一昨日のことであった。少々現金が必要だったので駅前に向かった。夕方の4時過ぎだったか。
タバコを買ったりして、カフェに行こうかどうしようか考えたが、少々寒い。
カフェは少し離れている。では近くで軽く吞んでしまおうと、馴染みのネパール料理屋を覗いてみたら、ディナータイム開始直前だったが、入れてくれた。
しばらく呑んでから外で一服していると、女性が入口に立った。看板が準備中なのに気付いて引き返しかけたが、「僕もここで呑んでる途中なんで大丈夫ですよ」と入店を促したところ、何を呑んでるのかと雑談になり、その女性客もラム酒を二杯ほど飲んだりしたものだった。
そんなわけで陽気な気分になったので、ついオンラインゲームにログインして、おしゃべりをしてくるという有様であった。
ゲーム辞めたんじゃないのか?と問われそうだが、辞めなくてはならないものでもないし、やらなければならないものでもない。それぐらいである。
とはいえ、雑談だけで終わってしまったが。
さて。前回は題名に「遊びは地球よりも古い」とやったが、これは最後の方に引っ張り出してきた『ホモ・ルーデンス』の出だしのもじりである。
当初は「宇宙よりも古い」にする予定だったが、我慢した。我慢の子である。
何故そんな言い草をと?疑問に思われるかもしれないが、その事は後回しにする。
ご存知の方もおられるだろうが、「テレビなどの通信網を乗っ取って世の中の真相を暴露する放送が行われる」という話が数年前からあるという。
世の中の真相、というとどういうところまでなのか。その主体はアメリカだというが、他の国についてはどうなるのか?と色々と不思議に思えるところもある。何年か前にアマゾンで他の部族とまったく交流がない新発見された部族がいたというが、そういう人達にはなんと話したものか?などと冗談っぽく思ったものである。あるとして、その意義を疑っているというわけではない。
ただ、ある種の緊急放送が行われた国がある。先日、軍事政権になったミャンマーである。
内容は上記のように期待されているものではなく、何故軍事政権に移行することになったかを放送していたという。ミャンマー限定の話だと。
とはいえ、そういうことはやろうと思えば出来るのが現代といえなくもない。
世の中の真相というが、ひた隠しにされてきた話というものはかなりグロテスクである。所謂陰謀論といわれるものであるが、全てが正しいかはともかくとして、受け入れがたいからなのか大手の情報で流れないから事実無根なのか、デマだと言う向きもある。証拠を示しても前提が違うせいで受け入れようとしない、というのは普段でも起こり得る話ではある。
では、それまでの前提をどうして金科玉条とするのか?
おどろおどろしい言い方をすれば、洗脳である。そして、洗脳されている状態の人間は洗脳の自覚がない、というのは、別に某カルト宗教団体などに限った話ではない。
その前提を覆そうと他者に試みるのはよした方がよかろう。相手から聞きに来るなら対応すべし、とは思う。
こういう話は冗談だと思ってもらえる方がこちらとしてもありがたいので、以下に冗談をいくつか並べてみようと思う。
大手マスコミは本当のことしか流さないし、学校教育は生きていくのに必要で、それらから醸成された認識、つまり常識は疑うべからざるものであり、ニュートンから始まった古典物理はアインシュタインらが覆したが、覆した本人たちが疑義を呈しているから古典物理は本当で、医者は自身や家族にワクなんたらを打たないけど健康には問題がないので一般人には打つし、マスクはウイルスなんぞ突き抜けるけど何故か例のホラウイルスは防げるらしく、恐ろしい頻度で取り換えるのでもなければ着けっぱなしでは不衛生な上に酸欠で健康が阻害される恐れがひどく高いのだが健康上必要であり、某OS会社の創設者はワクなんたらに出資しているが専門家ではないのにニュース番組でその安全性を尋ねられたりしているし、目に見えないものは存在しないから訳の分からないものは無いのである。
と、途中で冗談が混じってしまったが、冗談である。
世の中の方が冗談染みているのは気のせいだろう。恐らく。
思想家の呉智英が言っていたと昔書いた話だが、科学というのは宗教だという話があった。
何故か?ある現象に対して「それは科学的ではない」と、何かの折に口にすることがあるかと思う。
しかし、その科学的という前提が科学的なのかどうかは考えた事が無い。そうだと教わってきただけなのである。
ガリレオが地動説を科学的に調べて主張した時、教会は何と言ったか?
「教義に反する」と、異端扱いにして葬ったものである。
「それは科学的ではない」という時、実は科学的な見解ではなく、「教義」を述べているに過ぎなかったのである。
世の非科学的と言われるもの全てに当てはめる必要はないが、そうなり得ることは往々にしてある。
この世は冗談がきついものである。
冗談を続けよう。
世の中には悪辣な人物や存在が必ずいるものだが、何故存在することになったのか?
