もう彼此二週間程前のこと。 懐かしい友人から電話がきました。
彼女の実家は、あの大震災の大津波で大変な被害にみまわれた女川です。 ご両親二人暮らしの実家だったはず・・・
気になっていたものの、なんか恐くて連絡出来ずにいてそのまま八か月以上が過ぎていました。
「石〇です。」 と受話器からの声を聞いた途端、「久しぶりだね!」 などと言う月並みな挨拶はどこかへ飛び、「どうだった!? おとうさんとおかあさん。」
彼女は淡々と報告してくれました。 実家は流されご両親とも亡くなってしまったこと。 おかあさんは見つかったけれど、おとうさんは未だに行方不明のままだそうです。 「海のどこかに流されていったのかもしれないね。いつか採れた魚からおとうさんのDNA出てきたりしてね、なんてみんなで話してるの。」 と実に淡々と話す彼女でした。
あんなに大被害の女川だったので、もしかして・・・ と思ってみたり、いやM子は大丈夫だったんだからご無事かもしれないと思ってみたり、でも現実は惨いものでした。 見つからないおとうさんのお葬式も済ませたそうです。
そしてもうひとつ・・・ その知らせには、あまりに思いもよらない事だったので、言葉を失うってしましました。
旦那さんも津波で亡くなっていたのです。 後二年で定年という昨年春に、毎日窓から海が見える職場に転勤したのだそうです。 そして新しい職場もそろそろ一年が過ぎようとしていた、あの3月11日、帰らぬ人となりました。
後一年で定年だったのに・・・ 友人夫妻は旦那さんが単身赴任のため一緒に過ごせるのは週末くらいだったので、定年後は家に戻りいろいろやりたい事など考えていたかもしれません。
旦那さんは読書好きで、ノートにこんな言葉を残していたそうです。
『今日の落花は来年咲く種とやら』 (会津藩士 秋月悌次郎の言葉) ... 一度枝を離れた落花は二度と咲くことはできないが、来年咲く花の種になることはできる。
彼女はこの言葉を胸に刻み、今自分にできることを日々考えながら過ごしていると電話口で気丈に語っていました。
中々泣けないそうです。
淡々とした語り口と気丈さが、わたしには逆に気になってしかたありません。
電話を切ってから、あっ・・ と気づいた言葉でした。
「もう 金曜日にごはん作らなくてもよくなったし...」
そういえば、会議で一緒だった金曜日によく言っていたっけと。 家に帰ってくる旦那さんの夕飯を用意するのが、毎週金曜日、彼女に一つ増える特別なことでした。
いつも決まり事のように行われていたことが、突然やらなくてよくなってしまった。
「もう 金曜日にごはん作らなくてもよくなったし...」
彼女の悲しみや悔しさはわたしの想像以上はいうまでもありませんが、わたしもなんだか心の中がいつまでも痛いです。
これを書くのに二週間以上・・・