風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

東京暮色その1/荻窪

2004-12-04 12:38:21 | 東京暮色/秋~初冬
otaguro音楽評論家の広大な屋敷跡

師走になった??あとひと月で今年も暮れる。そんなあわただしい12月の日々。2004年というもう二度とは、訪れない瞬間の東京という都会の心象スケッチ??初冬の暮れなずむ風景の中で、枯れ葉と紅葉でアース・カラーに染まった東京。 雲ひとつない青空を横切るひかりの晴れがましさ……そして欝になるほどの暗い曇り空……そんな日々の記録と心のうつろいを書き止めておきたい。

師走に入ったばかりの1日の午前中。荻窪駅南口に降り立ったボクの足は、いまやマンションの敷地となってしまったが、かってそこに旧家然としたお屋敷があったことを、想像させるに充分な「史跡・明治天皇小休所跡」と書かれた門碑のたつ門構えの立派な(いや、正確に言えば「門」しかないのだが)場所を通って、いつのまにか「大田黒公園」に向かっていた。杉並区にあるこの区立の公園を御存知だろうか?
8,972平方メートルの広大な敷地に住んでいたのは大田黒元雄(1893~1979)。30冊余の著作をもつクラッシックの音楽評論家である。我が国にその著作でもってドビュッシーやストラビンスキーを紹介したことで知られる人物である。
大田黒氏は、1964年までNHKラジオで18年間も続いた人気長寿番組「話の泉」のレギュラー解答者として出演しており、大部分の国民にとってその名は、「話の泉」によってよく知られるようになった。ボクも幼い時、その番組を聞いたことがある。「話の泉」は、我が国最初のクイズ番組であるそうな。たしか徳川夢声が司会をしていたのではなかったか?

この広大な土地に大田黒氏は昭和7年頃から住みつづけていたようである。その土地を残された遺族の方が、庭園を残した形で公園にという御希望で、杉並区に寄付されたのであるらしい(私有しつづけていたとしても、固定資産税は大変な額になることだろう)。
正門から生け垣のある小道を通って、右手に数寄屋橋作りの茶室・休憩所があり、全体は日本庭園かと考えていたボクに(もちろんボクは始めて行った)、大田黒氏が生前仕事部屋で使用していたと言う記念館は、思いがけずも洋館だった。この日は水曜日で記念館は幸いに扉を開いて、室内が一般公開されている日だ。
記念館に入りかかった時、うしろから金髪の外人女性が入ってくる。ボクは、また親切心というか下心(?)をおこしてスリッパをそろえて「プリーズ!」などと言っている!
公開されている部屋は、庭に面した応接間というか板の間の大田黒氏の仕事場でもあったところらしい。小振りだが、スタインウェーのグランドピアノなぞも置いてある。大田黒氏は破格のお金持ち、上流階級のひとであったようだ。30冊をこえる音楽関係の著作のリスト(といっても、ボクはそのひとつも知らなかったが、多くのひとも同様だろう。もちろん、クラシックを学んでいるひとには、その意味でも知られたひとであるのは当然であり、紫綬褒章、勲三等瑞宝章、文化功労賞をそれぞれ1964、1967、1977年に授けられているほどの有名人だったのだ)、「話の泉」に出演中のスナップ写真、記念の盾などが飾ってある。
ボクは親切心をおこして、外人女性に説明を試みるが、なにしろ単語が浮かんでこない。ま、なんとなく理解してもらって、庭に出る。「It's a wonderful day!」などと言ってみる。なにしろこの日は、朝から素晴らしい小春日和(インディアン・サマー)で、晴れ渡って庭の紅葉したモミジなどが美しく見える。
この外人女性は、実は滞在6年目のオーストラリア人でそれなりに日本語も話し、ボクのブロークン・イングリッシュを補うより日本語で話した方が早かったのだ。漢字も拾い読みくらいできるらしい。きっと大田黒氏の著作リストも、なんとなく理解は出来ていたらしい。
彼女は、国分寺の殿ケ谷公園なども知っていて、こちらの方がいいと言うのである。なぜなら、無料だからと。なかなか、素敵なひとだった。

庭で金髪女性と別れて、池を廻り(今回の故郷の悲惨な地震被害の事を知っているのか知らぬのか、新潟の小千谷市産の立派な錦鯉が悠々と泳ぎ回る池だった。)、ボクは荻窪の古書店を覗いて(江戸川乱歩の『幻影城』の復刻版を見つけるが、手が出なかった)ランチをとりに駅方向に向かう。
(この項つづく)