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白状な薄情

2016-02-23 | 雑記
ことあるごとに「ブログ更新やらん。ラヂヲ(ラジヲでもラジオでもないぞ)はもうやらん」と何度言ったか思い出せぬが、ブログの更新は細々と続いてきた。

そして何を血迷ったか、先日マイクを取り出して何やら吹き込んでいたりしたものである。


きっかけは先日着ていたコメント。ついでにその話をしておく。


さて、その内容はというと、ラヂヲ(ラジヲでもラry)を撮ってくれという嘆願コメントであるが、こちらも返答に困る。

どういっていたか。

話す内容はなんでもいい、あんたの話は暇人を集わせる力があって、それが好きだから、撮ってくれたら真剣に聞く、とのこと。


わしは以前言っていた。しゃべるのが目的であって、伝えるのは二の次だと。

そういう気持ちもないではないが、何か、もしくは誰かに語りかける以上は、何事かを伝えようとしている。こうやって書くこともそうである。


大体、内容はなんでもよくて、わしが喋っているだけでいいのなら、前に公開したのを聞くのがよかろう。


テレビに出ているような評論家のような月並みな言い方はしたくないが、ネットの共有幻想とでもいうやつではないかな。

己と似たようなことを喋っている人がいて、他にもそれを聞いている人がいる、自分は一人じゃない、寂しくないんだ!というような論説だったか、そういう状態ではないか?と

人をアイドルにしたて上げるのは、望んだ相手だけにしてもらいたいものである。偶像崇拝という危ないと聞く道もあるよーなんで、お好きなよーに。


さて、ラヂヲについてだが、没にした。没にしてなければ、上のことが最初に吹き込まれていた。書き起こすことになるとは思わなんだが。


まだデータ自身はこれを書いている時点では残っているが、どちらにしても出す予定はなくなった。やり直すかもしれんが、すぐにはやらないだろう。


没の理由としては、「出来が悪い」からである。


まあ、元々出来の悪いやつの下手糞な仕事ではあるので、さもありなんではある。


もうちょっと踏み込んで、何が「出来が悪い」のか、少々書こうと思う。



以前引用したりしたこともある、シュタイナーという人物。


どこかのナチスやヒトラーのことを書いてあるサイトで紹介されていた。

度々引っ張り出したりしてたのが、「光の霊たちは云々」と語った講演の一節である。

ヒトラーの出現を予見してただとか、ヒトラーが本当に殺したかった相手だとかなんとか言われているこの人物。


何か妙だ、と実はあまり思ってなかったが(そもそも著作を読み漁ったわけでもない)、ばかばかしい繋がりが浮き上がったので、ご紹介しておく。


シュタイナーは人智学という学問を設立したのだが、その直前は何をしていたかというと、神智学協会というところにいて、そこで講演したりしていた。

まんま『神智学』というタイトルの本も出ている。Wikiにも神智学協会と仲良くなって、講演したり会員になったとかちゃんとあるので、気になったらGo!


さて、その神智学だとかいうの。つまるところ、オカルトである。Wikiだと、神智学と<神智学>と分けて書いてあり、似てるところはあるけど別物、という説明がされている。

どれくらいオカルトかというと、ニューエイジ、その後に続くスピリチュアリズム、これらの源流であるそうだ。




ニューエイジのグルとでもいうような人物達が国連に名を連ねていたりする。と、こう書けば、詳しい人にはこれ以上説明をする必要はないレベルである。


その神智学、Wikiどおりにいったら神智学協会というのは、それの思想の中核を担うような人物の文章だかを紐解くと、正体が見えてくるだろう。

例えば、ブラヴァツキー夫人だとブラヴァッキーだとかいう人。設立に関係していたのだが、「実は神が悪魔でルシファーが神なんです!」てな内容を書き連ねている。

で、「神をぶったおせ!」となる。


長くなるので簡単に示したが、これでちと悩んだわけである。悩むといっても、フロイトが自説をユダヤの戒律故に捻じ曲げざるを得なくなって三日ほど固まった、というのにはまったく及んでないので、ご安心を。


となると、この文章も違って聞こえてくる。

 「〈光の霊たち〉は今、人間にインスピレーションを与え、自由の観念と感性を、自由への衝動を発達させようとしている。

それに対して〈闇の霊たち〉は人種的、民族的な関連、血に根ざした古い衝動を現代に甦らせようとしている。人種、民族、血統の理想をはびこらせることほど、人類を退廃へ導くものはありません。」



そもそも、イルミナティってのは、火だか光をかかげるもの、という。イルミネーション、というであろう。

安易に光だの闇だのというのはおかしいな、というわけである。


そして、ジョルジュ・ヴァタイユの言うとおりなら、神といい聖なるものというのは本来、清いものという側面だけでなく、おどろおどろしいとでもいうような悪魔的とでもいうような側面も同時に持つものだったというではないか。


そういう話をしてきてて、これではなぁ、となったわけだ。いやはや、何も喋りたくもなくなる。


というわけで、人種、民族、血統の理想をフルータリアン的にはびこらせるのはきっと正しいのですナァ、などとほざいておくことにする。

ぬう、実に白々しい書き方だ。



喋っても書いても上手くいく気がしないが、ともかく書くことにする。



例えば、日本人が英語を理解するにはどうするか?

