「どれだけ長生きするかということは、
本質的にはまったくどうでもいいことだということがはっきりするでしょう。
長生きをしたからといって、
人生はそれだけではかならずしも意味のあるものにはならないのです。
また、短い生涯に終わっても、
ずっと意味のある人生だったかもしれません。
あるひとりの人の自伝を判断する基準は、
その自伝を叙述した書物のページ数ではなく、
もっぱらその書物が秘めている内容の豊かさだけです。」
V・E・フランクル
「どれだけ長生きするかということは、
本質的にはまったくどうでもいいことだということがはっきりするでしょう。
長生きをしたからといって、
人生はそれだけではかならずしも意味のあるものにはならないのです。
また、短い生涯に終わっても、
ずっと意味のある人生だったかもしれません。
あるひとりの人の自伝を判断する基準は、
その自伝を叙述した書物のページ数ではなく、
もっぱらその書物が秘めている内容の豊かさだけです。」
V・E・フランクル
昨年思うところがあって二冊の本を読んだ。
『毒になる親 一生苦しむ子供』 スーザン・フォワード著 玉置悟訳
『不幸にする親 人生を奪われる子供』 ダン・ニューハース著 玉置悟訳
名探偵コナン?にでもなった気がする程、様々な謎解きができた気がしている。
わたしとわたし側の家族のこと、夫と夫側の家族のこと。 そして(その影響を引きずった)今の家族のこと。
二冊に挟まれた何十枚もの付箋。
もう一度さらさらとくらいに読みながら、自分の中でまとめてみたい思いもあったけれど、ここ数か月、時間と気持ちに余裕がなく保留のままになっていた。
最近また考えるところがあり、開いてみようかと。
本を再読する前にネット調べてみたら、専門的にわかりやすくまとめておられる方に出会ったので、引用させていただくことにした。 (わたしの主観で太字にさせていただいた箇所あり)
親子・毒親問題専門カウンセラーの影宮竜也氏。
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どんな親が毒親なのか?
『子供に過度な暴力を振るう親』 『育児放棄をする親』 『性的な行為を子供にする親』
一般的に、このようなわかりやすい形での、『子供に過度な悪影響を与える親』をイメージする人が多いのではないでしょうか。
実はそれだけではありません。 何度も繰り返しますが、『子供の人生に悪影響を与える親はすべて毒親であること』
実は親自身がそのことに気づいていないだけで、毒親に該当する可能性は十分にあります。
◆家族の中で絶対的な存在として君臨する親
常に子供を監視し、子供の行為に口を挟み、自身の価値観を押し付ける親も立派な毒親です。
『親の言うことを聞いて置けばよい』 『親に逆らうのか?』 『親の言うことが聞けないのであればご飯は抜き』 『親に逆らうなら勘当だ』
このように親の持つ権威を前面に押し出して、子供を威圧する親は子供の心に不安や恐怖の種を植え付けるようになります。
『でも、親ってそんなものじゃないの?』 そう考える人も多いのが日本の親子関係の特徴でもあります。 しかしもう一度よく考えて見てください。
『そんな親が多いからといって、その行為が正当化される訳ではないことを』
子供の心に不安や恐怖の種を植え付ける原因となる行為は、どんな理由があれ避けるのが親として当然の行為ではないでしょうか
特に衣食住に関する罰を子供に強要する親の元で育てられた子供は、常に心の中に物質的なものに対する不安を人生の中で抱え続けるようになりますので、衣食住に関する罰を与えて子供を従わせることは子供の人生を狂わせる大きな要因になります。
例 (ご飯抜き)や(出て行け) などの罰は、幼少期の子供の心に強い不安や恐怖を与えることになり、子供自身の心に傷をつけてしまうことにつながります。
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◆言葉で子供を抑圧する親
『親の言うことを聞かない子はいらない』 『あなたはブサイクだから』 『あなたは頭が悪い子供だから』
このような言葉を悪気がなくても、子供に投げかける親も問題のある親です。
親の発する言葉は、どんな言葉であれ子供の心に刻まれ人生に大きな影響を与えます
『お前は馬鹿だから』 『弟と比べてお前は顔が悪い』 『運動神経が鈍い』 ・・・
今でも親が私に浴びせた言葉は、私の心の中で傷として残っています。
『私は頭が悪いから』 『見た目はそんなに良くないし』 『運動神経も悪い』
大人になっても、私の心の奥底にはこのように、『自分を卑下する言葉』 として刻まれています
多分、この言葉を子供に投げつけた当人は、『子供がどんなに傷ついたか?』 なんて考えもしないでしょう。
でも子供の心にはその言葉の傷はしっかり刻み込まれるのです。
言葉が乱暴な親は、『物事を深く考えずに乱暴な言葉遣う』 という特徴があります。
