ニイハオ! 我的朋友!

中国留学生活を綴ったのがこのブログのはじまり
今は日々のこと旅のことなど徒然に・・
そして加わった乳がんカテ

2020年 3・11

2020-03-11 | 東日本大震災 from 仙台

テレビも早々に消した。

どうも心がしんどくなるのはやっぱり被災地の人間だからかな。

…  と思った 3・11。

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【3・11】

2018-03-11 | 東日本大震災 from 仙台

 丸7年が経過した。

  

全壊した実家 二階の屋根が目の前に

納屋の一角に造った仮設部屋 父と母はここで丸一年過ごした 寒い真冬も暑い真夏も

 

「あの時一緒に潰されてしまった方がよかった」 震災後実家に行った時、いつもお世話になっている近所の方から間接的に聞いた母の言葉。

家は潰れる、父は具合を悪くし救急車で運ばれる・・。

心身共に疲労の限界だったのだと思う。 先の生活も暗闇のまま。「あの時一緒に潰されてしまった方がよかった」 この母の言葉・・・ 重く突き刺さった。

 

震災後すぐから被災者の心のケアにあたられていた神神科の先生の話だ。

とても参考になるアドバイスだと思った。 「過去を振り返らないこと。 先の未来を考えないこと。」 過去を振り返っても未来を見てもどちらも辛くなるから、一日を短く区切って生きてみようというもの。

午前これをして午後はこれをしてみよう、などと短い時間帯で生きる。 そのようにしながら一日一日を重ねていく。 

 

当時は確かに被災した当時を振り返れば辛くなるばかりだし、漠然と今後を考えれば問題が大きすぎて苦しくなるばかりだ。

今日はまず「今日を」考えて一日を締めくくりながら、段々に少し先の明日明後日くらいまで広げていけるといいのだろう。

 

「あの時 家と一緒に潰されなくて、ホントよかった。 」いつか母が心からこんな言葉を語れる日がきてくれたらとあの時は思った。

最近はどう思っているのかな。

たぶん「あの時 家と一緒に潰されなくて、ホントよかった。」と少し?は思っているんじゃないかな。 たぶん。

周りのみんなはすごく思ってるよ。

 

 9LDKが2LDKに縮んでしまったけれど、一人暮らしの母には丁度いい気がする。 

この家で暮らして丸6年だ。

 

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わたしは原発反対!!!

2018-03-10 | 東日本大震災 from 仙台

2012年11月台湾を訪れた。

その時、台北市内でこれを見つけた。

お店の入口にきっぱり!と掲げられたこの旗。  

  

反核'NO NUKES

NO more Fukushima

不要再有下一個福島


 

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けれど

2018-03-09 | 東日本大震災 from 仙台

しんどい。

日に日に増えていく東日本大震災の話題。 見ていると、すごくしんどくなる。 

この時期、毎年繰り返されてきたことだけど

今年はいつもよりしんどく思われる。 

何でかな。

 

もう7年

まだ7年

やっと7年

あっという間の7年

 

7年にくっつく色々な言葉

 

わたしはどう感じているか・・・ ?

7年経ったけれど

けれど 

 

けれど・・・

この「・・・」 

言うに言えない「・・・」

 

 全壊の実家から取り出した建具 

 

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このところ3・11関連のことが増えてきた報道 

2018-03-05 | 東日本大震災 from 仙台

このところ3.11関連の報道が増えてきているなぁと思う。数日でまたあの3月11日がやってくる。 丸7年たっても独特のこの感情や気持ちは変わらない気がしている。 

単に過去を思い出すという感覚ではなく、つい昨日のことのようだ、、でもなく、なんだろ、へんな「最中」の感じと言ったらいいだろうか。 

あの時の感情にすぐ戻れる、、涙が込み上げてくることもある。 胸も苦しくなる。

とはいえ、一年中こんな感じで暮らしているわけではなく、普段は今の現実を生きている。

やっぱり何年経過しても 【3・11】 という日は特別な日なんだと思う。



震災直後、新聞に寄せられた山田洋次さんのお話を改めて振り返ってみようと思う。

阪神大震災の被災地で、「来てほしい!」と言われた 寅さん

東日本大震災でこどもたちが、「来て~!」と呼んでいた アンパンマン

こんなことも思い出す。


   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


映画監督、山田洋次さん「想像することでつながる」

2011年3月19日12時47分 朝日新聞

東日本大震災で、大きな悲劇の中にいる人たちに、僕が何を伝えたらいいのか分かりません。

家を失い寒風にさらされている人に、海に襲われて水の中で果てた人に、東京の家の中から何かを言うことなんて……とてもできませんよ。


こんな時、自分たちに何ができるのかという声をよく聞きます。

それも大事だけど、被災した人たちの悲しみや苦しみを、僕たちはどれくらい想像できるのか。

そのことがとても大事だと思うのです。 

現地の人たちの心の中をどれくらいイメージできるのか、自分に問いかけ、悩む。

そこから何かが学び取れるのではないでしょうか。


もう一つ大事なのは、この大災害に、僕たちの国の政府がどう対応するのか、きちんと監視してゆくことです。

原子力発電所の問題などで、きちんと情報が伝わってこないことが腹立たしいですが、そういうことも含め、国民として政府の動きをよく見ていて、問題ありと判断した時は、きちんと抗議の声をあげる。