どうしてそのような存在やそれに纏わる問題を目の当たりにすることになるのか?
この世はオンラインゲームと同じような状態だと先日書いた。
ゲームによるのだが、所属する陣営を選んで始める、というものがある。
敵対陣営の他のプレイヤーとは話すことが出来ないだとか、敵対陣営の領地に入るとNPC(ノンプレイヤーキャラ。例えるならドラクエの町や村の人)に攻撃されたりする。
さて。敵対陣営のプレイヤーの操作キャラたちとは戦うことになるのだが、敵対しているから相手は悪党でプレイヤーも人間じゃないのだ、とはならないだろう。それぐらい嵌り込むというのもあり得る話ではあるが、敵対していることは事実であっても、その中の話でしかないのである。
我々が生きている三次元の物理世界も、同じことだという。
では、どうして嫌な目に会ったりするのかというと、これがまたゲームの企画という奴である。
先日も書いたが、お化け屋敷は人を驚かせる場所であり、驚いたり怖がったりするのを楽しむのである。
いくら怖かったからといって、家に戻って晩飯を食べながら思い出して怖がり続けているのは異常であろう。
つまり。感情を醸成し体験するゲームが、我々が生きている世界なのだと言える。
体験であって、持ち物ではない。「ゲーム」内での通貨やアイテムが「現実」では使えないのと同じである。お化け屋敷の恐怖体験を自宅まで持ち帰るのは異常だとも既に書いた。
また、喜ばしいとされる体験も然りである。
これが大昔の宇宙の遥か彼方から現代の地球上に至るまで繰り返されてきたことなのだと。
遊びは地球より古いではなく、宇宙より古い、と書きかけた理由である。
冗談にしか聞こえないし、確認のしようもないが、世の真相というのは自分で感じ考えたものだけである。誰かが言っていた、何かに書いていた、というのは後付けと言えなくもない。ただし、大昔から続く感情育成のゲームだというのは、人から聞いた話だと言うのは白状しておく。
目に見えるものしか存在しないというのなら、鏡などの映るものが無ければあなたの顔は存在しないことになる。目で見る以外の方法で確認しているに過ぎない。
皮肉めいた自己矛盾であるが、矛盾を矛盾と感じないのも、というのはもうよろしいか。
唯物教からするとこの話は異端審問ものだろうが、「それでも遊びは宇宙よりも古い」とガリレオの如く述べるつもりである。
では、よき終末を。
タバコを買ったりして、カフェに行こうかどうしようか考えたが、少々寒い。
カフェは少し離れている。では近くで軽く吞んでしまおうと、馴染みのネパール料理屋を覗いてみたら、ディナータイム開始直前だったが、入れてくれた。
しばらく呑んでから外で一服していると、女性が入口に立った。看板が準備中なのに気付いて引き返しかけたが、「僕もここで呑んでる途中なんで大丈夫ですよ」と入店を促したところ、何を呑んでるのかと雑談になり、その女性客もラム酒を二杯ほど飲んだりしたものだった。
そんなわけで陽気な気分になったので、ついオンラインゲームにログインして、おしゃべりをしてくるという有様であった。
ゲーム辞めたんじゃないのか?と問われそうだが、辞めなくてはならないものでもないし、やらなければならないものでもない。それぐらいである。
とはいえ、雑談だけで終わってしまったが。
さて。前回は題名に「遊びは地球よりも古い」とやったが、これは最後の方に引っ張り出してきた『ホモ・ルーデンス』の出だしのもじりである。
当初は「宇宙よりも古い」にする予定だったが、我慢した。我慢の子である。
何故そんな言い草をと?疑問に思われるかもしれないが、その事は後回しにする。
ご存知の方もおられるだろうが、「テレビなどの通信網を乗っ取って世の中の真相を暴露する放送が行われる」という話が数年前からあるという。
世の中の真相、というとどういうところまでなのか。その主体はアメリカだというが、他の国についてはどうなるのか?と色々と不思議に思えるところもある。何年か前にアマゾンで他の部族とまったく交流がない新発見された部族がいたというが、そういう人達にはなんと話したものか?などと冗談っぽく思ったものである。あるとして、その意義を疑っているというわけではない。
ただ、ある種の緊急放送が行われた国がある。先日、軍事政権になったミャンマーである。
内容は上記のように期待されているものではなく、何故軍事政権に移行することになったかを放送していたという。ミャンマー限定の話だと。
とはいえ、そういうことはやろうと思えば出来るのが現代といえなくもない。
世の中の真相というが、ひた隠しにされてきた話というものはかなりグロテスクである。所謂陰謀論といわれるものであるが、全てが正しいかはともかくとして、受け入れがたいからなのか大手の情報で流れないから事実無根なのか、デマだと言う向きもある。証拠を示しても前提が違うせいで受け入れようとしない、というのは普段でも起こり得る話ではある。
では、それまでの前提をどうして金科玉条とするのか?
