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地球狂の詩 外典

2016-02-01 | 雑記
辛撚あけましておめでとうございます。

今年も辛くてねじれた徒死になりますように。

書いてて面白くなかったが、このままでいく。そもそも、もう二月である。


さて、ラヂヲはもうやらん、と言ったとおり本当にやらなかった。恐らくここの更新もやらんだろうと思ったが、思い始めたらまた書いて、という感じではあったのだが、今回までは久々に長い間書かなかった。

こんなもん書くくらいならゲームやってるわい、とのことで、書く気などなかったのである。


まあ、ゲームのやりすぎだ落ち着けよ、といわれそうな記事を書いたりはしたものである。むしゃくしゃしてやったが反省はしない。事実は事実である。


書かなかった理由のもう一つとしては、人に何か伝えようなどというのではなく、何か見て思いついたら、そこで自身がわかれば十分だと感じたのもあった。


とはいえ、前から書いてみようかと思ったこともあったので、リハビリついでに何か書こうと思い立ったのである。最近、記憶が曖昧になってきてのぉ。歳でのぅ。徒死しそうぢゃわい。


さて、このブログのおさらいをする。


何ゆえ!?いや、意味はない。


かつては付き合いで始めた、ゲームのブログ。ゲームだけじゃないが、始まりはそういうものだった。

で、数年前の出来事についての裏事情を暴露する記事を乱発、ラヂヲ(喋ったのを動画サイトにアップしたもの)もわけのわからん時間収録したのを発表などなど。

その縁で、「被害者の会」を設立したのである。設立した覚えは無いが、わしともう一人のささやかな会が出来たらしい。おさらいはまあ、このあたりで。

猿、じゃなくて然る人物達からの被害の会である。特定個人の名前をつけてもいいが、わしはこのことは既に個人そのものではないとの認識なので、「お然るさん」がやってた陰謀論からとって、名付けることにした。

「無自覚イルミナティ被害者の会」と。

あの「お然るさん」が自覚しているのかしていないのか、そもそもイルのかイナイのかわからんその存在と変わらん思考及び嗜好と言動なので、こういうことにした。

Beyondなんとか被害者の会でもいいっちゃいいが、あの手の思考回路は別に陰謀論とやらをやってるから出てきているわけではないと認識したがゆえ、である。


そのことに関わる断片的な話は常々書いてきたり、もしくはしゃべってきたかと思う。見直して復讐、ではなく復習すべし、とはいわんが、覚えてたら、『あれかこれか』とやってくれればよい。


余談というやつになるが、被害者の会(仮)のもう一人は、とある宗教団体に迷惑を被っておられ、色々大変だったりするようだ。

で、本当の被害者の会のほうに顔を出したりしておるそうで、そのメンバーの一人が過日、告発本というのか、宗教団体からの洗脳を解いたことについての酒気、じゃなくて手記を出版なされたとのこと。

タイトルは『解毒』という。表紙に黒髪の女性が正面から写っているのが目印である。アマゾンのノンフィクションのカテゴリにあるとのことだ。



さて、話を戻す。


洗脳というが、その手法について伺った。まさに宗教団体の主砲とでもいうべきか!?いや、違うか。

二種類である。三種類あるかはしらんが、分けようがなかろうな。

まずは情報を徹底的に遮断して孤立させる方法。これは例えば、山の中で遭難しているだとか無人島に流れ着いただとか、あとは外界から孤立している山奥の集落だとか、こういう状態でもあり得る。

もう一つは、情報を氾濫させ、受容する側を麻痺状態にして自在にしてしまうというもの。テレビで宣伝しまくって、「これないとダメなんだ!」と不安を煽って買わせるのも同じである。


後で繋ごうと思った話だったのについ言ったが、別に現代生活でも同じなのである。


洗脳とやらは別に宗教団体だとかイルミナティだとか軍隊だとかの国家の機密レベルに関わっている存在だけのものではないのである。


具体的にわかり易いのは、上記の「つい言った」例えの話である。



ではそれと我が「被害者の会」となんの関わりが?となろう。


その話をするには、十年の時を待たねばならぬ・・・。捲土重来を期待してぐっと堪えていただきたい・・・。


冗談はさておき。


度々、アリス・ミラーのことを書いた。

カンタンに書くと、親が子供を虐待するのは、その親もまたその親や地域などを含めた社会による虐待の被害者であるという。

アル中の家で育った娘が、結婚してその旦那をついいびってしまってアル中にしたてる、というのがあるが、同じリクツである。

心の傷、とやらを自覚できずに、その疼きに突き動かされ、自他を傷つけるのである。かさぶたが痒いからと引っかいてまた出血する間抜け、というわけである。

病気を作るのは病人である、というわけだ。


おお、つい乱暴なことをいったが、人間はそういう間抜けである。


じゃあお前はなんだ?と食って掛かってくる奴もいるかもしれんからいうが、こういうことを書く間抜けな人間である。存分に罵るが良い。


さて、話を続ける。

「お然るさん」達はいう。

「地球のために生きるのが自分たち生き物にとって正しく気持ちの良いことなのだ!」と。


ここに大きな嘘が隠れている。無自覚イルミナティの無自覚たる由縁である。さあ、皆で考えよう!横取り40萬!


解釈の次第ではあるが、わしの念頭にあること以外も嘘だとは言えるが、そのことは書く余裕があればお伝えするつもりである。



さて、消えない疑問がずっとある。このもの達がのたまう「地球」とはなんなのか?


