いているが、日中関係というのもある。別にそのことを詳しく語る気はないが、一昔前の「韓流ブーム」や、慰安婦問題で日本を糾弾する癖に、ヴェトナムで韓国軍が何をしてきたかは報道しない(海外で人権団体が問題提起しているのに)といった流れは、もしかしたら「ナショナリズム」のなせる業ではなかろうか、などと考えたものである。文字通りのナショナリズムを持った他国人の影響だけにしては妙だと。

慰安婦問題が完全に向こう側の主張通りで反論の余地もないのであれば、ヴェトナム戦争時の韓国軍の蛮行について指弾するというのは不毛だろうとしても、国内はともかくとして、韓国国内でもその主張がおかしいことを発表している学者が現れている状況である。

丁度この記事を書く前に、その韓国の学者が言っていたことを読んでいた。

彼が言うには、韓国の独立は独力によるものではなかった(この辺りは周知の事実ではあるが)ゆえに、その心のスキマを埋めるために神話を作るしかなかったのだという。

そして、それを制する知性と器量を持った政党は今のところ韓国にはない。しかし、三十年もすれば変わるだろうとのことである。

後は自虐かもしれないが、「その時まで韓国が存続していれば」と。


三十年。日本の法律などでも成人は二十歳ということになっているが、生まれた子供が大人になるまでの時間がかかるようである。



この、「独力で為せなかったことの埋め合わせに神話をでっち上げる」というのは、実に興味深い。

小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』で指摘していた、現代日本の精神構造にも当てはまるものである。

よくある「今の若者は」という言い草の代物ではあるが、現代日本の場合は高度経済成長期と、達成された後にそっくり受け取ることになった現代の若年層、という括りである。

新興宗教だとか市民運動にハマっていく原因だといっていた。


韓国の学者も小林も同じ言葉を使っていたが、アイデンティテイが脆弱だとか、それに空白があるという。


何にせよ「埋め合わせに神話をでっち上げ」ているといえる。


神話、というと妙に聞こえるので、現代的な言葉に置き換えるとすると、フィクションとなる。

それで、翻訳すると?と聞かれる前に答えるならば、作り話である。


ここでよく語っている言い草に則るならば、現代社会というのは作り話である、というところであろう。


ネット上で本名を晒すのはよろしくないというので、「作り話」で示すが、拙の名前は「山田太郎」であるとする。

だが、これは本質的に「作り話」である。例えで出した仮名だからというわけではない。

あなたは「山田太郎」という名前とそれに付随する経験や記憶に対する解釈を施した、「山田太郎」という「作り話」を生きているのである。

そういう意味では、「山田太郎」という人物は実在しない。

存在はする。しかし、同姓同名の「山田太郎」は、同一人物ではないだろう。百人百様の「山田太郎」が存在することになる。

わたしは「わたし」という「作り話」が無ければ生きていることはないのだが、この「作り話」が全てではないのである。

こういう話は初期仏教が散々語ってきたことなので、特に目新しい話でもない。えー、現代的に言いますとぉ、スピリチュアルとでもいいますかぁ。


そして、前回も語ったのだが、「作り話」は頭の中の話だけではなく、物質自体もだったということである。冗談めかしていうなら、これもまた「作り話」となるか。


パッと「現代社会は作り話」と先ほど書いたが、これは場所や生活様式といった狭義の意味ではないことを、ご理解いただけるかと思われる。

そして、種々の現代社会に存在しうる物事に拘泥することや、あまつさえ忠誠心を抱くなどというのは、オーウェルの指摘していた「ナショナリズム」と大差ないことも認識できるだろう。

具体例は常々書いてきたが、ご自身の経験や記憶に当てはめて類推するのが最も理解しやすいかと思われる。

人は「ナショナリズム」という「作り話」に拘泥していてはならないのである。


「作り話」の向こうがあるなら、それこそ「神話」といえるだろう。

そして、「ナショナリズム」は容易に国境の如きを越えることは出来るが、この「神話」を越えることは出来ない。

何せ越える国境がないので、己で国境を引いては越えて、引いては越えてを繰り返すだけなのだから。


では、よき終末を。