ボオドレエルと「暮れて行く」

2019-12-31 | 日記

          

きのうの夕べの西方の空。月も黒い雲間に輝いている。今日は12月31日で、窓の外は風が強く吹いている。時折、雨粒が窓にぶつかる音がする。家にいても風の轟音が聞こえて来る。まだ昼前にも関わらず厚い雲のせいで家の中は暗く、石油ストーブの燃える炎が室内の明かりである。ストーブに掛けてあるヤカンの音が単純で単調なリズムで風の音とのアンサンブルである。眠くなって本を閉じて、ウトウトすること数分、僕は今日が大晦日であることに思い至って、そして今日こそは何もせず、椅子に深々とウトウトすることを喜ぶ。浅薄な大みそかにしたい、と思う。ひっそりな一年の終わりにしよう、と思う。心の持ち方、魂のかたちとしての僕に相応しい大みそかであろう、と思う。ウトウトもこれも僕の身から出たものであって、そう思ったらこれも大切な僕のモラリテである。

閑暇なきところに知性は成育し得ない、況んや芸術をや。我々の世紀の最大の欠陥はあらゆる人からおしなべてこの閑暇が失われたことではないか」(斎藤磯雄著『ボオドレエル研究』昭和46年東京創元社刊) と言う。知性も芸術も、僕には相当な遠距離にあるけど、しかし、この「閑暇」というものは人生にとってはなくてはならない大切な時間ではないだろうか。小人閑居して不善をなす、ということもあるが、それはその個々の世界観の相違によると思うし、これは「小人」の話であり、一般の話で、人は誰でもボオドレエルになれるわけではないが、「閑暇」は大切な時間ということも知っておくべきである。さらにこの本の中で、ボオドレエルの言葉が印象的である。

「私の人物が大きくなつたのは、一部は、閑暇のおかげである。これで非常な損害を蒙つた点もある。といふのは、財産のない閑暇は、負債と、負債の結果たる屈辱とを増すからだ。さりながら、感受性や、瞑想や、それからダンディズム並びにディレッタンティスムの資格に関しては、大いに得することがあつた」(「赤裸の心」32)
この「ディレッタンティスムの資格」といふ言葉は「普遍的教養」を意味し、彼が「無知蒙昧な賤しい土方共」と断じた一般文士の狭隘な「専門家」的傾向を侮蔑するために、誇りかに用ゐた言葉である。ボオドレエルが富と閑暇とをダンディスムの必須条件と認めたのは、何よりも先づそれを活用してこの普遍的教養をかち得ることが必要だからである。…… ボオドレエルは富裕ではなかった。彼は殆ど意志によつて、負債と、負債の屈辱的結果とを冒して、「閑暇」を創造したのである。

ここに、「閑暇」もクリエイトするものだ、ということである。

 


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