実は川田晴久(義雄)は根津の生まれらしい。時代は、違うが根津と言い浅草と言い、親近感を禁じ得ない。小石川の小日向(現文京区春日町)で、明治12年に生まれた文学者もこよなく浅草を愛した。とりわけ千葉県市川に住んだ晩年は、タクシーを飛ばして浅草へ通うこともしばしばで、浅草のストリップ小屋で踊り子に囲まれ、談笑し、「アリゾナ」でトマト煮込みのシチューや、ビールを片手にきままな一人暮らしを楽しんだ。永井荷風である。
その荷風が毎日食した食事の記録でもある有名な「断腸亭日乗」には、荷風が踊り子を引き連れて「アリゾナ」へ繰り出した記述もある。
「昭和24年7月16日。晴。哺下大都劇場楽屋。踊子等とアリゾナにはんす。此夜上野公園に花火あり。」(原文漢数字)
どうやら先生はこの日、御贔屓のストリップ劇場の楽屋に入り浸り、そのまま踊り子たちを引き連れて「アリゾナ」で大騒ぎをしたらしいのです。もっとも、先生が「アリゾナ」へ通いだしたのは、この年の7月12日、つい四日前のことでございました。
先生は書いてらっしゃいます。
「昭和24年7月12日。晴。午前高梨氏来話。小川氏映画用事にて来話。晩間浅草。仲見世東裏通の洋食屋アリゾナにて晩食を喫す。味思ひの外に悪からず値亦廉なり。スープ八拾円シチュー百五拾円。」
昭和24年の物価水準で80円、150円というのがどれほどのものかというと、山手線初乗りが5円。教員の初任給が4,000円ほどである。けっして安くはないと思う。平成21年正月で、「アリゾナ」はハヤシライスが1,200円、トマト煮込みのものが1,400円くらいだった。もちろん、それにライス、パンがつく。相対的には現在の方が、安く食べられているという感じだ。
「アリゾナ」はその名前から推測がつくように、アメリカンそれも西部料理のようだ。トマトベースの煮込み料理がメインで、ある意味ではワイルドな料理なのである。それを、ことのほか先生が気に入ったのは、自身の若き日の1902年に渡米し、6年あまりNYやリヨンで銀行員として働いた体験があるのかもしれない。その折に覚えたアメリカン料理の味が懐かしかったのかもしれない。先生はそののち、パリに遊学する。先生にはこの頃の見聞を書いた『あめりか物語』、『ふらんす物語』という作品があるのだ。
現在の御亭主の話では、全面改装しており永井荷風が来店していた頃とは、つくりもレイアウトも違うという。それでも、テラスに面した窓が、全面引き戸のガラス窓だったり、暖炉があり、レンガが壁面に使われている等店はどことなく古めいた感じがするのだ。そのテラス席もペットの犬をつれたお客さんが座ったりと、充分活用されている。一段低くトイレがあり、そこに手すりがついているのも面白い。
日和下駄に、蝙蝠傘、ロイド眼鏡、上下黒っぽいスーツで決め、ソフト帽をかぶった姿で、明治生まれにしては長身(175センチ余りあったらしい)だった荷風は、風貌からそうは思われないようであるが、実は男としてのダンディズムを生きたのであった。
(永井荷風の著作権は、この2010年元旦で切れ、はれて荷風は公に人類の財産になった。「青空文庫」での荷風作品の入力作業がすばやく進まれることが望まれる。ボクたちは待っています。ボクらのブログがタダで読まれるように、文豪と呼ばれるあなたたちの作品もそうなることを!)
(写真)「アリゾナ」の旧看板(撮影:フーゲツのJUN)
その荷風が毎日食した食事の記録でもある有名な「断腸亭日乗」には、荷風が踊り子を引き連れて「アリゾナ」へ繰り出した記述もある。
「昭和24年7月16日。晴。哺下大都劇場楽屋。踊子等とアリゾナにはんす。此夜上野公園に花火あり。」(原文漢数字)
どうやら先生はこの日、御贔屓のストリップ劇場の楽屋に入り浸り、そのまま踊り子たちを引き連れて「アリゾナ」で大騒ぎをしたらしいのです。もっとも、先生が「アリゾナ」へ通いだしたのは、この年の7月12日、つい四日前のことでございました。
先生は書いてらっしゃいます。
「昭和24年7月12日。晴。午前高梨氏来話。小川氏映画用事にて来話。晩間浅草。仲見世東裏通の洋食屋アリゾナにて晩食を喫す。味思ひの外に悪からず値亦廉なり。スープ八拾円シチュー百五拾円。」
昭和24年の物価水準で80円、150円というのがどれほどのものかというと、山手線初乗りが5円。教員の初任給が4,000円ほどである。けっして安くはないと思う。平成21年正月で、「アリゾナ」はハヤシライスが1,200円、トマト煮込みのものが1,400円くらいだった。もちろん、それにライス、パンがつく。相対的には現在の方が、安く食べられているという感じだ。
「アリゾナ」はその名前から推測がつくように、アメリカンそれも西部料理のようだ。トマトベースの煮込み料理がメインで、ある意味ではワイルドな料理なのである。それを、ことのほか先生が気に入ったのは、自身の若き日の1902年に渡米し、6年あまりNYやリヨンで銀行員として働いた体験があるのかもしれない。その折に覚えたアメリカン料理の味が懐かしかったのかもしれない。先生はそののち、パリに遊学する。先生にはこの頃の見聞を書いた『あめりか物語』、『ふらんす物語』という作品があるのだ。
現在の御亭主の話では、全面改装しており永井荷風が来店していた頃とは、つくりもレイアウトも違うという。それでも、テラスに面した窓が、全面引き戸のガラス窓だったり、暖炉があり、レンガが壁面に使われている等店はどことなく古めいた感じがするのだ。そのテラス席もペットの犬をつれたお客さんが座ったりと、充分活用されている。一段低くトイレがあり、そこに手すりがついているのも面白い。
日和下駄に、蝙蝠傘、ロイド眼鏡、上下黒っぽいスーツで決め、ソフト帽をかぶった姿で、明治生まれにしては長身(175センチ余りあったらしい)だった荷風は、風貌からそうは思われないようであるが、実は男としてのダンディズムを生きたのであった。
(永井荷風の著作権は、この2010年元旦で切れ、はれて荷風は公に人類の財産になった。「青空文庫」での荷風作品の入力作業がすばやく進まれることが望まれる。ボクたちは待っています。ボクらのブログがタダで読まれるように、文豪と呼ばれるあなたたちの作品もそうなることを!)
(写真)「アリゾナ」の旧看板(撮影:フーゲツのJUN)
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