先日読んだ“その男”を佐藤隆介氏が解説している中に沢山いいことが書いてあった・・・・池波小説の中に引き込まれる要素はこれなのだと納得。
“その男”にも池波正太郎の変わることなき人間観が、随所に現れていると、いろいろな場面を切り取って解説してあった。
池本茂兵衛の口を借りて作者自身の考え方が出ている場面。
「世の中がいかに変わろうとも、人間の在り方に変わりはない」
「人というものはな、虎之助。いまだ獣なのだ。そりゃ、本も読むし、物ごとを考えもする。だが、この身体にそなわった機能(しくみ)は何千年、いや何万年も前から、すこしも変ってはいないのだよ。いいかえ、なればこそ、生きんがためには人と人とが殺し合いもしてのけるのだ。異国の鉄の船が日本へやって来たのもそれさ」
だから、わが子のように育て上げた虎之助に対し、「お前は、時世のながれが、いかに激しく変ろうとも、なおさらに変らぬ人として生きてもらいたい。これが、わしの、のぞみなのだ」
“その男”や“人斬り半次郎”にも書き込まれている江戸の人間(作者自身)のものの考え方が出ている場面
人斬り半次郎と異名をとった豪傑が維新後、東京に出てきて名も立派な桐野利秋となり押しも押されもしない陸軍少将となったが、利秋が慕っている“お秀”なる江戸女の言葉に
「人間(ひと)に、むかしもいまもあるものか」「そんな毛唐の着物を着て、靴をぴかぴかに光らせて、見ていて顔が赤くなるほど御大層な刀を腰にぶら下げ、鼻の下へつまらぬものを生やし、えばり返っていようとも、だめ、だめ」
と言うのがある。
この後、利秋は髭をそり落とす・・・・・
叔父の金五郎と虎之助の会話にはこんなのがある。
「寝る場所と、女を抱く場所と、酒を飲む場所・・・・・この三つは、どんな野郎にとっても欠かせねえものだからね。そうだろう、虎よ」
「その三つが、どこのだれにもうまく行きわたった世の中ならば、さわがしくもなりますまいがね」
人間の幸福とは、煎じ詰めれば結局これだけのものだと作者は言っているのだと
作者はさらに池本茂兵衛の口を借りてこんなふうにも言っている。
「日本人というのは、虎之助。白と黒の区別があっても、その間の色合いがない。白でなければ黒、黒でなければ白と、きめつけずにはいられないところがある。しかしな虎之助。人の世の中というものは、そのように、はっきりと何事も割り切れるものではないのだよ。何千人、何万人もの人びと、みなそれぞれに暮らしもちがい、こころも身体もちがう人びとを、白と黒の、たった二色で割り切ろうとしてはいけない。その間にある、さまざまな色合いによって、暮らしのことも考えねばならぬし、男女の間のことも、親子のことも考えねばならぬ。ましてや、天下をおさめる政治(まつりごと)なら尚さらにそうなのだ」
男はあくまでも男、女はあくまでも女、それが彼らの時代の根本であった。
「男なればこそ女のために、女なればこそ男のために、尽くすこころ・・・・・」
池波小説には、これがキチンと描かれているからこそ、現代の男女すべて一緒という考え方と違って、日本人であるがゆえに引き込まれる魅力があるのだと思える。
男尊女卑と言う考え方ではないが・・・・・・・
晩年の主人公・虎之助はこう述懐している。
「いえ、いかに文明開化の世がやって来ようというときでも、人のこころなぞというものは愛憎のおもいから一歩もぬけ出すことができるものじゃございません。
愛憎のおもいというものがわいてこぬ人は、もう人間じゃない。そう考えますね。よろこびも憎しみも、そして悲しみも、みんな上の空というやつ。こういう人間は、どうも私どもにはぴったりとまいりません・・・・」
これらのすべてが、作者池波正太郎の持論と言ってもよいだろうとの解説。
戦後、米国民主主義が入ってきて、その上っ面だけを取り込んだ日本、物事を合理的にのみ考えようとしている日本、わずかばかりのゆとりも生まれてこない日本、人と人との触れ合いがないがゆえに殺伐たる世になった日本、さらに駄目にした現政権・・・・・・・。
江戸人気質の作者が日本の変りようを嘆き、小説の世界で本来の日本人気質を書き込んでいるからこそ、日本人の魂に響き、忘れかけていた思いを取り戻させてくれるのであろう。
だからこそ、それぞれの登場人物が人間らしく生きいきとしていると感銘を受けてしまうと・・・・・・・・改めて考えさせられた。
真田昌幸、信之と幸村、女忍びのお江、草のものの又五郎、山中俊房、女忍びお蝶、丹波大介、清正、正則と小たま、長谷川平蔵、甲賀忍び丸子笹之助、信玄、半次郎、お秀、隆盛、茂兵衛、虎之助、礼子、お照・・・・・・どの人物を切りとっても、人間らしく魅力一杯に書き込まれている。
“人斬り半次郎”“賊将”は官軍から賊軍へ、“その男”は江戸の賊軍の眼から、“真田太平記”も敗軍の将、忍びの女なども正則の苦悩・・・・・・これら敗れし者の立場から書かれていることも共感を呼ぶのかもしれない(夫)