そうすることが、被災者への応援になると思います。


こんな時、寅さんなら何と言うだろう、どう行動するだろう――と考えます。

阪神大震災の後、神戸市の長田地区で映画を撮りました。焼け出された人たちから「寅さんに来てほしい」という声があがったのです。

僕は、あんな無責任な男の映画を被災地で撮るなんて、とんでもないことだと思い、最初はお断りしました。

でも、訪ねてきてくれた長田の人たちが、口々に、こうおっしゃるのです。

「私たちが今ほしいのは、同情ではない。

頑張れという応援でも、しっかりしろという叱咤(しった)でもありません。

そばにいて一緒に泣いてくれる、そして時々おもしろいことを言って笑わせてくれる、そういう人です。

だから寅さんに来てほしいのです」


寅さんのような男が、そばにいることが何かの慰めになるのならば。そう考え直して、撮影に向かいました。

あの焼け跡であった出来事を思うと、撮影していて、僕らはとてもつらかった。

でも、長田の人たちはとても温かかった。ここで助け合い、支え合って生き抜いてきた人たちです。


被災地とはまったく比較にならない苦労ですが、関東地方ではいま停電が起き、通勤電車には長蛇の列ができています。

大勢の人が、愚痴も文句も胸に納めて、整然と、黙々と行動しています。

遠くで厳しい現実に耐えているたくさんの人たちのことが、頭の中にあるからではないでしょうか。

貧弱な想像力を懸命に働かせて、被災地の人たちを思い続けたい。

そうすることでつながっていたい。   今はただ、そう思っています。


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「福島へ帰れ」 「放射能が付くから近づくな」 あだ名が「放射能」

2017-04-12 | 東日本大震災 from 仙台

 怒りを越して、とても悲しい。 深く悲しい。

原発事故で福島県から県内外に避難した子どもたちに対するいじめがあったことのニュース。

「福島へ帰れ」 「放射能が付くから近づくな」 小学校時代に「放射能」とあだ名・・・

言葉もない。

いじめを受けたこどもたち、いじめたこどもたち、、、 どっちも悲しい。

いじめた子どもたちの想像力はどこへ行ってしまったのだろう。

だれも育ててくれなかったのだろうか。

想像力は、すごく大事だと思う。

震災後に山田洋二さんが想像力の大事さを朝日新聞に語られていた。 

本当にその通りだと思った。

 

『被災した人たちの悲しみや苦しみを、僕たちはどれくらい想像できるのか。

そのことがとても大事だと思うのです。

現地の人たちの心の中をどれくらいイメージできるのか、自分に問いかけ、悩む。

そこから何かが学び取れるのではないでしょうか。』

『「私たちが今ほしいのは、同情ではない。

頑張れという応援でも、しっかりしろという叱咤(しった)でもありません。

そばにいて一緒に泣いてくれる、そして時々おもしろいことを言って笑わせてくれる、そういう人です。

だから寅さんに来てほしいのです」』

 

これは、こと被災地の被災者に対してだけ語れるのではなく、誰にだって、どんな時にだって大事なことだとわたしは思う。

寅さんみたいな人が近くにいたら救われる人がたくさんいるだろう。

あの時・・・ こどもたちはアンパンマンを呼んだいた。

 

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

映画監督、山田洋次さん「想像することでつながる」2011年3月19日12時47分

東日本大震災で、大きな悲劇の中にいる人たちに、僕が何を伝えたらいいのか分かりません。

家を失い寒風にさらされている人に、海に襲われて水の中で果てた人に、東京の家の中から何かを言うことなんて……とてもできませんよ。

こんな時、自分たちに何ができるのかという声をよく聞きます。

それも大事だけど、被災した人たちの悲しみや苦しみを、僕たちはどれくらい想像できるのか。

そのことがとても大事だと思うのです。

現地の人たちの心の中をどれくらいイメージできるのか、自分に問いかけ、悩む。

そこから何かが学び取れるのではないでしょうか。

もう一つ大事なのは、この大災害に、僕たちの国の政府がどう対応するのか、きちんと監視してゆくことです。

原子力発電所の問題などで、きちんと情報が伝わってこないことが腹立たしいですが、そういうことも含め、国民として政府の動きをよく見ていて、問題ありと判断した時は、きちんと抗議の声をあげる。

