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■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-3

Vol.-2からのつづきです。


■ 第7番 仏到山 無量寿院 西光寺
(さいこうじ)
公式Web

台東区谷中6-2-20
新義真言宗
御本尊:五大明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第70番、弘法大師二十一ヶ寺第15番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第7番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-23 をベースに再編しています。

第7番札所は谷中の西光寺です。

西光寺はかつて御府内八十八ヶ所霊場第70番札所でしたが、現在第70番札所は練馬石神井の禅定院に替わっています。

御府内霊場第70番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに谷中の西光寺となっており、第70番札所は御府内霊場開創当初から江戸末期まで谷中の西光寺で、明治初頭以降に石神井の禅定院に変更となった可能性があります。

下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

西光寺は慶長八年(1603年)、傳燈大阿闍梨妙音院法印宥義大和尚(佐竹氏代16代当主・義篤次子、元和四年(1618年)寂)が幕府より神田北寺町に寺地を賜り開山といいます。
開基檀越は佐竹右京大夫義宣。
当山は佐竹氏との所縁がふかいので、佐竹氏について少しく追ってみます。

佐竹氏は新羅三郎源義光公の孫昌義(1081-1147?年)が常陸国久慈郡佐竹郷(現・茨城県常陸太田市)に土着し、佐竹氏を称したという清和源氏の名族です。

源平合戦では平家にくみしたため頼朝公により所領を没収された(Wikipedia)ものの、後に再興し奥州討伐では鎌倉方に加わりました。
南北朝時代の8代当主・貞義、9代・義篤は足利氏に応じて北朝方として活躍し、その功から守護職に任ぜられて家勢は興隆しました。

足利満兼公制定と伝わる「関東八屋形」に列せられ、戦国時代の15代当主・義舜は反目する佐竹山入家を討って佐竹氏統一を果たし、18代の義重は常陸の大半を支配下に置き、奥州南部にも進出して有力戦国大名としてその名を馳せました。

義重の子・19代義宣は秀吉公の小田原征伐に参陣し、常陸國54万5800石の大名となり、
徳川・上杉・毛利・前田・島津とともに「豊臣六大将」と呼ばれるほど勢力を拡大。

佐竹義宣は佐竹義重の嫡男で母は伊達晴宗の娘。
官位は従四位上・左近衛中将、右京大夫を賜るという、家柄・格式を有する、名実兼ね備えた太守でした。

義宣は幾度か石田三成のとりなしを受け、天正十八年(1590年)三成の忍城攻めに加勢したこともあり、石田三成との関係は良好でした。
慶長四年(1599年)3月、前田利家逝去ののち、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田輝政らが三成の屋敷を襲撃した際、義宣が三成を女輿に乗せ、宇喜多秀家邸に逃れさせたという逸話は有名です。
また、秀吉から羽柴姓を与えられるなど豊臣色の強い大名でした。

関ヶ原の戦いでは水戸城へ引き上げ、積極的に徳川方に与力しなかったため戦後咎を受けましたが家康公に謝罪し、家名断絶は遁れたものの出羽国秋田、54万石から20万石への減転封となりました。

義宣が家康公から転封の沙汰を受けたのは慶長七年(1602年)5月(Wikipedia)、出羽(秋田)入国は同年9月なので、水戸から秋田への転封直後にみずから開基となって西光寺を創建(慶長八年(1603年))したことになりますが、その背景は史料からは辿れませんでした。

慶安元年(1648年)神田北寺町の寺地が幕府用地として収公、谷中の現所に替地となりました。
慶安二年(1649年)佐竹修理大夫義隆(秋田久保田藩第2代当主)が堂舎を再建したため、義隆は中興開基とされます。
以降何度か火災に遭っていますが、都度佐竹家により再建されています。

