籠り居

2020-01-04 | 日記

          

三が日が終わって、もう今日は一月四日である。雪は何処に行ってしまったか、今日も曇り空から青空の広がる天気になった。が、外は寒いので炬燵に入って明かりをつけて、今日は永井荷風 (1879-1959) の小説「ひかげの花」を読んでいた。久し振りに荷風を読んだ。大正時代の終わりから昭和の初めにかけての銀座界隈のカフェに出入りする男と女の「懶惰卑猥」なる日常を描いている。男とは、ヒモであり、客である。女とは、女給であり、接待婦であり、妾である。僕は彼らが織りなす物語を、現代という時を忘れて親しむのである。時代錯誤を没頭するのである。読了後、僕は改めてこの時代錯誤に没頭できたことに感謝するのである。この小説の中で、物語から離れて荷風の冷静が書かれている一節がある。(重吉はヒモで、塚山は客である。おたみは母親共に女給、妾である)

重吉には名誉と品格ある人々の生活がわけもなく窮屈に、また何となく偽善らしく思はれるのに反して、懶惰卑猥な生活が却て修飾なき人生の幸福であるやうにも考へられてゐる。

塚山は孤児に等しいおたみの身の上に対して同情はしているが、然し進んで之を訓戒したり教導したりする心はなく、寧ろ冷静な興味を以て其の変化に富んだ生涯を傍観するだけである。塚山は其性情と、又その哲学観とから、人生に対して極端な絶望を感じてゐるので、おたみが正しい職業について、或は貧苦に陥り、或は又成功して虚栄の念に齷齪するよりも、溝川を流れる芥のやうな、無知放埓な生活を送つてゐる方が、却て其の人には幸福であるのかも知れない。道徳的干渉をなすよりも、唯些少の金銭を與へて折々の災難を救つてやるのが最もよく其人を理解した方法であると考へてゐたのである。

窓の外がもう暗くなってきた。そろそろ夕餉である。今夜は頂き物の弁当を食べるのだった。これもひとつの「修飾なき人生の幸福である」ようでもあろうか。

 


雪文様

2020-01-03 | 日記

 

          

家の裏の田んぼの雪。今日は雪が降らなかった。用水の流れが雪を斑に融かして、リズミカルな面白い形を造形している。この黒と白の境界が作る線の、柔らかくふくよかな線は、音楽である、と言ってもいい。一日中曇っていて、お正月の村はいつもと変りなく森閑としている。やっぱり雨垂れの音がするのは、これは雪融けのせいで、どうも雨樋が壊れているせいだろう。雪が去って、春の暖かい日和になったら屋根に上って見て見ようか。
これを書いている時間、もう、辺りが薄暗くなってきた。一日の終わりがあまりにも早過ぎはしないだろうか、もう少し「森閑」の余韻を吸っていてもいいと思うが、でも、もう夕暮れの時間が許さないのである。さすがにもう暗くなったから、障子窓を閉めて明かりを灯さなければならない。一日、『 音楽と生活 兼常清佐随筆集 』(杉本秀太郎編 1992年岩波文庫版) を、時間をマダラ(斑)に使用して読んでいた。マダラの間には掃除もし、勿論、昼飯も喰い、そして、もうクラシック曲になった「なごり雪」も聴いたのである。結局、読書時間はそんなにはなかったようであるが … 。

ショパンの『練習曲』の中で私が勝手に “ L'etude domestique ” とよんでいるのがあります。作品第二十五の第七番です。あの左手のふしは若い男、右手のふしは若い女、中の和弦はそれを結ぶ愛の和弦です。曲の中頃のあの大波瀾は正に恋のなやみ、愛のもだえです。そのすぐ後に来る右手のふしのたとえようもない美しさ、綺麗さは実に若き妻のささやきです。そしてピアノはこの二人の曲折ある生涯を描き尽して、最後に愛の和弦で穏かに終りを告げます。誠に美しい、物悲しい、あわれ深い曲です。私はこの曲のふしはみな好きです。