そうすることが、被災者への応援になると思います。

こんな時、寅さんなら何と言うだろう、どう行動するだろう――と考えます。

阪神大震災の後、神戸市の長田地区で映画を撮りました。焼け出された人たちから「寅さんに来てほしい」という声があがったのです。

僕は、あんな無責任な男の映画を被災地で撮るなんて、とんでもないことだと思い、最初はお断りしました。

でも、訪ねてきてくれた長田の人たちが、口々に、こうおっしゃるのです。

「私たちが今ほしいのは、同情ではない

頑張れという応援でも、しっかりしろという叱咤(しった)でもありません。

そばにいて一緒に泣いてくれる、そして時々おもしろいことを言って笑わせてくれる、そういう人です。

だから寅さんに来てほしいのです」

寅さんのような男が、そばにいることが何かの慰めになるのならば。そう考え直して、撮影に向かいました。

あの焼け跡であった出来事を思うと、撮影していて、僕らはとてもつらかった。

でも、長田の人たちはとても温かかった。ここで助け合い、支え合って生き抜いてきた人たちです。

被災地とはまったく比較にならない苦労ですが、関東地方ではいま停電が起き、通勤電車には長蛇の列ができています。

大勢の人が、愚痴も文句も胸に納めて、整然と、黙々と行動しています。

遠くで厳しい現実に耐えているたくさんの人たちのことが、頭の中にあるからではないでしょうか。

貧弱な想像力を懸命に働かせて、被災地の人たちを思い続けたい。

そうすることでつながっていたい。今はただ、そう思っています。

 

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これが日本の復興大臣!? お粗末すぎる

2017-04-05 | 東日本大震災 from 仙台

思わず立ちすくんでテレビにくぎ付けになった。  ええっつ???

なんなんだろう!? この人!  大臣たる資質まるでなしだ! 

 

復興大臣さん、、東北の地から物申しますが!

本人の責任なんですか? 本人の判断だけでことが進められるとでも?

そうじゃないから、今でも大変な生活強いられている人たちがたくさんいるんでしょ!

自己責任で何とかできる範囲を超えているし、そういう問題じゃないでしょ!

 

後からにこやかに少し反省したような釈明してたけど心にもないことを。

もう本性見たし!

まずいから!・・・ って言われてにこにこ出てきたのも見え見え。

 

こんな人しかいないの!? 日本の大臣って。 というか、自民党にはいないんだ。

ホント腹が立つ!

 

大臣 「帰ってる人もいる。」

記者 「帰れない人はどうするんでしょうか?」

大臣 「どうするって、それは本人の責任でしょう、本人の判断でしょう。」

記者 「自己責任ですか?」

大臣 「それはそうだと思いますよ。」

 

最後には

大臣「うるさい!!」

 

自主避難は「自己責任」~復興大臣明言

 

 

そういえばと思い出した。

震災の年の復興大臣。   何様!!!  大臣様? 

上のとセットでのせとこ。

松本龍 復興大臣 「自分が入ってからお客さんを呼べ」

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どんなことがあったって 立ち戻りたい位置

2017-03-11 | 東日本大震災 from 仙台

ナチスによるユダヤ人強制収容所から奇跡的な生還を果たした ヴィクトール・フランクル。 

彼の著書 『夜と霧』 は、何回読んでもわたしのバイブルのようだ。

 

  

私たちは、自由で自己実現が約束されている環境こそが幸せだと思っている。

しかし災害や病気などに見舞われた時、その希望は潰える。 

収容所はその最悪のケースだ。 

しかしそれでも、幸せはまだ近くにあるのではないかとフランクルは考えた。 

人間は欲望だけではなく、家族愛や仕事への献身など、様々な使命感を持って生きている。 

どんな状況でも、今を大事にして自分の本分を尽くし、人の役にたつこと。

そこに生きがいを見いだすことが大事なのではないかとフランクルは考えた。 

そして医師としてチフス患者の病棟で働きながら、仲間たちに希望の持ち方を語った。 

 

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六回目の・・ 3・11

2017-03-10 | 東日本大震災 from 仙台

六回目の3・11が。

毎回独特の緊張感に包まれる。

 

一回目、長町のモールの中で被災。

二回目、全壊した実家が建て直され、お披露目し両親が住み始めて日。

三回目、職場の保育園でお昼寝の見守りしながら黙とう。

四回目、乳がんの手術のため入院二日目、手術待ちでベットで黙とう。

五回目、仕事も辞め自宅で療養しながら黙とう。

 

そして、六回目の明日。 たぶん自宅で黙とう。

 

365日分の一日(3・11)振り返っただけでも、人生が見えてくるものだ。

 

My Country Home(故郷 )- Greg Irwin

 

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五回目の3・11

2016-03-11 | 東日本大震災 from 仙台

My Country Home(故郷 )- Greg Irwin

 

 

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