公式Webによると、当山は「秋田藩(秋田市)佐竹家・伊勢津藩(三重県津市)藤堂家の祈願寺として信仰されてきた歴史」があるそうです。

公式Webによると、仏寺創建の際には藤堂高虎が財政的支持をおこなったと伝えられ、山内の韋駄天像は藤堂高虎安置と伝わり、別名「韋駄天寺」とも称されたようです。

江戸時代の西光寺は御府内二十一ヶ所霊場のほか、御府内八十八ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺、上野王子駒込辺(西國)三十三観音霊場の札所を兼ねられてお大師さまとの所縁もふかい寺院です。

明治初頭の神仏分離の波も乗り越えているのに、おそらく明治初頭以降のどこかのタイミングで御府内八十八ヶ所霊場第70番の札所は石神井の禅定院に変更となっています。

西光寺は和歌山の根來寺を総本山とする新義真言宗。
禅定院は真言宗智山派で宗派も異なり、変更の理由についてはよくわかりません。


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【史料・資料】

『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
七十番
谷中 門前町あり
佛到山 無量壽院 西光寺
本所彌勒寺末 新義
本尊:不動明王 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.98』
谷中 不唱小名
本所彌勒寺末
佛到山無量壽院西光寺
当寺之濫觴慶長八年(1603年) 開山宥義 於神田北寺町寺地拝領仕
堂舎 佐竹右京太夫義宣公建立
慶安元年(1648年)右寺地御用地ニ付 於当所旧地之●第四世宥鏡代拝領仕
慶安二年(1649年)佐竹修理太夫義隆公堂舎再建仕候

開山 伝灯大阿闍梨法印宥義、俗姓佐竹大膳太夫義篤公二男 元和四年(1618年)寂
開基 佐竹右京太夫義宣公 寛永十年(1633年)卒
中興開基 佐竹修理太夫義隆公(秋田久保田藩第2代当主) 寛文十一年(1671年)卒

本堂
 本尊 不動尊鋳型座像 附二童子木像
 四大明王木像 十一面観音木像 聖天府秘符
 阿弥陀如来木像
 弘法大師木像 興教大師木像
 愛染明王木像座像 地蔵菩薩木像座像 不動明王古像座像
境内鎮守社 天神稲荷疱瘡合殿
十一面観音石像
地蔵尊石像
韋駄天石像

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
西光寺(谷中上三崎南町二〇番地)
本所彌勒寺末、佛到山無量壽院と号す。本尊不動明王、五大尊。慶長八年(1603年)、開山妙音院宥義。(佐竹義篤次子、元和四年(1618年)寂)
幕府より神田北寺町に於て寺地を給せられ、佐竹右京大夫義宣開基檀越として当寺を創建した。慶安元年(1648年)同所幕府用地となるや、現所に替地を給せられ、翌二年(1649年)佐竹修理大夫義隆堂舎を再建した。義隆はために中興開基と呼ばれる。時の住持は第四世宥鏡であった。(略)
佐竹家の他に藤堂家の祈願所であつた。境内の韋駄天石像は同家の寄進する所で、韋駄天寺の俗称は之に基くのである。



「西光寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約10分。
東京メトロ千代田線「根津」駅からも歩けます。

三崎坂から南下して瑞輪寺よこを通り一乗寺に向かう路地沿いには、いくつかの寺院があってそのひとつ。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 韋駄天石碑

山内入口は門柱で、その横には「足病平癒 韋駄天安置 藤堂候 佐竹候旧御府内祈祷所」の石碑。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 左が韋駄天



【写真 上(左)】 石佛群-1
【写真 下(右)】 石佛群-2

正面が本堂、向かって左奥が庫裏(寺務所)というシンプルな伽藍配置です。
参道右手手前から、六地蔵、地蔵尊、十一面観世音菩薩、韋駄天、庚申様、如意輪観世音菩薩などの古色を帯びた石佛が並びます。

韋駄天は四天王の増長天に従う八将の一神で、走力に優れ邪神を追い払うことから伽藍の守護神とされ、とくに禅刹の庫裏(玄関)によく祀られています。


【写真 上(左)】 庫裏側の石像と句碑
【写真 下(右)】 本堂

本堂はおそらく切妻造桟瓦葺流れ向拝で手前に修行大師像とかわいい地蔵尊像が御座します。


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 斜めからの向拝

向拝は水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股を置いています。
正面硝子戸には佐竹家の家紋「佐竹扇/五本骨扇に月丸」が描かれ、見上には山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 門柱の寺号標