◆親の役割を果たさない親
親の役割とは一体なんでしょう? 『子供の衣食住そして心の安定を常に考え、支える』 よくこんな言葉を子供に言う親がいます。
「誰がここまで育てた!」 「学校に行かせたのに恩知らずが!」 「お前らのために嫌な仕事でも我慢しているんだぞ!」
確かに子供一人をきちんと育てるには、それなりの費用と手間隙がかかることは事実です。 しかし子供に恩着せがましく言うことは言語同断です。
『子供に恩を返すように強要する親は、親として大きな問題を抱えている親』
言われなくても、親から大切に育てられた子供は自然に親に感謝します。
逆に、親から虐げられた子供は、『表面的に親に恩を感じる素振り』 をしても 心の奥底では恩よりも憎しみの方 が強く残っています。
感謝を子供に強要する親の下で育った子供は、常に自分を押し殺し、感情を失ってしまうようになります。
「親に育ててもらったから、多少のことは我慢しなければならない」 「納得いかないことばかりあるけど親だから」
自分の本当の感情に蓋をしてしまい、自分の判断よりも、「親が許してくれるかどうか?」 ばかりを考えて生きてしまうので、常に人生で生き辛さを抱えてしまいます。
また親といっても一人の人間ですのでイライラしている時に、その感情を子供にぶつけてしまうこともあるでしょう。
しかし、『それが日常的に行われるようになると子供の心は壊れてしまいます』
子供は親のどんな理不尽な行動も否定することはできません。 子供にとって親は大切な人です。
「その大切な人を否定することは子供にとって、死にも等しい行為であること」 を忘れないでください。
◆子供を支配する親
子供のやることなすことに、あれこれ口や手を出す親がいます。
「親の言うことに逆らうのか!」 「お母さんの言うとおりにすれば安心だから」 「子供の癖に生意気な」
このように子供を支配する親は意外に多いものです。 『支配や過干渉』
確かに子供を危険から守るために注意することも親の義務とも言えます。
しかし、過度な支配や干渉は子供から 生きる力を奪う 行為につながります。
『人は失敗や成功体験を重ねて、生きる力を身につける』 過度な干渉や支配は 子供が経験から学ぶ機会 を奪うことにもつながります。
「子供のためを思って」 よく進学や就職の際に子供の決断に口を出す親がいます。
「県外で就職することは許さん」 「女は大学に行かなくても良い」 「そんな誰も知らない小さな会社に就職するなんて許さない」 「あんな人との結婚は認めない」
親の一方的な価値観を子供に押し付けることは、子供の人生を壊すことにもつながります。
「子供の決断に耳を貸さずに否定するだけの親は子供の人生を奪う行為」 「子供の決断を常に否定する行為は子供から生きる気力を奪い去る」
子供の人生の責任が取れるのは子供だけです。 親は子供の人生の責任を取ることはできません。
私の元を訪ねてこられる相談者の方がこう言います
「親の言う通りに生きてきたのに少しも幸せになれない。 先生、私はこれからどう生きていけば良いのでしょうか。 親が憎くて仕方がありません。」
親に人生を支配された子供の悲しみに触れるたびに、「親は一体何を根拠に自分の正しさを子供に押し付けるのだろうか」 と私の中に強い怒りがいつも湧き上がります。
◆暴力をふるう親
町を歩いていると、子供を叩く振りをして威嚇する親をたまに見かけることがあります。
そのときの子供の表情を見ると、とても怯えた顔をしています。
私自身も子供を叩くことが何度かありました。(お尻を叩くなどで、頭を叩くことはありません) 子供を叩くことで、親も胸を痛めるものです。
しかし、子供を叩きなれた親はそれが当たり前になってしまうことで、どんどん行為がエスカレートすることもあり、また子供自身も叩かれることに慣れてしまうことで暴力がエスカレートしていくことがあります。 (最初はお尻を叩いていたが、言うことを聞かないので頭を叩くようになる)
『躾と称して暴力を肯定する親は毒親』 だと言うことを認めることは悪いことではありません。
他人に暴力を振るわれた時は許せないことが、親であるから許される訳ではありません。 これは言葉も同様です。
◆性的な行為をする親
もう、これはわかりきったことかもしれませんが大きな問題でもあります。
ただ以下の行為も含まれることを知っておく必要があります。
・親の浮気を子供に知られる ・親自身の性的行為を子供に見られる ・思春期の子供の身体的成長について指摘する ・親の性的体験を子供に匂わすような話をする
これらも、『性的虐待』に含まれます。 親にとっては何気ないことでも、子供の心に深く傷が刻み込まれることもあるのです。
『あまり深く考えていなかったけど、こんなことも子供を傷つける要因なのか・・・・・・』
親そして傷を受けた子供の立場、それぞれ思うことがあるのではないでしょうか?
