風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

東京暮色その8/旧近衛師団司令部庁舎

2004-12-27 23:27:53 | まぼろしの街/ゆめの街
konoe_2konoe_3皇居の脇、東京北の丸公園の一画にある近衛師団司令部庁舎のゴチック様式の建物がかっての偉容のままに東京国立近代美術館の別館の工芸館として使われているのを御存知だろうか?
すぐ横を首都高に入るジャンクションがあって、こんなところに? と、ふとタイムスリップに陥りそうな感覚の場所にそのレンガ作りの重厚な建物は建っている。実際そこに立てば、過去と現在の入り交じる風景に奇妙な感覚を覚えるはずだ。
もちろん、それは重要文化財という指定があり、とはいえ内部はコンクリート構造にあらためられてカビ臭い昔の建築物という訳ではない。しかし、外壁だけでなく、正面のファサード部分、つづく玄関ホール、階段、踊り場あたりにはそれはかってのこの建築物のいかめしい、近衛師団の司令部があったという息詰まるようなアウラは残っているのだ。
ボクが行ったこの日(実は、12月8日にここに来るために訪れたら休館日で、フラフラとそのまま靖国神社に行ってしまったのだった)、現在の使用方途である「国立近代美術館工芸館」としては、人間国宝である富本賢吉をとり上げた「人間国宝の日常の器」という企画展をやっていた。工芸も嫌いではない、むしろ民芸運動には興味を持っている。しかし、日常の器を展示ウィンドウのこちらから眺めさせるだけ、という展示の仕方には、正直反発を禁じ得ない。
だって、そこにはコーヒーカップも、きっとそれで食べたらうまそうな「カレー皿」もあったのだ。そいつは、使われた方がどんなにか幸せな作品(食器)だったことだろう。実際に、コーヒーを飲み、カレーを盛った方がよりよく鑑賞(!)できたのではないだろうか?
ボクは申し訳ないが建物の中を見るために入場料を払った(それでも破格の200円)。ここには、もう、幾度も来ている。この建物を発見(!)した時は、正直驚いたが、このような保存の仕方は支持する。使いながら、歴史的建造物として保存する。工芸品もそのようにありたい。昨日、書いたフルクサスの運動のように、コンセプチャルなアートがどんどん日常的なものになり、芸術としての閾(しきい)を低くしているのに、本来、日常の中の器や、食器であるものが、どんどん手の届かない、触れ得ないものになっていくということ自体をおかしいと思わないならそれはもう、硬直した死んだ思考だ。権威とか、権力とか、そういう別のものに成り果てているのであって、それはもう「コーヒーカップ」でも「カレー皿」でもない。
使途を失った器や、食器はもはや「工芸」でもない、ただの物だ。ローマのエジプトの遺跡から発見された貴重な遺物??使用価値を失った「もの」であろう。

テーマがずれてしまった。しかし、この建物が明治43年(1910)に建てられたと言うこと(日露戦争ぼっ発の6年後)。帝国陸軍の技師であった田村鎮(ただし)の設計によるものだ。と、そう書いたらそれ以上に書くべきことをボクは知らない。ただ、ここに佇むとかっての否定されるべき、軍国主義一色だったこの国の事実としての歴史の息吹といったものを感じることができる数少ない場所だと思うのである。

かってこの国は、旭の昇る姿を軍旗にしていた。世界に対し、西洋列強に学び、富国強兵で追い付き追いこすことを本気で信じていた。天皇制のもとに、結集し、やがて軍部の独走となった。世界に対し、国民を含めて誇大妄想的な夢を見た。まるで、劣等感の裏返しのようなものだった。軍部は、国民を鼓舞し、マスコミやメディア、ジャーナリズムもそれにつき従った。軍からの報道をそのまま流すと言う、宣伝機関になりさがった。画家や、文学者も翼賛体制の中で、国の戦争遂行政策の宣伝媒体にすぎないような作品を垂れ流すことになった。そのような時代が現実だった時間が、おおよそ80年あまりこの国の上に流れたのだ。
この場所も、そのような証言者のひとつであると思う。この国の中で流れた、異様な時間を記録している建築物のひとつであると思うのだ。