“その男”にも池波正太郎の変わることなき人間観が、随所に現れていると、いろいろな場面を切り取って解説してあった。
池本茂兵衛の口を借りて作者自身の考え方が出ている場面。
「世の中がいかに変わろうとも、人間の在り方に変わりはない」
「人というものはな、虎之助。いまだ獣なのだ。そりゃ、本も読むし、物ごとを考えもする。だが、この身体にそなわった機能(しくみ)は何千年、いや何万年も前から、すこしも変ってはいないのだよ。いいかえ、なればこそ、生きんがためには人と人とが殺し合いもしてのけるのだ。異国の鉄の船が日本へやって来たのもそれさ」
だから、わが子のように育て上げた虎之助に対し、「お前は、時世のながれが、いかに激しく変ろうとも、なおさらに変らぬ人として生きてもらいたい。これが、わしの、のぞみなのだ」
“その男”や“人斬り半次郎”にも書き込まれている江戸の人間(作者自身)のものの考え方が出ている場面
人斬り半次郎と異名をとった豪傑が維新後、東京に出てきて名も立派な桐野利秋となり押しも押されもしない陸軍少将となったが、利秋が慕っている“お秀”なる江戸女の言葉に
「人間(ひと)に、むかしもいまもあるものか」「そんな毛唐の着物を着て、靴をぴかぴかに光らせて、見ていて顔が赤くなるほど御大層な刀を腰にぶら下げ、鼻の下へつまらぬものを生やし、えばり返っていようとも、だめ、だめ」
と言うのがある。
この後、利秋は髭をそり落とす・・・・・
叔父の金五郎と虎之助の会話にはこんなのがある。
「寝る場所と、女を抱く場所と、酒を飲む場所・・・・・この三つは、どんな野郎にとっても欠かせねえものだからね。そうだろう、虎よ」
「その三つが、どこのだれにもうまく行きわたった世の中ならば、さわがしくもなりますまいがね」
人間の幸福とは、煎じ詰めれば結局これだけのものだと作者は言っているのだと
作者はさらに池本茂兵衛の口を借りてこんなふうにも言っている。
「日本人というのは、虎之助。白と黒の区別があっても、その間の色合いがない。白でなければ黒、黒でなければ白と、きめつけずにはいられないところがある。しかしな虎之助。人の世の中というものは、そのように、はっきりと何事も割り切れるものではないのだよ。何千人、何万人もの人びと、みなそれぞれに暮らしもちがい、こころも身体もちがう人びとを、白と黒の、たった二色で割り切ろうとしてはいけない。その間にある、さまざまな色合いによって、暮らしのことも考えねばならぬし、男女の間のことも、親子のことも考えねばならぬ。ましてや、天下をおさめる政治(まつりごと)なら尚さらにそうなのだ」
男はあくまでも男、女はあくまでも女、それが彼らの時代の根本であった。
「男なればこそ女のために、女なればこそ男のために、尽くすこころ・・・・・」
池波小説には、これがキチンと描かれているからこそ、現代の男女すべて一緒という考え方と違って、日本人であるがゆえに引き込まれる魅力があるのだと思える。
男尊女卑と言う考え方ではないが・・・・・・・
晩年の主人公・虎之助はこう述懐している。
「いえ、いかに文明開化の世がやって来ようというときでも、人のこころなぞというものは愛憎のおもいから一歩もぬけ出すことができるものじゃございません。
愛憎のおもいというものがわいてこぬ人は、もう人間じゃない。そう考えますね。よろこびも憎しみも、そして悲しみも、みんな上の空というやつ。こういう人間は、どうも私どもにはぴったりとまいりません・・・・」
これらのすべてが、作者池波正太郎の持論と言ってもよいだろうとの解説。
戦後、米国民主主義が入ってきて、その上っ面だけを取り込んだ日本、物事を合理的にのみ考えようとしている日本、わずかばかりのゆとりも生まれてこない日本、人と人との触れ合いがないがゆえに殺伐たる世になった日本、さらに駄目にした現政権・・・・・・・。
江戸人気質の作者が日本の変りようを嘆き、小説の世界で本来の日本人気質を書き込んでいるからこそ、日本人の魂に響き、忘れかけていた思いを取り戻させてくれるのであろう。
だからこそ、それぞれの登場人物が人間らしく生きいきとしていると感銘を受けてしまうと・・・・・・・・改めて考えさせられた。
真田昌幸、信之と幸村、女忍びのお江、草のものの又五郎、山中俊房、女忍びお蝶、丹波大介、清正、正則と小たま、長谷川平蔵、甲賀忍び丸子笹之助、信玄、半次郎、お秀、隆盛、茂兵衛、虎之助、礼子、お照・・・・・・どの人物を切りとっても、人間らしく魅力一杯に書き込まれている。
“人斬り半次郎”“賊将”は官軍から賊軍へ、“その男”は江戸の賊軍の眼から、“真田太平記”も敗軍の将、忍びの女なども正則の苦悩・・・・・・これら敗れし者の立場から書かれていることも共感を呼ぶのかもしれない(夫)