おどろおどろしい言い方をすれば、洗脳である。そして、洗脳されている状態の人間は洗脳の自覚がない、というのは、別に某カルト宗教団体などに限った話ではない。
その前提を覆そうと他者に試みるのはよした方がよかろう。相手から聞きに来るなら対応すべし、とは思う。
こういう話は冗談だと思ってもらえる方がこちらとしてもありがたいので、以下に冗談をいくつか並べてみようと思う。
大手マスコミは本当のことしか流さないし、学校教育は生きていくのに必要で、それらから醸成された認識、つまり常識は疑うべからざるものであり、ニュートンから始まった古典物理はアインシュタインらが覆したが、覆した本人たちが疑義を呈しているから古典物理は本当で、医者は自身や家族にワクなんたらを打たないけど健康には問題がないので一般人には打つし、マスクはウイルスなんぞ突き抜けるけど何故か例のホラウイルスは防げるらしく、恐ろしい頻度で取り換えるのでもなければ着けっぱなしでは不衛生な上に酸欠で健康が阻害される恐れがひどく高いのだが健康上必要であり、某OS会社の創設者はワクなんたらに出資しているが専門家ではないのにニュース番組でその安全性を尋ねられたりしているし、目に見えないものは存在しないから訳の分からないものは無いのである。
と、途中で冗談が混じってしまったが、冗談である。
世の中の方が冗談染みているのは気のせいだろう。恐らく。
思想家の呉智英が言っていたと昔書いた話だが、科学というのは宗教だという話があった。
何故か?ある現象に対して「それは科学的ではない」と、何かの折に口にすることがあるかと思う。
しかし、その科学的という前提が科学的なのかどうかは考えた事が無い。そうだと教わってきただけなのである。
ガリレオが地動説を科学的に調べて主張した時、教会は何と言ったか?
「教義に反する」と、異端扱いにして葬ったものである。
「それは科学的ではない」という時、実は科学的な見解ではなく、「教義」を述べているに過ぎなかったのである。
世の非科学的と言われるもの全てに当てはめる必要はないが、そうなり得ることは往々にしてある。
この世は冗談がきついものである。
冗談を続けよう。
世の中には悪辣な人物や存在が必ずいるものだが、何故存在することになったのか?
どうしてそのような存在やそれに纏わる問題を目の当たりにすることになるのか?
この世はオンラインゲームと同じような状態だと先日書いた。
ゲームによるのだが、所属する陣営を選んで始める、というものがある。
敵対陣営の他のプレイヤーとは話すことが出来ないだとか、敵対陣営の領地に入るとNPC(ノンプレイヤーキャラ。例えるならドラクエの町や村の人)に攻撃されたりする。
さて。敵対陣営のプレイヤーの操作キャラたちとは戦うことになるのだが、敵対しているから相手は悪党でプレイヤーも人間じゃないのだ、とはならないだろう。それぐらい嵌り込むというのもあり得る話ではあるが、敵対していることは事実であっても、その中の話でしかないのである。
我々が生きている三次元の物理世界も、同じことだという。
では、どうして嫌な目に会ったりするのかというと、これがまたゲームの企画という奴である。
先日も書いたが、お化け屋敷は人を驚かせる場所であり、驚いたり怖がったりするのを楽しむのである。
いくら怖かったからといって、家に戻って晩飯を食べながら思い出して怖がり続けているのは異常であろう。
つまり。感情を醸成し体験するゲームが、我々が生きている世界なのだと言える。
体験であって、持ち物ではない。「ゲーム」内での通貨やアイテムが「現実」では使えないのと同じである。お化け屋敷の恐怖体験を自宅まで持ち帰るのは異常だとも既に書いた。
また、喜ばしいとされる体験も然りである。
これが大昔の宇宙の遥か彼方から現代の地球上に至るまで繰り返されてきたことなのだと。
遊びは地球より古いではなく、宇宙より古い、と書きかけた理由である。
冗談にしか聞こえないし、確認のしようもないが、世の真相というのは自分で感じ考えたものだけである。誰かが言っていた、何かに書いていた、というのは後付けと言えなくもない。ただし、大昔から続く感情育成のゲームだというのは、人から聞いた話だと言うのは白状しておく。
目に見えるものしか存在しないというのなら、鏡などの映るものが無ければあなたの顔は存在しないことになる。目で見る以外の方法で確認しているに過ぎない。
皮肉めいた自己矛盾であるが、矛盾を矛盾と感じないのも、というのはもうよろしいか。
唯物教からするとこの話は異端審問ものだろうが、「それでも遊びは宇宙よりも古い」とガリレオの如く述べるつもりである。
では、よき終末を。