ウヰスキーのある風景

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作り方

2011-10-25 | 雑記
西洋料理で誰でも聞いたことはあるだろう食材。

わかった!トリュフだな!それだとタイトルがおかしい。

トリュフは掘り返すものであって作るものではない。よってフォアグラと確定する。


そんな話は措いておくとして、その作り方。


まずはガチョウ。たぶんガチョウ。鴨とかアヒルみたいなのでいいんじゃなかろうか。

こいつを首だけだせるように作った箱に押し込めて、首だけ出しておく。


そして、次から次へと食い物をその嘴へ押し込めて太らせていく。

早晩、死を迎える箱の中の鳥を掻っ捌いてみると、肝臓が脂ぎっしりに肥大化している。

これが世に言うフォアグラである。よーするに、鳥の癌化した肝臓なのである。


無理やり食わせなければガチョウ君、もしくはガチョウさんは天寿を全うされたことであろう。アーメンだとか南無なんとかと祈ってあげなくても良い。土に埋めましょう。


バカ食いすると(上の場合は食わされたのだが)体がおかしくなって死ぬと。子供でもわかる話である。

そんな不健全なものを美味い美味いと食べる人間はもっとおかしいと。別にそんな話を今回したいわけではないが、一度考えてみてもいいだろう。




話は変わるのだが、歳を食うと時間の進み方が早くなったように感じる、というセリフを聞いたり見たりするだろう。歳食った時の時候の挨拶みたいなもので、実際そう思ったり感じたりしているのかはよくわからんが。

しかし、何もすることがなくなった爺さん婆さんは一日が長いとぼやいたりすると。子供時代を振り返ると、あの時は一日が長く感じて、目一杯楽しめた、なんていう話もあったりする。「夏休みが三十日もある!」が歳を経て気づけば「三十日しかない」になっていた、という記憶はなかろうか?


こいつは何の違いなのか。


思うに、一日が短いと感じる人は「箱入りのガチョウ」状態なのではないかと。


ぼんやりテレビを見ていたら寝ようと思った時間を過ぎてしまった、とか、まあ、なんでもいい。


本来、自分自身に必須とは呼べないものを摂取し続ける状態。ガチョウは箱に入れられているが、人は自由じゃないか、と思うだろう。


どこかの誰かが何らかの意図(例:金儲けというか他にないような)で作り上げた種々のものの中から選ぶ以外まかりならぬ(皆ケータイ持ってるから持つのが当たり前、とか)。そんな状態から「自分の意思で選んだ」と思うほうが不思議である。

AとBを提示して、他の選択肢を選ぶことを考えさせないような状況。実はCがあるのに見せない見ようとしない、そして感じようとしない。

そしてCを選んだら嫌な顔をされたり、場合によっては罰しようとする。しかも、提示する側だけでなく、「ただ選ばされている立場の存在」も一緒になって。


TVや新聞、映画や音楽にゲーム、その他諸々の娯楽。それを「自分の意思」で摂取してきたと思えるだろうか。

首だけ出してるガチョウは恐らく、嫌がって暴れているだろうが、人は体こそ縛られていないから感じていないが、心が縛られている。


過剰に娯楽と刺激(カダフィ「死亡」のニュースも刺激だな)を摂取「し続ける」日々。


これは肝臓という目に見える物体の癌化ではなく、精神の癌化なのではなかろうか。死に向かって全力疾走状態になっているから、時間が早くなってしまうと。

そこから完全にとは言わないが、解放されている子供と老人は時間が本来あるべき速度に戻っているというわけだ。現在の状況ではどいつもこいつも癌化してるだろう。

半ば死に掛けたフォアグラ直前が、進んでフォアグラ二世を養って(きて)いるのだから。



いつものことだが、抽象的な話なのでわかりにくい。そして恐らく気持ち悪がられているだろう。実に本望です、ではなくて、本人もわかっているのか怪しいので、具体的な例を指摘し、それについての所感を述べて終了とする。



街中でもどこでも、イヤホンを耳に差し込んでいないと生きていけないかのように過ごしている人々がいる。

あれを見るにつけ、嘴が耳に成り代わっただけで、フォアグラを作っているのと変わらないなと感じるのである。作る、ではないな。「進んで」フォアグラになろうとしているのだろう。精神の「フォアグラ」になろうとしているのだ、と。

フォアグラにされる予定のガチョウの一生は短いので、精々、悔いの残らないように楽しんでいただけたらよいですな、と皮肉をこめて思わざるを得ないのである。ま、こういうこちらも「箱入りのガチョウ」と変わりませんがね。

では、また。