娘と訪ねた “ヒロシマ”
丁度12年前の今日、わたしは小3だった娘と広島にいた。
暑い暑い、8月6日だった。
この旅は、その年の春に あるアニメ映画を観た時から始まる。
それは、『つるにのって』 というピースアニメ。
フランス在住の 美帆・シボさんという平和運動家の原作で、虫プロの有原誠治さんが監督した作品だった。
内容は、広島原爆が元で白血病に冒され亡くなってしまった “さだこさん” の実話をアニメ化したもの。
これを娘と観にいった後、彼女がこんな事を言い出した。
「広島に 行ってみたい。」
予てから、一度は子どもたちを連れて行きたいと思っていた広島。
そして、“行きたいという時が、最高の行き時” と思い、できることなら連れて行って
“原爆の子の像” (さだこさんの像) の実物を見せたいと思った。
そして、夏休み、、、 それも8月6日を挟んで二人旅をすることにした。
広島行きは、わたしにとっては二度目。
一度目は保育学生だった時、研修旅行という修学旅行みたいなもので、クラスのみんなと出かけた。
命を守る仕事に就こうとしていたわたしには、当時の 「平和記念資料館」 を訪れた時のショックたるや
大変なものだったと 今でも記憶している。
館内に展示された原爆投下後の人々の姿を復元した人形の前に来た時、
あまりにも惨いその姿に、しばらく動くことができなかった。
何故同じ人間どうしが このような悲惨な事態を生み出してしまうのかと思うと、次々に涙が頬を伝い、
その涙が今度は激しい怒りとなっていったのを今でも覚えている。
そして、娘といった二回目はわたしなりに色々な経験も積んだせいか、以前より冷静に見学できた気がする。
やはり、母親という立場からも保育士という立場からも 子どもたちに平和な世界を残したいと思うし、
また 子どもたちにも平和の大切さを知り、平和の守り手になるような人間に育って欲しいと思っている。
被爆者の方のお話は、本当に胸が詰まる思いだった。
口を開いて体験談を語れるようになるまでの葛藤や苦しみは、それは大変なものだったろう。
そして、その辛さを乗り越えさせたものは、二度と同じ過ちを繰り返させてはならないという
平和への強い願いだったのだと思った。
ジリジリと照り付ける日差しの中で行われた 慰霊祭。
方々から鳴きわたる蝉の大合唱の中で、八時十五分が近づくにつれ、あの日もこうだったろうかと想いを馳せた。
隣にいらした年配の男性は、黙祷の後目頭を押さえていた。
被爆体験をされた方か、誰かを原爆で亡くされた方だったのかもしれない。
平和の問題は、“夏” の話題ではなく、いつもみんなで拘っていかなければと強く思いながら帰途に着いたものだ。
さて、わたしに何ができるのかと考える。
大層なことなどできないのは わかっている。
でも、わたし自身がきちんと 知ること 、 そして 忘れないこと はできる。
何より、最低限でもわたしの子どもたちに伝えることはできる。
そう思いながら、娘と行ったその3年後に今度は息子も連れ3人で 広島に行ってきた。
ただ、子どもたちにしたら 広島のお好み焼きとそのあと周った四国の四万十川で泳いだことの方が
今でもすぐに思い出される思い出になっているかもしれないけれど・・。
でも、それでもいいと思っている。
見た、聞いた、感じた、、、 そのことはどこかにちょっとは残っているだろうから。
言葉、文化、宗教を超え 大事に守らなければならない 平和。
とりわけ、唯一の被爆国として 日本の役割は大きいと思うのだが。
丁度12年前の今日、わたしは小3だった娘と広島にいた。
暑い暑い、8月6日だった。
この旅は、その年の春に あるアニメ映画を観た時から始まる。
それは、『つるにのって』 というピースアニメ。
フランス在住の 美帆・シボさんという平和運動家の原作で、虫プロの有原誠治さんが監督した作品だった。
内容は、広島原爆が元で白血病に冒され亡くなってしまった “さだこさん” の実話をアニメ化したもの。
これを娘と観にいった後、彼女がこんな事を言い出した。
「広島に 行ってみたい。」
予てから、一度は子どもたちを連れて行きたいと思っていた広島。
そして、“行きたいという時が、最高の行き時” と思い、できることなら連れて行って
“原爆の子の像” (さだこさんの像) の実物を見せたいと思った。
そして、夏休み、、、 それも8月6日を挟んで二人旅をすることにした。
広島行きは、わたしにとっては二度目。
一度目は保育学生だった時、研修旅行という修学旅行みたいなもので、クラスのみんなと出かけた。
命を守る仕事に就こうとしていたわたしには、当時の 「平和記念資料館」 を訪れた時のショックたるや
大変なものだったと 今でも記憶している。
館内に展示された原爆投下後の人々の姿を復元した人形の前に来た時、
あまりにも惨いその姿に、しばらく動くことができなかった。
何故同じ人間どうしが このような悲惨な事態を生み出してしまうのかと思うと、次々に涙が頬を伝い、
その涙が今度は激しい怒りとなっていったのを今でも覚えている。
そして、娘といった二回目はわたしなりに色々な経験も積んだせいか、以前より冷静に見学できた気がする。
やはり、母親という立場からも保育士という立場からも 子どもたちに平和な世界を残したいと思うし、
また 子どもたちにも平和の大切さを知り、平和の守り手になるような人間に育って欲しいと思っている。
被爆者の方のお話は、本当に胸が詰まる思いだった。
口を開いて体験談を語れるようになるまでの葛藤や苦しみは、それは大変なものだったろう。
そして、その辛さを乗り越えさせたものは、二度と同じ過ちを繰り返させてはならないという
平和への強い願いだったのだと思った。
ジリジリと照り付ける日差しの中で行われた 慰霊祭。
方々から鳴きわたる蝉の大合唱の中で、八時十五分が近づくにつれ、あの日もこうだったろうかと想いを馳せた。
隣にいらした年配の男性は、黙祷の後目頭を押さえていた。
被爆体験をされた方か、誰かを原爆で亡くされた方だったのかもしれない。
平和の問題は、“夏” の話題ではなく、いつもみんなで拘っていかなければと強く思いながら帰途に着いたものだ。
さて、わたしに何ができるのかと考える。
大層なことなどできないのは わかっている。
でも、わたし自身がきちんと 知ること 、 そして 忘れないこと はできる。
何より、最低限でもわたしの子どもたちに伝えることはできる。
そう思いながら、娘と行ったその3年後に今度は息子も連れ3人で 広島に行ってきた。
ただ、子どもたちにしたら 広島のお好み焼きとそのあと周った四国の四万十川で泳いだことの方が
今でもすぐに思い出される思い出になっているかもしれないけれど・・。
でも、それでもいいと思っている。
見た、聞いた、感じた、、、 そのことはどこかにちょっとは残っているだろうから。
言葉、文化、宗教を超え 大事に守らなければならない 平和。
とりわけ、唯一の被爆国として 日本の役割は大きいと思うのだが。