Tが亡くなった。 ずっと世話になっていた友だちのMさんが連絡をくれた。
生きるということをTはどう考えているのだろうと思った
主人癌なんです
二月から数か月入院し、退院してからは友人らに支えられながら自宅で一人で生活していた。
昨日、火葬だった。
生活保護を受けていた彼は、市のお世話で火葬だけは行ってもらえたが葬儀まではなし。
親族はいる、でも経済的な理由で彼の葬儀をあげてくれる人はだれもいない。
親族8人、そして友人や子ども時代を知るわたしのような知人9人、総勢17人が最後のお見送りをした。
ふたつの後悔?
今までもそうだけど、今年は特に後悔のない生き方、生活をしようと思ってすごしてきた。 だから「後悔」という感情がどんなものか忘れていたほどだ。
こんなにも重苦しく心を覆ってしまうものだとは、こんな感じを味わうのはいつぶり?と思い出そうにも思い出せない。
丁度一か月前のこと。
車に乗せてもらい買い物に出かけた時、「あれ!? T!」。
自転車をこぎ、わたしと反対方向へ進んでいく T らしき人を見かけたのだった。
退院したと聞いた、家もその辺と言っていた、たぶんTに違いない。
そう思ったけれど、その後 「まあ、いいか。」 とわたしはやり過ごし声をかけないでしまった。
昨日友人にその話したら、「それ絶対 T です。」 わたしも絶対そうだったと思う。
奇跡としかいいようないくらいの偶然。
だってうちとそう遠くもないし、近くに買い物行っても見かけたことすらない20年くらいだったから。(同じ区内だったこと知ったのは今年になってから)
どうしてわたしは、あの時引き返して声かけなかったんだろう・・・ という後悔。
もう一つの後悔は、昨日お棺の前でのこと。
親族がお棺の中に故人の思い出の品などを入れ始めた。
あっ! お見舞いに行った時わたしが持って行った彼が中学生の時の写真!
とってもいい顔で、いつもいつも着ていたトレードマークのジャージ着て写っている写真!
おかあさんは、兄弟姉妹は、こういう写真も全部燃やしてしまうんだ・・・・・
唯一といってもいい程の彼の子ども時代の写真なんだよ。
その写真はわたしのです。 燃やさないでください、わたしにください。とお棺の中から取り出したいくらいだった。
でも、そんなことしていいのだろうか? 葛藤しているうちにお棺の蓋は閉められ釘が打たれてしまった。
そんな気持ちだったことをいつもお世話になっていた彼の友人に話したら、同じ思いでその光景を見ていたようだ。 「悔しいですね。」 彼女はこう言った。
ありえない行為なのかもしれないけれど、やっぱり写真は燃やさせないでもらってくればよかったという後悔だ。
Tはわたしに二つのことをしっかり伝えてくれた気がしている。
(今日はその一つ目の事、もう一つは次回)
迷ったら 一歩進む方を選べという事だ。
後悔するくらいなら 決して後ずさりするなということ。
今なら、、、見かけたTにダッシュで駆け寄り、「調子どうなの?」と声をかける。
今なら、、、非常識と言われてもあの思い出の写真はもらって帰る。
前より一層、後悔しない生き方をしようと思った。
Tからわたしへの 最後のプレゼントだ。
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