所用の合間のちょっとした時間に、突然思い立ちブルックナーを聴いてきた。
自称「ブルオタ!」と語っている冨平恭平氏の指揮する、オーケストラハモンの第3交響曲である。極論を言って、アントンKにとってオーケストラは何でもどこでも良い。まず生演奏でブルックナーを聴けることに充実感を見い出し、歓びとなるからだ。また今回のように指揮者の先生が、自らブルックナー好きと公言し、過去にもかなり採り上げてきているとなると、さらに興味をそそるというものだ。アントンKは、かつてやはりブルックナーを心の友としている福島章恭氏指揮による愛知祝祭管弦楽団というアマオケによるの第8のCDを入手し、実演奏でもないのに、思いもよらず感動した体験をもつが、まして大好きな第3交響曲ならば、聴かない手は無い。浮足立ってチケットを求めて会場に向かった。
音楽は保存できない芸術と考えるアントンKだが、特にブルックナーについては実演奏で聴きたい。どんなにオケの音色が貧しくても、ブルックナー愛を持った指揮者とそれに追従するオーケストラからは、何か熱いものが伝わってくるからだ。今回の演奏会がまさにそんな演奏会だった。自分の不勉強さで、全く知らなかった冨平恭平氏という指揮者からは、愚直で真っすぐな楽曲に対する愛を受け止められた気がしている。
ブルックナーの第3交響曲というと、いつでも問題になるのが版の問題。問題作と言われた第3を今回第2稿で演奏するところが気に入った。これは演奏後わかったことだが、ノヴァーク版第2稿であり、スケルツォにコーダが追加されて演奏されていた。
とにかく演奏内容について今思い出してみると、第1楽章の出の部分からしてまさにブルックナーの音色に会場が包まれる。大きく堂々とした弦の伴奏に始まり、第1主題までの上り坂の安定した響き。そして全奏での主題の提示。このフォルテで現れた主題の残響が綺麗に消えるまで意識したテンポ設定。これだけとっても、それまでの懐疑感はどこかに消え去り、いつの間にか冨平氏のブルックナーの世界に吸い込まれていった。この安定感は、結局終曲まで継続維持され、誠に充実した演奏を披露したのである。第1楽章の展開部におけるTrのコラールや、そのあとのTbの強奏は、鳥肌がたち、第2交響曲のテーマが再現されるところでは、不覚にも涙が流れた。
続く第2楽章は、アントンKの特に思い入れのある楽曲なのだが、期待以上の演奏に驚嘆してしまった。ここでも、指揮者の冨平氏は、インテンポを保ち一歩一歩噛みしめるように指揮していたが、それが何とも素朴であり、自分の脳裏に色々な場面が現れて郷愁を誘われるのだ。弦楽器の不揃い、管楽器の不安定なトーンなど、そんな小さな細かいたわいもないことなどどうでもよくなり、逆にプレーヤー達の精神性がブルックナーの楽曲を通して伝わってきたように思えた。
続く第3楽章、第4楽章も同じことが言えるが、頑固とも採れる指揮者冨平氏の指揮振り、こうあるべきという楽曲の解釈とでもいうのか、さすがに熟読され研究されているのがよく判り、ブルオタと自称しているだけのことはあると感心した。素人のアントンKが偉そうに言うことではないが、自分の不勉強さも身に染みたと同時に、もっとこういった素晴らしい演奏家たちに出会い、刺激を教授したいと考えた次第。
それにしても、聴衆が半分にも満たないホールで、演奏中に嫌気が差したのか退場する面々が目に留まったが、こんな意気の上がらない雰囲気の中、よくぞこんな演奏を聴かせてくれたとの思いが強い。確かにブルックナーの第3交響曲自体、大衆からは無縁の楽曲だし、わかる人だけついて来い!というような独自性の強い演奏だったから致し方ないのだが、いつか満員の聴衆の前でこういった一期一会の演奏を繰り広げられることを願いたい。
2016-12-10 ミューザ川崎シンフォニーホール
オーケストラ ハモン 第36回定期演奏会
シューベルト 交響曲第3番 ニ長調
ブルックナー 交響曲第3番 ニ短調 ノヴァーク版第2稿(1877年)