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
西光寺は以前は御朱印不授与でしたが、近年カラフルな月替わり御朱印で一気に人気のお寺となり、おそらく参拝者(というか絵御朱印ファン)の数は御府内八十八ヶ所霊場の札所より多いかと思います。
絵御朱印の威力おそるべし。

なお、こちらは授与日・授与時間限定でで案内が出ています。
授与日がすくなく授与時間も短いのでこのサイトで事前確認必須です。


〔 西光寺の御朱印 〕

 

中央に「五大明王」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。カラー御朱印の場合は主印が不動明王の御影となるようです。
右に「佐竹候藤堂候祈祷所」の印判。
左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第8番 瑠璃光山 薬王寺 長久院
(ちょうきゅういん)
台東区谷中6-2-16
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第55番、江戸八十八ヶ所霊場第55番、弘法大師二十一ヶ寺第19番、閻魔三拾遺第4番、江戸・東京四十四閻魔参り第12番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-19 をベースに再編しています。

第8番は谷中の長久院です。

第55番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに長久院で、第55番札所は開創当初から谷中の長久院であったとみられます。

下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

長久院は、慶長十六年(1611年)幕府より賜地を得て宥意上人が神田北寺町に開山、慶安十一年(1658年)幕府による寺地召上げを受け、代地として賜った谷中の現在地へ移転したといいます。

『下谷区史 〔本編〕』によると、神田北寺町での賜地および創建、谷中への移転の事由や時期は多寶院(第49番)、自性院(第53番)と同様とみられます。

江戸期の長久院は、本堂に御本尊の金剛界大日如来、弘法大師、興教大師、不動尊、愛染明王、薬師如来、歓喜天三躰、地蔵尊を奉安し、御府内霊場としての要件を満たしていたとみられます。

本堂とは別に閻魔法王石像(台石とも六尺)を奉安。
こちらは閻魔三拾遺第4番、江戸・東京四十四閻魔参り第12番の札所となっており、御府内でも著名な閻魔様であったことがわかります。

こちらの閻魔法王石像は右左にそれぞれ司命、司録像を配し「六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像」として台東区登載文化財に指定されています。
なお、閻魔法王(大王)王冥界の王で、司命は閻魔王の判決を言い渡し、司録は判決内容を記録する従者であるとされます。

台座銘文に六十六部聖の光誉円心が享保十一年(1726年)に造立とあります。
六十六部聖とは、生前の罪障を滅し、死後の往生に近づくために法華経を六十六部写経し、全国の六十六箇所の霊場に一部ずつ奉納して回る聖のことをいいます。

六十六部聖は巡拝先に奉納経石塔を建立することが多いですが、石仏を奉納する例もみられます。
石仏は地蔵菩薩が多く、閻魔王像は極めて稀であるとされ、この稀少さもあって区登載文化財に指定されている模様です。

『寺社書上』には「飯縄不動安置」とあり、飯縄修験の流れが入っていた可能性があります。
同じく『寺社書上』にある「稲荷社」は、鎮守神かもしれません。

長久院は「弘法大師二十一ヶ寺」第19番の札所でもあります。
この霊場は、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」が伝える弘法大師霊場で、この附版木は寛政二年(1790年)の開版ですからかなり古い来歴をもちます。

これとは別に「弘法大師 御府内二十一ヶ所」という霊場もあります。
「ニッポンの霊場」様によると、この霊場は元禄(1688年)から宝暦(1751年)の間に開創とされる古い霊場で、宝暦五年(1755年)頃の開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。

二十一ヶ所霊場は、八十八ヶ所霊場のミニ版として開創され八十八ヶ所と札所が重複するケースもみられますが、「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」ともに御府内霊場(八十八ヶ所)との札所重複は多くありません。