この引用文は『音楽と生活』の中の「愛する」というエッセーの一節で、このエッセーは音楽学者・兼常清佐 (かねつねきよすけ 1885-1957) が1937年に岩波書店から出版した『残響』という本に納められている。それにしても、左と右の手が男と女であるというのは、素敵な感性である。

 


物欲あり

2020-01-02 | 日記

              

デンマークのルイスポールセン社から昨年発売されたフロアランプ。一目惚れである。美しい佇まいのフォルムであると思う。ガラスのランプシェードが琥珀色であるのが優雅である。それに、支柱とベースとアームが真鍮であるというのが、いい。これは新潟市にある県内唯一のフリッツ・ハンセンのショップで実物を見ているからで、一瞥、僕にはその立ち姿といい、法隆寺にある国宝・百済観音像に見えるのだった。言い過ぎかもしれないが、時には、プロダクツにも一個の魂が宿ることさえあるのだ。“ Limited 2019 ” というのも、何かソソルものがありますね … (少しミーハー的に言えば、2019個もの限界を超えた!ような)。やっぱり値段も一級であるところが、何とも言えないのであるが。デザインは勿論、ポール・ヘニングセン (1894-1967) である。(西脇順三郎も1894年生まれであった)
ところで、このランプの名称は “ The Water pump ” と言う。形から見てもそのまま「水汲みポンプ」であるのが、面白い。この「ポンプ」、欲しいと思う。今日が2日で、お正月の夢はまだ見てないから、ここにこれを書いておけば、きっといい(初)夢が見られるだろう。

 


雪の元旦

2020-01-01 | 日記

          

昨夜から降り積もった雪に、今朝はいい天気になって雪が眩しかった。家の前の道路はもう早くに除雪車が出て、写真のようにいつもの冬の道路である。しかし、やっとお正月らしい雪のお正月になった。朝食には餅を喰って、近くの阿弥陀院というお寺に「年賀」のお参りに行って来て、今日の元旦の日はもう何もすることがない。元旦の朝にはCDで音楽を聴いて餅を喰うのが定番で、積雪の少ない年は雪掻きもしないでいいのだから、有難きかな、今年は静かなお正月になった。屋根の雪の融け落ちる雨垂れの音が部屋に音響して、これから昼風呂を沸かして、頂き物の薬湯の粉末の偽・家庭内温泉に浸かって「一年の計は元旦にあり」の「計画」イメージを膨らませてみようか、どうしようか、と思ってみるのもこれも一興であるだろう。

ところで、昨夜は床の間の掛物を変えて見た。新しい年を迎えるにあたっては、やっぱりまた違ったものに掛け変えることで、気分もまた変化する。お正月バージョンというところか。それで、今までは、新進の抽象画家・新井美紀の赤いモノクローム油彩画を掛けていたが、この度は西脇順三郎 (1894-1982) の横物を出した。茫洋とした湖水の中で、人間と鳥類の会話が聞こえてくるような詩人らしい超現実的モノクローム・デッサンである。これも、面白い床の間の景観になった。『定本 西脇順三郎全詩集 300部限定版』(昭和56年 筑摩書房刊) も添えてみた。そこで、『全詩集』の中から詩集『あむばるわりあ』の詩情(あとがき)の一部を下記長々と抜粋してみる。