『子育ては人生の大仕事』 子供は勝手に育つものではありません。
親が育てたように成長していきます。
「子供はどんなにひどい親であっても、その親の思考や行動を自らの中に取り込んでしまう」
このことを忘れないでくださいね。
毒親問題は何世代にも渡って引き継がれてしまう大きな問題です。
親から子 そして孫・・・ 誰かが気付かない限り 子々孫々まで苦しめられます。
「毒親問題を考えることは 親としての姿、そして自身の心の歪みを見つめる」 ことでもあります。
親との間で確執がある親御さんはぜひ真剣に、この問題について考えて頂ければと思います。
「我が子の幸せを本当に願うなら」
昨年12月に『「自閉症の君が教えてくれたこと」 東田直樹 』 というNHKスペシャルをたまたま見る機会があった。
東田さんの存在をその時初めて知った。
彼から発せられる言葉は、わたしの心の琴線に触れた 。
僕は人の価値観は死を前にしても、そんなに簡単に変わらないと思います。
価値観とは、積み重ねた人格のようなものだからです。
僕は、命というものは大切だからこそ、つなぐものではなく完結するものだと考えている。
命がつなぐものであるなら、繋げなくなった人はどうなるのだろう。
バトンを握りしめて泣いているのか、途方にくれているのか。
それを思うだけで僕は、悲しい気持ちになる。
人生を生き切る。
残された人はその姿を見て、自分の人生を生き続ける。
また、
「人はどんな困難を抱えていても、幸せを見つけ生きることができる」と。
この言葉にわたしは ヴィクトール・E・フランクルを思い出していた。
ナチスによるユダヤ人強制収容所から奇跡的な生還を果たしたヴィクトール・フランクル。 彼の著書 『夜と霧』 は、何回読んでもわたしのバイブルのようだ。
改めて読んでみたいと思っている。 名著14 フランクル『夜と霧』(NHK)
例えば、、こんなことが書かれている。
〈第2回 どんな人生にも意味がある〉
私たちは、自由で自己実現が約束されている環境こそが幸せだと思っている。 しかし災害や病気などに見舞われた時、その希望は潰える。 収容所はその最悪のケースだ。
しかしそれでも、幸せはまだ近くにあるのではないかとフランクルは考えた。 人間は欲望だけではなく、家族愛や仕事への献身など、様々な使命感を持って生きている。
どんな状況でも、今を大事にして自分の本分を尽くし、人の役にたつこと。 そこに生きがいを見いだすことが大事なのではないかとフランクルは考えた。
そして医師としてチフス患者の病棟で働きながら、仲間たちに希望の持ち方を語った。
私たちはみんな想像力をもらって生まれています。
しかし、想像力は絶えず鍛えていないと衰えるもの。
想像力を鍛えるには、どうすればよいか。 それは本を読むことなのです。
私たちはなぜ芝居や映画を観るのか。 なぜそれらは存在するのか。
それは想像力を養えるからです。
私たちは、ひとつの人生しか生きることはできません。
どんなに欲張っても、ひとつしか生きられない。
しかし、本を読み、芝居を観、映画を観れば、自分が生きたのではないけれども、
人にはこういう生き方もある、こういう暮らしをした人もある、、、 ということが教えられますでしょう。
本の文章の行間や、役者さんのしぐさ、あるいはクローズアップされた俳優さんの表情の奥にあるものを、想像力で教えられる。
想像力のない、想像力のとぼしい人間がたくさん出てくると人間社会はぎくしゃくしてダメになります。
想像力がないと、相手への思いやりは生まれません。
思いやりは想像力から生まれます。
『こころを贈る 瀬戸内寂聴 寂聴 あおぞら説法』
「想像力は鍛えてないと衰える」・・・ 確かに!