ご参考までにリストします。
なお、「弘法大師二十一ヶ寺」の札所の出所は↓『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺 版木』(台東区教育委員会刊)です。



【弘法大師二十一ヶ寺】
1番 萬昌山 金剛幢院 圓満寺
 真言宗御室派 文京区湯島1-6-2
2番 宝塔山 多寶院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-35
3番 五剣山 普門寺 大乗院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-16
4番 清光院 台東区下谷(廃寺)
5番 恵日山 延命寺 地蔵院
 真言宗智山派 台東区元浅草1-15-8
6番 阿遮山 円満寺 不動院
 真言宗智山派 台東区寿2-5-2
7番 峯松山 遮那院 仙蔵寺
 真言宗智山派 台東区寿2-8-15
8番 高野山 金剛閣 大徳院
 高野山真言宗 墨田区両国2-7-13
9番 青林山 最勝寺 龍福院
 真言宗智山派 台東区元浅草3-17-2
10番 本覚山 宝光寺 自性院
 新義真言宗 台東区谷中6-2-8
11番 摩尼山 隆全寺 吉祥院
 真言宗智山派 台東区元浅草2-1-14
12番 神勝山 成就院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-8-12
13番 広幡山 観蔵院
 真言宗智山派 台東区元浅草3-18-5
14番 望月山 般若寺 正福院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-7-21
15番 仏到山 無量寿院 西光寺
 新義真言宗 台東区谷中6-2-20
16番 鶴亭山 隆全寺 威光院
 真言宗智山派 台東区寿2-6-8
17番 十善山 蓮花寺 密蔵院
 真言宗御室派 中野区沼袋2-33-4(移転)
18番 象頭山 観音寺 本智院
 真言宗智山派 北区滝野川1-58-2
19番 瑠璃光山 薬王寺 長久院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-16
20番 玉龍山 弘憲寺 延命院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-2
21番 宝林山 大悲心院 霊雲寺
 真言宗霊雲寺派 文京区湯島2-21-6

このうち、「御府内八十八ヶ所」「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」の3つの霊場すべての札所となっているのは、霊雲寺(第28番/湯島)、多寶院(第49番/谷中)、自性院(第53番/谷中)、長久院(第55番/谷中)の4箇寺しかなく、札所重複が少ないことを示しています。
※( )は御府内八十八ヶ所霊場の札番。


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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十五番
谷中寺町
瑠璃光山 薬王寺 長久院
本所弥勒寺末 新義
本尊:阿弥陀如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.97』
谷中不唱小名
新義真言宗 本所弥勒寺末
瑠璃光山薬師寺長久院
慶長十六年(1611年)二月、神田北寺町ニ●寺地拝領仕 其後慶安元年(1648年)右地所御用地ニ相成 同年十一月廿一日当所ニ●代地拝領仕候
開山宥意 寛永四年(1627年)正月三日寂
本堂
 本尊金剛 大日如来木像
 弘法大師 興教大師 不動尊
 愛染明王木坐像 薬師如来木坐像 歓喜天三躰金佛厨子入 地蔵尊木立像
宝篋印塔
閻魔法王石像、臺石共六尺
稲荷社
飯縄不動安置

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
長久院(谷中上三崎町一七番地)
本所彌勒寺末、瑠璃光山薬師寺と号す。本尊大日如来。当寺も亦多寶院、自性院等と同じく慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給うて開創せられ、慶安元年(1648年)現地に移ったのである。開山は僧宥意。(寛永四年(1627年)一月三日寂)
境内に飯綱不動、石像閻魔等を安置する。



「長久院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※『江戸切絵図』では「長久寺」となっています。

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約10分。
東京メトロ千代田線「根津」駅からも歩けます。

三崎坂から南下して瑞輪寺よこを通り一乗寺に向かう路地沿いには、いくつかの寺院があってそのひとつ。
谷中寺町のほぼ中心部です。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 閉門時の山門

