わたしの職場が属する法人で、全職員が震災での経験を文書に残す取り組みが行われています。 A4一枚という制約の中で書き切ることは中々難しいものでした。 いずれ冊子にまとめられ,みんなの手元に届くようです。 どう書いたらいいかなと思い悩みながら、どうも進まず提出は締切後になってしまいました。 いま一つ、すっきりしない内容なのですが、しかたありません。 結局、こんな感じで。
あの日わたしは喘息の検査を受ける為、仕事を休み長町に居ました。昼過ぎ病院を後にし、観たかった「ヒア アフター」を観にモールに向かいました。 まさか映画のシーンが現実のものになろうとは思いもせず。
始まるまでの30分程モール内を散策、その時です、物凄い揺れ!「もしかしたら、このビル諸共潰されるかもしれない」「いや、たぶん大丈夫のはず」などと根拠もない気持ちが入り混じりながら、商品が散乱し人々の悲鳴や泣き声の中、ひたすら治まるのを待っていた時間の長かったこと。
揺れが一旦治まった隙にエスカレーターを駆け下り外に出ると、そこはもう避難してきた人々でごった返し、信号が消えた道路は車も人も大混乱。 丁度三日前まで居た中国での命がけ横断(オーバーではなく)を思い出し、タイムスリップしたかのような錯覚さえ覚えながら、とにかくタクシーを拾って帰らないと・・と。
やっとのこと停まってくれたタクシーの運転手さんは女性の方でした。ずっと二人で話しながら普段の五倍程の時間をかけやっと帰宅。「海岸沿いに2~300人の遺体が」「10mの津波が」などと車中ラジオから報じられるニュースは、想像を絶する事態が今起きていることを暗示するに十分でした。
三日ぶりに電気が付いた時は感動でしたが、それまで新聞の写真でしか見ていなかった沿岸部の様子を目の当たりにした時は愕然としました。
中々復旧に時間がかかった水道とガス。 5時間半ひたすら並んでの給水。お店を何件も周ったり長蛇の列に加わって日用品や食料を調達したりなど、震災後しばらく自宅待機状態だったので、毎日がそれに明け暮れたという感じでした。
給水の列に並んでいた時、貧血で倒れてしまったお婆さんがいました。 傍にいた人が車で家まで送ってあげ、また別の人が代わりに水を貰って届けました。 送って行った人の話では、家の中は地震で物が散乱したままの状態、その中に足腰が悪くて動けないおじいさんが一人でおばあちゃんを待っていたそうです。 唯一あった食料は、りんご一個。 どうしようもなく水を貰いに並んだものの、飲まず食わずでの何時間もの立ちっ放しは、お年寄りには相当きつかったことでしょう。
大被害の沿岸部とは比べようもない程の被災地でも、確実に命に関わる事態は迫っているんだと実感させられました。 車いすで並んでいる高齢の方もいたし。
何かせずにはいられないけれど、何をしたらいいのだろう!? と、悶々とした日々を送っていた気がします。「わたしにできること探し」は今も続いていますが。
さて今回の震災で何を考えたか・・ 実際はこの紙面では書き尽くせない程、色々なことを考え感じてきました。 そんな中で、今現在わたしがたどり着いたのは、「できることをしよう」ということです。 できることをできるところから。
これまで微力ながらボランティアにも参加させてもらいました。 石巻のヘドロ除去、志津川の養殖いかだの重り作り、福島の除染作業、矢本仮設住宅訪問等々。
わたしの実家は全壊でした。両親は運良く無事でしたが夜だったら確実に助からなかったでしょう。 3.11以降も畳みかけるように押し寄せる困難に「あの時、家と一緒に潰されてしまえばよかった」との母の呟き。
やはり途轍もなく大変な災害。 見えない先のことを無理に見ようとしないで(考えないで)、とにかく今日を生きることに一生懸命になる、取りあえず近い未来を生きてみる、これも大事だと思いました。 それを繰り返しているうちに、そのうち事態も変わってくる気がするのです。
2011年 12月末