そして想像力が豊かな方が、人生やっぱり楽しい気がする。
さてお楽しみと言えば、今夜台湾へ出発。
おいしいものをいっぱい食べてこようと思う
10月は十朱幸代さんの一人芝居『 司馬遼太郎 燃えよ剣 』。
11月は、フジコ・ヘミング ピアノリサイタルだし、毎月お楽しみが続く。
12月は、、、、 楽しんでお正月の準備でもしようかな。
あっ、大腸内視鏡検査があった、お楽しみというわけではないけれど。
そうそう、「鍛えてないと衰える」・・ といえば、心あたりは文章力だ。
例えば、
東京から博多まで新幹線に乗っていっても、
ずっと寝ていれば、何も感動がない旅かもしれない。
けれど、名古屋まで乗ったとしても、途中右手の美しい富士山の姿を見たとする。
それはとても美しい経験と言えるのではないだろうか。
つまり、長い旅だからといって必ずしも充実しているとは言えないのではあるまいか。
むしろ旅が短くとも、充実した旅にするように、みな旅行をする時は考えるのではないだろうか?
人生も同じことなんじゃないだろうか。
長生きは素晴らしいが、わたしはそれがベストだとは思わない。
最近多い、強制的に栄養を与えられ生きている長生きは、個人的にはどうなんだろうといつも思っている。
一分一秒でも長く生きることよりは、良く生きること、
すなわち「良生き」(よいいき)を目指したいものだ。
もちろん早死にしては困る。 そこは「バランス」だ。
けれども、良い人生が送れていれば、そうでない場合に比べて、病気になったとしても、
「治す」気力が湧いてくるだろうし、例え治らなくなってしまったとしても、
旅程を満足して振り返ることができるのではないだろうか。
死を見つめることで生を思い、
その意味を考えることが、生を充実したものにするのである。
『あなたは考えたことありますか?
死ぬときに人はどうなる 10の質問』 緩和医療医 大津秀一著
もしお家でお子さんに 「何のために生きるの?」 と聞かれましたら
「誰かを幸せにするために生きるのよ」 と答えてあげてください。
「あなたが生きて、あなた一人がそこにいるために、周囲の誰かが幸せになるような人になってね」 と、教え導いてあげてください。
その人がそこにいるだけで周囲の誰か一人でもいい、二人でもいい。
周囲に人がいなかったら、猫でも犬でもいい。
本当にその人がそこにいるだけで 周りの人が少しでも幸せになる。
そういう人こそが 世の中で求められているんです。
気をつけてご覧になると皆さんの周りには、必ずそういう人がいます。
いつでも黙々として 人のために働いてくれている人。
みんなが嫌がることを、進んでそっとやってくれる人。
そういう人こそ、本当に必要な人間なんです。
決して肩書なんかではありません。
誰か一人を幸せにする能力のある、愛のある人になってくれと念じて育ててください。
それが子どもにたいする 本当の親の愛だと思います。
「こころを贈る 瀬戸内寂聴 寂聴 あおぞら説法」
相田みつをさんの詩を 思い出した。
~ ただいるだけで ~
あなたがそこに
ただいるだけで
その場の空気が
あかるくなる
あなたがそこに
ただいるだけで
みんなのこころが
やすらぐ
そんな
あなたに わたしも
なりたい
人間には変えられない寿命がある。
どんなにあなたが愛する人でも、あなたが自分の命をあげてでも救いたい人であっても、人間には定まった命というものがあって、その時が来れば、その人は亡くなる
これを仏教では ”定命” と言います。
人間の寿命は、オギャアとこの世に生まれてきた時点で定まっていて変えることはできません。
そして、寿命は、人間には測りがたい、予測しがたいものなのです。
どんな立派で、人に愛されていても早死にすることがあります。
強欲で嘘つきで、その人の顔を見るだけで周囲が暗くなるような人が長生きすることもあります。
かわいい幼な子が事件や事故に巻き込まれて、殺されることだってあります。
あなた自身だって、いつ死ぬかわかりません。
今ここで、みんなで一緒にわたしの法話を聞いて笑っていますけれども、明日には事故で死ぬかもしれません。
わたしのほうが今夜死ぬかもしれません。
ですから、死を恐れすぎたり、愛する人の死をいつまでも悲しまないでください。
明日のことで思い悩んでも、しょうがない。
過ぎたことを、いつまでもくよくよしていてもしょうがないのです。
亡くなった人のことを忘れないということが供養になるのです。
でも、あんまり悲しむと仏様になった人の魂が成仏できません。
あなたが幸福になることを、亡くなった人は祈ってくれているのです。
「こころを贈る 瀬戸内寂聴 寂聴 あおぞら説法」
昨年義父のお葬式でお坊さんが同じようなことを話された。
今思えば、定命についての話だったのだろう。
「人間の寿命は、オギャアとこの世に生まれてきた時点で定まっていて変えることはできない。」
あの時は、あぁそうなんだと、自然と心に落ちていった。
とてもいいお話を伺った気がした。
『あなたは考えたことありますか?