この日本語は英語だとどういうのか?とか、この英語は日本語だとなんというのか?となる。

日本語の表現ですぐれているところもあれば、英語にしか出来ないようなすぐれた表現もあったりするだろう。

そういう理解や考え方の下地になっているのは、日本人の場合は日本語だというわけだ。

微妙なところを無視して「日本語がすばらしい!」と世の中いってたりもするが、好みである。

日本語って妙な意味ですごいなぁと思わなくもないが、それが優れているかどうかは別問題である。


これを言語じゃなくて、人種とか民族とか血統とかにしてみよう。


日本人は日本に住んでてそれに適応した生活をしている(らしい)と。

西洋人は西洋に住んでてそにれ適応した生活をしている(らしい)と。

人間はそもそも暖かいところに住んでいて果物を食っていた(らしい)と。

だから人間は果物を食べるべきなんですぅ、というわけだそうだ。


この言い草がシュタイナーの言う闇の霊だかなんだか、そういうのは抜きにしても、変だなといいたいわけである。


つまり、日本人が英語を理解する手段として日本語を使うのと同様で、人種だとか民族だとか血統というのも、認識のための手段に過ぎない。

地球は今もって寒冷期という話すらある。寒い環境で生きる手段を講じてやってきたのが今に繋がっている。

その当時の手段だったものを理想とのたまうのは、英語の勉強をするのが目的なのに日本語の優れた点を称揚するようなものだといえる。


日本人だとかアメリカ人という表現だとわかりにくいので、言い換える。

現代を生きている人というのは、現代人という人種だとか民族だといえる。

現代に起こっていることは、現代人としての立場から理解して対処していく以外に出来ないのである。

成人した日本人が英語を勉強していくようにだ。

英語を勉強するのに、いかに日本語が優れているのかを確認する作業に徹してどうしようというのか、である。

果物を食っていたのは当時の「現代」である。現代ではない。

そこを忘れると、その当時の「現代」を称揚しているつもりが、現代を賛美しているだけになるのである。口でいくら罵っていようが、である。

英語の勉強をしていたはずなのに、日本語や日本人がいかに優れているか、という妄想に耽溺するように。

地球が暖かくなってどこにいっても果物が生えてて、とかいうようになったらしらんが、明日なるもんでもない。恐らく。

未来に生きているらしいが、未来にあなたは生きてはいない。現代しかないのである。


とはいえ、現代。これまた難解である。


何度も書いたが、英語の勉強しながら、母国語が、母国が世界に冠たる!となりやすい現状である。


何か突拍子もないような話を聞いたとして、「常識と違う」といって詳しく聞こうとも考えようともしない状態というのが、まさに上に書いた「英語の勉強から逸れる」話である。


現代に耽溺してはいけない。それもまた、「英語」を勉強する時の手段となっている「日本語」なのだから。「日本語」がいかに優れているかなどというのは、宗教団体の集会ででもやりなされ。


つまり、生きているというのは、常々「英語の勉強」をしているようなものと言えなくもないというわけである。それはまた、年がら年中逸れ易いという危うさの伴ったものである。



とまあ、喋るつもりだった内容をもう少しまとめて、まったく違う展開にして書き上げてみた。

ラヂヲのほうでは「頭を使って考えろ」などと言っておったが、こういう風にしたほうがよいかな。


ベンヤミンという学者はシュタイナーについて「前近代への願望でしかないと見て深く軽蔑していた」とのことだそうな。1920年代である。


前近代というのを無意味な物と思うのもまた、上記の如しかもしれぬとしつつも、その台詞だけは頂いておく。

現代人における血統の理想を称揚するのは、「前近代への願望でしかない」のだと。

タメキヨだとかその手の人たちの理想というのが実になるべきものだというのなら、それはそれでよかろう。

だが、その当時の「現代」を称揚することによって現代を賛美している理屈から離れているようには見えないのである。

それが行き着く先は、「自然を装ったNWO」じゃなかろうか、と考えている。「理想を追求していったらイルミナティになるしかないだろう?」などと言っていただけのことはある。

彼の物がイルミナティに理想を抱いてそういったかは、今となってはわからぬ。例え話の解答のようなものだったから。しかし、もしかしたら、「我こそが理想のイルミナティ」と思っているかもしれないな。

状況に流されて果物を食っていた(らしい)過去の人類の立場から、同じく状況に流されて生きている現代の人類を嗤いたがる。どちらも大差無し、と思わざるを得ないのである。


では、よき終末を。