ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

ゐきている子供

2021-02-02 | 雑記
先日は、かつて関係のあった人物の言動の変遷について書いた。
こちらが振り回されたことについては大昔の記事にあるが、特に関係はない。

陰謀論者のダイエットジプシーというよくある?組み合わせだと一言で表現出来てしまって情けなくなってきたが、この二つが常にくっついているのが当たり前というわけでもない。

というのも、所謂陰謀論者であるとかダイエットジプシーであるかは関係なくその行動心理というのを考えればよいのである。そうすると、共通項が出てくる。

物事を類型化することによって、例えば神話だとかの共通項を調べたりする、というのはレヴィ・ストロースが始めた構造主義という奴だが、人間の行動心理やパターンといったところにも応用が利く。そもそも神話を書いたのは人間なのだから。

彼の人物のかつて存在したHPで、如何に努力して来たかを書いていた。当時はヴィーガンにたどり着いた、となっていたものである。

大雑把に言えば、食べているものが悪い!となって、素材の良し悪しやらジャンクであるか無いか、挙句の果てには畜産は動物を殺すのでその怨念が・・・というのを言い出す。
怨念云々は否定しない。ないと断定出来るものではない。

無論、そういったことを調べていくうちに、自然環境やら政治経済の仕組みの矛盾や酷いところに氣付いていって、所謂陰謀論というところにたどり着く人も多い。

今回は陰謀云々は省いて、ダイエットについて書こうと思う。ダイエットのやり方ではないので、ジプシーはまた放浪していただこう。


実際に調べたわけではないが、外来語の「ダイエット」という言葉には、計画という意味があると聞いた。

なら、これからは流行りの言葉で「アジェンダ」に言い換えてみるか、などと昔も書いた気がする。

どこかのOS会社の創設者は、お注射で一割ぐらい人口を減らせて調整できるだろう、などとフォーラムでしゃべっていたという。所謂陰謀論界隈のブログやらで言われるほど、おどろおどろしい言い方ではないようだが、ともかく、そう言っていたという。アジェンダ二千なんたらとか、そういう計画のプレゼン会での話である。

人体の脂肪を減らすのがダイエットという計画ならば、人口を死亡させて減らすのがアジェンダという計画と言えようか。言わなくてもいいが。

似たような言葉については、先日触れた、アメリカのフルータリアンダイエットの提唱者のインタビューにもあった。

単純な話で、人口は食糧供給で上がり下がりするだけなので、減ったらその分減るだけだ、という話である。

いつの人かは忘れたが、戦前より前の時代の著名な欧米の学者も、「今の食糧事情では何億人が限度」という言葉を述べていたが、今現在人口がその予測を遥かに超えて増えているのは、実に簡単な話で、食糧がその分を賄ってこれたからである。偏りがあるのは、そもそもの経済が「経世済民」になっていないからだが、ここでは扱わない。

余談が過ぎた。

というわけで、人にこういうと怒る人は怒るだろうが、敢えて言う。

太るのがそんなに嫌か?と。毎日ではないとはいえ、夜勤をやっている癖にまったくはた目からは太ってない寧ろ前より痩せた、などと散々言われる拙が言うと嫌味にしか聞こえないだろうが、ランナーが関取みたいになったのならまだしも、顔が少し膨らんだとか、腰回りが前よりきつくなった、とかで痩せよう!と言い出すのは如何なものかと考える。

病的に膨らんで病気になってしまった、とかいうのならばわかるが、大抵の人は病的な状態をどうしようという話ではないのに、痩せようとする。

痩せたら痩せたで、また太った、リバウンドだと、今度は別のダイエットに飛びつく。

そういうわけで、何故太るのかを考えてみよう。

食い物が悪い!
間違いではない。脂肪と炭水化物の塊ばかり食べていては確実に太る。
砂糖は特に刺激が強く、精神病の原因だと指摘されてもいるほどである。

味なんたらや人工甘味料が神経をおかしくて過食を引き起こしているからだ!
というのは実際報告されている。大手メディアには乗らないが、そういう研究報告はある。
テレビだかで味なんたらの毒性のことを述べたら、当の会社の部長だかが家にやってきて、撤回を求められたとかいう話があると、先日、どこかで見たものである。