死ぬときに人はどうなる 10の質問』 緩和医療医 大津秀一著
「先生、友達のお見舞いに行っていいのでしょうか?」 と質問される。
さすがに家族だと見舞いにはいきやすいものの、友達だと遠慮もあり、
どれだけの頻度でお見舞いに行くべきなのか、迷惑ではないのか等々と色々悩むようなのである。
しかし、まずは行ってみなければ始まらない。
特に重病の場合は、会う機会を逸してしまう場合もすくなくない。
わたしのアドバイスは、こうである、
「いつどうなるかわかりませんよ。 まずは会いに行ってあげて下さい」。
するとこう躊躇される。
「病状が重いから、患者にも家族にも迷惑かもしれない」
「自分が弱った姿を見せたくないかもしれない」
「頻繁に行くと、病気が重いのかなという印象を与えてしまう」と。
だが、まずは行ってみて、聞いてみないと始まらないのである。
会いに行ったときに必要なのは、出来るだけ自分に正直になることである。
今患者が何を苦しみ、何を求めているのか、それをしっかり聞くということだ。
もっとも患者の性格や、これまでの病者との関係もあるので、いつでも本当の思いが聞けるとは限らない。
しかし、気持ちをわかろうとしてくれる存在がいるというだけでも病者は救われるだろう。
・・・・・ 頭ごなしに「こうしたほうが良い」とかアドバイスしたり、「頑張れ」
「もっと食べたほうが良いよ」等やみくもに励ましたりするのは避けたほうが良い。
例えばあなたが三日三晩不眠不休で帰ったとする。 その時に頭ごなしに、
「疲れてる? 疲れやすいのなら、もっと運動したほうが良いよ」とか「頑張れ」とか、
食欲がないのに「もっと食べたほうが良いよ」と、こちらの言葉を紡ぐ前に言われた場面を想像してみてほしい。
・・・・・
死の間際の患者さんにとって一番うれしいことは何か?
それはちゃんと会いに来てくれて、そのままを受け入れてあげることである。
「もし患者に、自分の人生の意味は何なのだ、と聞かれたら何と答えるべきだろうか。
医者が一般的な言葉でこれに答えられるとは思えない。
人生の意味は人によってさまざまであり、時々刻々変化するものだからだ。
大切なのは一般的な人生の意味ではなく、
いま現在のその人にとっての人生意味なのだ」
「人生において遭遇するそれぞれの状況は、
人に与えられた試練であり、解決すべき問題を提起しているのだ。
そう考えると、人生の意味が何かという問いかけは、じつは逆なのではないだろうか。
結局のところ、人生の意味など問うべきではなく、
自分自身がそれを問われているのだということに気づくべきだ。
つまり一人ひとりが、人生からその意味を問われているのであり、
自分自身の人生のすべてを引き受ける、
つまり責任ある生き方をすることによってのみ、それに答えることができるのだ」
・・・ フランクル
人生の意味を問うのではなく、問われているのだということ。
人生が、あなたに問うている。
人生には意味があると思う。
しかし、考えても考えてもわからないのではないかと思う。
意味を求めている限り、それは出会わないものなのではないか。
人生で遭遇すること、それらに真剣に向き合うことで、
おのずとその人の人生とその意味が浮かび上がってくるのではないかと思う。
探して見つかるものではけしてなく、今を一生懸命生きる中、
「そこにある」 ことを見つけるのが、
その人にとっての人生の意味なのではないかと思う。
・・・ 「死ぬときに人はどうなる10の質問」 緩和医療医 大津秀一著