昔からの哲人の言葉を借りるなら、詩の世界は老子の玄の世界で、有であると同時に無である世界、現実であると同時に夢である。またロマン主義的哲学を借りたなら、詩の世界は円心にあると同時に円周にあるといふ状態の世界であらう。さうした詩の世界から受ける印象をいろいろの名称で呼ぶ、美を好むものは美といふ、神を好むものは神といふ。それがために詩の精神のこと或は善或は真ともいはれてゐる。また或る人は (私もさうであるが) 詩やその他一般の芸術作品のよくできたか失敗したかを判断する時、その中に何かしら神秘的な「淋しさ」の程度でその価値を定める。淋しいものは美しい、美しいものは淋しい、といふことになる。
さうした方法で成功した詩の世界に表れて来る美または淋しさは永遠を象徴する。また神秘的世界を象徴する。円心にあると同時に円周にある一つの世界は神秘的な世界である。
詩の世界には何かしらの人生観が包まれてくる。人生観は詩の重大な要素ではない。また人生観は直ちに詩にならない。ただ円心にあると同時に円周にある状態を生ずる人生観は詩の世界となる。
だが詩でない人生観は詩を作る前に必要である。それには原始的な人生観がよい。
人間の生命の目的は他の動物や植物と同じく生殖して繁殖する盲目的な無情な運命を示す。
人間は土の上で生命を得て土の上で死ぬ「もの」である。だが人間には永遠といふ淋しい気持の無限の世界を感じる力がある。
このいたましい淋しい人間の現実に立って詩の世界をつくらないと、その詩が単なる思想であり、空虚になる。
このいたましい現実から遠ざかれば遠ざかる程その詩の現実性が貧弱になる。
詩の世界は言葉でない。絵画彫刻でも表される。韻文でも散文でも亦よいことである。詩の世界の材料は「もの」の世界である。

外がだんだん暗くなってきて、いつの間にまた雪が降り出してきた。相変わらず雨垂れの音は止まないでいるが、この冬景色は一個の雪の韻文である。灰色の空と家々の白い屋根と、田んぼや畑の水路の黒い溝にも雪が降っている。雪が現実世界を抒情している。

 


ボオドレエルと「暮れて行く」

2019-12-31 | 日記

          

きのうの夕べの西方の空。月も黒い雲間に輝いている。今日は12月31日で、窓の外は風が強く吹いている。時折、雨粒が窓にぶつかる音がする。家にいても風の轟音が聞こえて来る。まだ昼前にも関わらず厚い雲のせいで家の中は暗く、石油ストーブの燃える炎が室内の明かりである。ストーブに掛けてあるヤカンの音が単純で単調なリズムで風の音とのアンサンブルである。眠くなって本を閉じて、ウトウトすること数分、僕は今日が大晦日であることに思い至って、そして今日こそは何もせず、椅子に深々とウトウトすることを喜ぶ。浅薄な大みそかにしたい、と思う。ひっそりな一年の終わりにしよう、と思う。心の持ち方、魂のかたちとしての僕に相応しい大みそかであろう、と思う。ウトウトもこれも僕の身から出たものであって、そう思ったらこれも大切な僕のモラリテである。

閑暇なきところに知性は成育し得ない、況んや芸術をや。我々の世紀の最大の欠陥はあらゆる人からおしなべてこの閑暇が失われたことではないか」(斎藤磯雄著『ボオドレエル研究』昭和46年東京創元社刊) と言う。知性も芸術も、僕には相当な遠距離にあるけど、しかし、この「閑暇」というものは人生にとってはなくてはならない大切な時間ではないだろうか。小人閑居して不善をなす、ということもあるが、それはその個々の世界観の相違によると思うし、これは「小人」の話であり、一般の話で、人は誰でもボオドレエルになれるわけではないが、「閑暇」は大切な時間ということも知っておくべきである。さらにこの本の中で、ボオドレエルの言葉が印象的である。

「私の人物が大きくなつたのは、一部は、閑暇のおかげである。これで非常な損害を蒙つた点もある。といふのは、財産のない閑暇は、負債と、負債の結果たる屈辱とを増すからだ。さりながら、感受性や、瞑想や、それからダンディズム並びにディレッタンティスムの資格に関しては、大いに得することがあつた」(「赤裸の心」32)
この「ディレッタンティスムの資格」といふ言葉は「普遍的教養」を意味し、彼が「無知蒙昧な賤しい土方共」と断じた一般文士の狭隘な「専門家」的傾向を侮蔑するために、誇りかに用ゐた言葉である。ボオドレエルが富と閑暇とをダンディスムの必須条件と認めたのは、何よりも先づそれを活用してこの普遍的教養をかち得ることが必要だからである。…… ボオドレエルは富裕ではなかった。彼は殆ど意志によつて、負債と、負債の屈辱的結果とを冒して、「閑暇」を創造したのである。

ここに、「閑暇」もクリエイトするものだ、ということである。