ここからはいつも通り怪しげな話にしようか。

痩せたい人はまず、何を考えているか。

太ったのが嫌だから痩せたい。そう考えているのが大半だろう。

その視点は、「太っていること」についてのみ向かっている。
つまり、太っていることについてで頭が一杯なのである。

当人は瘦せようと考えているが、その頭の中は太っていることを年がら年中探し回って、自身にダメ出しを繰り返す。
そうすると、無意識のうちに「ああ、わたしは太っているのだな」と考え、どんどん太るのである。

当の本人は「痩せろ痩せろ」と命令しているつもりが、実のところは「太ります太ります」と身体は理解しているのである。

この齟齬が無くならない限りは、ダイエットジプシーではなく、ファットジプシーになり続けるだろう。追い求めているのは実は脂肪なのだと。


ちょっと違う話になるが、関連のある話を。
著名な矢作直樹という方がおられる。ご存知の方も多いだろう。

六十を過ぎているのに、ひどく若々しく見える。が、十年近く前ぐらいだったか、その当時は髪の毛が真っ白だったという。改めて検索して出てきた写真は髪が真っ黒である。

とある講演でしゃべっていたのだが、昔は白くて今はどうして黒くなったのかということについて、こういう風に言っていた。
曰く「体に感謝した」と。

続けていると、どんどん髪の毛が黒くなっていったのだとか。

矢作氏は所謂スピリチュアルな話を書いて出している人ではあるが、実体験としてそう述べていた。

体が余分な栄養を蓄えて将来に備えていることについて腹を立てるのは、生きている身体、つまり命を罵っていることになる。

罵られて喜ぶ人間は普通はおるまい。計略に嵌った相手が負け犬の遠吠えで罵ってきたというのならば、「我が意を得たり」とほくそ笑むところであろうが。


所謂陰謀論とレッテルを貼られた情報群がある。

無論、全部が正しいわけではない。荒唐無稽なだけの与太話もあるし、表面上しか準えていないものも多い。

数年前に耳にし、また最近はよく広まってきた言葉に、ディープ・ステート略称DSというものがある。一昔前はイルミナティと呼ばれていたものとほぼ同じ、らしい。

これは最近公になったというわけではない。こういう言葉が広まったのは最近なのだが、戦前の日本の新聞では、大統領選挙の裏にユダヤ資本家の暗躍とか堂々と書いていたという。その記事の見出し部分には「地底政府」というキャッチもついていた。井戸端会議で主婦の方々が国際金融についておしゃべりしていたぐらいこういう話は広まっていたという。

さて。これらは時代が下り、所謂グローバリズムという流れで大金持ちが多国籍に渡って陰に陽に支配する現代になると、ぱったりと出なくなっている。その話をすると、陰謀論だとなる。

2011年のあの地震が来る何年か前、もしくはもっと前までは、人工地震の実験がどうたらという記事も新聞に載っていたという。その何年か前にぱったり消え、今は陰謀論である。

とはいえ、さらに巧妙な話もある。行動予測プログラミングという心理学のテクニックがあって、例えば上記なら人工地震の話を事前に広めておいて、人々の間で不和を起こしやすい方向に持っていくというのもあるにはある。だからといって、人工地震が嘘だという話でもないというのが巧妙である。

話が横道に入ったので戻すが、我々の普段の生活においても、「陰謀論」がまかり通っていないだろうかと。

常識を疑うと白い目で見られる、というのはまさに上記に示したのと同じ流れになってはいないだろうかと。


成功するには努力がいる、とはよく言われてきたところである。
しかし、痩せる努力をし続けている人が痩せられたかというと、余りなさそうである。
でなければ、ちょっと検索するだけでとんでもない数のダイエット関連の情報が出てくるこの状況を説明する言葉が見当たらない。

努力はいるが、努力の向け方が間違っていた、と考えるべきだろう。

矢作氏のように「体に感謝した」というだけで髪が黒くなってきたというのは端から相手にしない割には、高価なダイエット食品を買ったり、わざわざ苦痛を身体に与えたりするというのは、生命というものに対して唯物的な判断しか下せないからといえる。