空を見てください!青くて美しい!鳥が鳴いてる!素晴らしい!!

>>ああ、本日は曇天なり。空ってのはなんだ?空間ではないか?鳥は地球だったか?聞いたことがないな。青が美しいかは個人の美的感覚というやつで。


母なる地球を森を傷つけるのは許さない!

>>掘り返して石油を吸いだしたりするのを傷つけているというならそれはそうだし、木を切ったりするのも確かに傷つけているには違いないが、どう考えても地球の地殻の上のほんの一部である。
そして、木自体は地球ではない。木が根を張ることについては、傷をつけることにはならないないのだろうか?


つまり。

地球と言っているが、人間やらの動物が生きている生活環境と空間のことを「地球」と偽っているに過ぎぬ、のである。


地球というのがどうできてどうやって今に至ったのかは、アイクやらが言ってるのも含めて、仮説の域を出ないとはいえる。


そしてアイクも含め常々こういっている。「過去の地球は素晴らしかった」と。年数やら論拠の違いだけである。


だから、地球はなんなんだ?と。惑星というのは岩石の塊ではなかったのか?と。

惑星の本質が空気だとか水だとか、表面にあるものだというのか?

男性が女装したらまごうかたなき女性になるとでもいうのか?

犬が人間の服を着たら人間か?そんなわけないと、人は言うだろう。


だから、わしは言うのである。そんなわけない、と。


だが、彼らはそうだと、「彼ら」の範疇に特に無いもの達もつられていう。


アリス・ミラーのいう虐待する親の幼少時に身に付けたトラウマというものは、別に人が人に対してのもの、つまり社会だけではない。

自然災害も原因になる。

自然災害とはなんなのかというと、洪水だとか山火事だとか台風だとかを思いつくが、裸で生まれた時にまぶしい太陽にいきなりさらされるとか、原始人が隠れていた洞窟のようにじめじめして空気の悪いところだとか、その子を産んだ親達はなんとも思っていない環境自体が、すでに「自然災害」となり得る。


過去の地球、否、「地球」が素晴らしかったというのは、肯定する以外に選択の余地がない洗脳だったというべきである。

ミラーの記すように、幼い子供はそれが異常なことだったとしても、生命を維持するために従わざるを得なかった。それがトラウマとなって、長じては子を虐待する。

その虐待は社会的に肯定及び推奨されていた。「その子を産んだ親達はなんとも思っていない」ように、当たり前だったのである。冬は寒いのが当たり前、というわけだ。



大雑把にいえば、思い込みである。地球はスバラシイとかいうのは思い込みだと。


するとこう来るだろう。「本来の人間は暖かいところに住んでいたので、寒いところにいるのを好んだりするのは思い込みだ」と。


その個人の好みは措くとして、寒いところにいたという先祖は別に好んだわけでもなかったろうが、上記のミラーの如くである。


体にも洗脳のようなものがあるといえるのか、長らく暮らしていると、例えば性的な話だが、夫婦の営みのことだが、性器の大きさがお互いにフィットするように変わってくるというのがある。


日本人は手足が短い。言われるまでもないが、これは何かというと、寒い地域に適応した結果だとのこと。以前、正反対のことを聞いていたのだが、で、西洋人のように手足が長い方が暖かいところにいたとのことだ。


そんなどこからどうみて純粋な日本人が、本来は西洋人が適している温暖の生活こそ至高!とのたまうのである。それはまさに思い込みである。


彼らの子孫だとかがそうなっていって、地球、いや「地球」がそうなっていった時はそれはそれで構わない。そうなっただけであるから。


本当にその「洗脳」を現時点でお解きになりたいのでしたら、手足を長く、頭を小さく作り変えるべきでありましょう。そのままではさぞお苦しいことでありましょう、と皮肉をいっておく。見苦しいのでな。



さて、わしの立場を改めていっておく。


地球だとか自然だとかを礼賛している「お然るさん」を虚仮にしているが、別に「森を焼き払え!」なぞとは思わない。

文明とやらがその「地球」とやらを汚しているというのは、それはその通りですなぁ、とは思うが、「地球」であって地球ではないと申し述べた。

つまり、現代文明を礼賛するつもりも毛頭ない。現状では便利だったりもするが、面倒である。物質的にも社会的にもだ。


かさぶたが痒いからと引っかいてまた出血するかの如く、元々人間は間抜けゆえに人間であるから、どちらに転んでも間抜けであると思っているだけである。

間抜けゆえにどちらかに転ぼうとするのだろうというわけだ。


とはいえ、転びたくなくても、子供が急に走り出して訳もわからず転ぶのと同じで、こう思うのである。

「間抜けゆえ致し方なし」と。こういっているわしが転んでないというわけではないことを申し述べておく。




自然に培われた本能、などという。

これもまた、「自然災害」だとかによるトラウマなのかもしれない。

本能というのを、自身の生きている環境を保持しようとすること、と言い換えられるだろうか。

いいかわるいかなんぞ最早わからず、「洗脳」されているだけなのかもしれない。

ミラーの記した虐待家庭で育った子供のように、生きるために肯定せざるを得なかったと。


本能という洗脳を一度疑ってみなくては、毒気深入失本心故となること請け合いである。

なにせ、彼らもいっていた。「異常なのが当たり前なので気づかない」と。


まあ、すぐ上に書いたとおりなら、我も彼も毒気深入失本心故、である。


では、よき終末を。