ある日ふと聴こえてきた 槇原敬之さんの ♪「どんなときも」
どんなときもどんなときも 僕が僕らしくあるために
「好きなものは好き!」 と言えるきもち 抱きしめてたい
「好きなものは好き!」 と言えるきもち・・・ それが大事、自分が自分らしくある為に。
今から六年程前(これは2008年に書いた文章)までのわたしは、少し人生を前のめり気味に生きていた。
あの時(2002年)、病気(うつ病)にならなかったら、そのまま つっぱしり人生を走り続けていたかもしれない。
いや、どこかでやっぱり 破綻しただろう。
病気は、、無理しすぎず 自分の気持(心からの声)に正直に 肩の力を抜いて、もっと楽に生きられる生き方をアドバイスしてくれた。
伸ばしても 縮む余裕があることの大切さ。
引っ張りすぎれば 縮まなくなる。
それをそのまま引っ張り続けたら 終いには切れるだけのゴム紐のよう。
病気はまたわたしに 休息と今までの自分を深く振り返る機会をくれた。
こう思えるのも、あの凄くしんどかった時期が もうすっかり過去のものになったからだろう。
辛い日々をじっと縮こまってやり過ごしていた頃に読んだ本の中の一冊 (『不完全でいいじゃないか!』 伊波真理雄・石村博子共著 講談社)。
その中のこんな言葉が心をとらえた。 わたしもそうじゃないかって。
『 わたしが成長過程で学ばなければいけないのは、次の三つのことだけです。
(自分の) 好きなもの、嫌いなもの
(自分にとって) 意味があるもの、ないもの
(自分に) できること、できないこと 』
“できない” と 認めたり 割り切ったりするのが わたしには結構難しいことだった。
“やればできるかも” と思ったり、やら “ねばならぬ” と 自分を追い込んだり・・
そんな状況でもやってみたら、できた。 できることが結構あるものだった。
しかしできたと言っても、そうするためには100%以上の力を絶え間なく注いでいないといけなかった気がする。
(描いたことも忘れていたこんな絵
が思いがけなく押し入れから出てきた。 当時のわたしの心理状態がよく分る。 絵は上手くないな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/a4/f5c572d0a3dbf4f21d62f8261a1a785a.jpg)
複数の団体の責任者的役割、そして様々な運動の牽引的役割・・ ホントに頑張っていたと思う、でもいっぱいいっぱいでもあった。 そんな「わたし」がよく表れている。 うつ病で活動から離れてしばらくした頃、友人がメールをくれた、今でもたまに葉書きを出し合っているレトロな ”文通の友” から。 ーあなたのしてきた結果は、わたしは、本当に凄いと思います。 ただ、自分のことも考えていればとも思いますが。 自分を大切にしながら、生活なり活動なり考えていいと思います。- 13年ぶりにこの文章を見つけ、今のわたしが読んだ。 ありがとう!の気持ちに満ちた、また13年ぶりにあの頑張ったことを認めてもらえた気がして、勇気と自信をもらった気がした。 ・・・・・・ 挿入が長くなってしまった、でも留めておきたいと思うから。)
通院した時、ドクターにいわれた最初の言葉。 「あなたの病気は、がんばり病です。 もうがんばらなくていいんですよ。」
すごくほっとして、すごく楽になれた気がした。
また、「休む事は、サボる事ではないんですよ。サボると言うと、何か後ろめたい気持ちが出てきて、また辛くなるでしょう。」 って。
「あなたは今、エネルギーが切れた状態なのだから、エネルギーがたまるまで、ゆっくり休めばいいんです。 自分を大事にしてくださいね。」 と。
自分を大事にする? 改めて考えた。
そして、「随分がんばってきたよね、わたし!」 と、こころの傷にも手を当てながら自分を純粋に誉めた。
病気がマイナスかプラスかと言えば、マイナスなのかもしれない。 でも、考えようによっては とても大事な気付きをプレゼントしてくれることがある。
どんな病気もそうじゃないだろうか。
病気になると “何気ない普通の生活” がどれ程最高に幸せかということも見えてくる。
たとえば、、朝起きれること。 たとえば、、夜布団に入ったらそのままゆっくり眠れること・・ 食べれることも そう。
こんなことが当たり前にできるということが、本当は すごく幸せ なんだってこと。