努力はいらない、とは言わないが、それは内面的な方に対して必要なのであり、外面的な事は結果といえる。


では。意識を変える方法とは?となる。

言うは易く行うは難し、といったところになるが、単純なことである。

「己の直感に従うこと」である。

所謂常識というのは、別にあなたが決めたものでもない。それを語る相手が決めたわけでもない。
振りかざして相手を抑えつけようという意図の下で行使されることがほとんどである。

今ある常識を全部かなぐり捨てて己の感性に従うのだ!とやるのは突飛に過ぎるが、身体は正直なもので、己のやりたくないことや触れたくないものについては、拒絶感を絶えず供給している。

子供が学校に行きたくない、登校日に腹が痛くなって動きたがらない、というのもそうだし、仕事を続けていたら鬱的状態がひどくなったり、ひどい腰痛やらガンになったりするというのは、そういう心の声を無視してきた結果という話もある。仕事をしていてそうなった、というのは、別に仕事だけが原因とはいえないところもあるので、個々人によるだろう。

それはさておき。話は代わる。

ある日の夜。帰宅した時に弟が拙にこう言ってきた。

ネットのとある診断で中等度のHSPと出た。だから兄貴がいつも言っている「自分らしく生きろ」ってのはと言いかけたので、「わしもその診断で同じ結果だったわ」と一蹴しておいた。

HSPというのは、ハイリー・センシティブ・パーソンの略で、けったいな言い方をすると酷く神経質な人ということになる。飽くまででわざとけったいな言い方をしただけで、こういう診断だとかは若い頃はともかく、今となっては西洋医学的な話は真に受けないことにしている。

これを足かせとして認定してどうにかしようというノリが下らないと、たまたま見かけた話を目の当たりにしてバカバカしく思ったのである。実際はどうかはわからないが、世の平均にはめ込もうとしているようで氣味が悪い。

Wikiにはこうある。
生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」という意味、と。気質の後に「を」がいるような気がするが、原文ママという奴である。

それはつまり。自身の危機察知能力が強いというわけである。他の人が不覚にも嵌り込んでしまうような所を上手く回避できる可能性が高いというわけである。

これは一つの強みではないかと。平均的労働者としてはすぐダメになる奴と言われるだろうが、知ったことではない。


そんな拙が昔から何を考えて生きてきたかは、何度か書いたかもしれない。

何故生まれ、生きているのか。である。

これもかつて書いたが、中央公論の紅白の表紙の古典シリーズのうちの『大衆の反逆』の前書きにこんな話があった。

曰く、生きるために考えるというが、考えるために生きるという部分もあるのではなかろうか、と。
考えるために拙が生きていると決定したわけではないが、今でもこれは覚えている。

そういう訳で、前回書いた人物の言動をバカバカしく思ってしまうのは必然であった。

ただでさえ鈍った感性をさらに鈍らせる現代社会の弊害から一歩も抜け出してはなかったのだと。

自慢話のようになってくるので、この話はここまでとする。


話が長くなったが、あなたがはっきりと自覚していない兆候というのは、あなたに対する警告であったり、反対に瑞兆だったりする。

そのシグナルは様々である。耳鳴りのスピリチュアル的意味とは?みたいなものに深く首を突っ込む必要はないが、長らく蓄積されてきた統計ではあるので、モノによっては参考にしてみるのもいいだろう。分かり易いのは体の痛みである。鬱屈した感情が体の各部位に痛みとなって出てくるという。


あなたの顕在意識というのは、言わば大人である。大人ぶっているというべきかもしれない。

そんなあなたの身体というのは、子供と同じである。ダメな子だと叱り続けられた子は、ダメな子に育つのは有名なところである。

自分の直感に従うというのがよくわからないという場合、手っ取り早いのが、普段こうしなくてはああしなくては、と思いがちなのを一度取りやめて、自身の身体という子供を褒めそやし甘やかせばよろしい。

子供というのは目を見張る存在である。驚異的ともいえる。
そしてまた、所謂大人となった存在もかつてはそんな子供であった。
生まれたての子供は泣いて乳をせがむだけなのに、褒めそやされるものである。

そんな生まれたままの子供が、自身の中にいるわけである。
生まれて尚且つ今も生きていることを喜ぶのが道理であろう。

道理が捻じ曲げられているのだから、狂氣と病氣が蔓延するのもまた、道理である。


では、よき終末を。