路地から少し引き込み、左右に築地塀と植栽をめぐらした山門の構えはなかなか風格があります。

山門は切妻屋根桟瓦葺の薬医門ないし高麗門で、見上げに院号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 山門の扁額
【写真 下(右)】 山内

山門をくぐると左手に智拳印を結ばれる金剛界大日如来像。


【写真 上(左)】 大日如来像
【写真 下(右)】 本堂と大師堂

参道正面が庫裡で、その右手に本堂、さらにその右手前に直角に向きを変えて大師堂。
本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股。
端正に整ったいい本堂です。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 閻魔様

本堂向かって右の堂前には、閻魔様、司命、司録が御座しています。
そばには「『笑いえんま』とよばれています。」という木板も掲げられていました。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂の扁額

大師堂は屋根に宝珠をおいた宝形造で流れ向拝。
向拝まわりの柱や虹梁はいずれも直線で、きっちりまとまった印象です。

御朱印は本堂向かって左の庫裡にて拝受しました。
なお、こちらは16:00閉門なので、時間に余裕をもった参拝をおすすめします。


〔 長久院の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十五番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています


■ 第9番 寶塔山 龍門寺 多寶院
(たほういん)
台東区谷中6-2-35
真言宗豊山派
御本尊:多宝如来
札所本尊:多宝如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第49番、江戸八十八ヶ所霊場第49番、弘法大師二十一ヶ寺第2番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-16 をベースに再編しています。

第9番は谷中の多寶院です。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

多寶院は、慶長十六年(1611年)幕府から神田北寺町に寺地を賜り建立されました。
開山は大僧都法印宥純(寛永五年(1628年)寂)、開基は不明です。

慶安元年(1648年)同所が幕府用地として召し上げとなり、現寺地に替地を得て移転しています。
湯島根生院の末寺の新義真言宗寺院で、御本尊は行基菩薩作と伝わる多宝如来です。
多宝如来は法華経に記され、東方・宝浄国の教主の如来です。

多宝如来は単独で奉安されることは少なく、御本尊の例もほとんどありません。
ただし、日蓮宗では法華経信仰に基づき釈迦如来とともに二体一組で信仰され重要なポジションです。
とくに、題目宝塔の両脇に釈迦如来と多宝如来を配した「一塔両尊」という安置形式は日蓮宗特有の御本尊として多くみられます。

密教では作例は少なく、札所本尊の例もほとんどないので当山の多宝如来は稀少です。
ちなみに、本四国八十八ヶ所に札所本尊が多宝如来の例はなく、他の弘法大師霊場でもみたことがありません。

当山は吉祥天の奉安でも知られています。
吉祥天はヒンドゥー教の女神・ラクシュミーが仏教にとり入れられたもので、仏教では母は鬼子母神、夫を毘沙門天とされます。

鬼子母神はとくに日蓮宗で信仰される尊格で、この点からも日蓮宗の影響が想起されますが当山は当初から純然たる密寺のようです。
この点は弘法大師霊場である御府内霊場の「御府内八十八ヶ所大意版木」が、多寶院が中心となって開版されたことからもわかります。

また、谷中エリアでの代表的な弘法大師霊場は、
 1.御府内霊場(御府内八十八ヶ所霊場)
 2.弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場
 3.弘法大師二十一ヶ寺
の3つありますが、多寶院は3つの霊場すべての札所となっており、弘法大師巡拝に外せない寺院であったことがわかります。
(「御府内八十八ヶ所大意版木」、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」ともに当山に収蔵。)

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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
四十九番
谷中門外
寶塔山 龍門寺 多宝院
湯嶋根生院末 新義
本尊:多宝如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.57』
湯島根生院末 谷中不唱小名
寶塔山龍門寺多宝院
慶長慶長十六年(1611年)二月十五日神田小寺町ニ寺地所拝領仕 其後慶安元年(1648年)御用地ニ●召上当時之地所拝領仕候
開山大僧都法印宥純(寛永五年(1628年)寂)
開基不分明
中興開山権大僧都法印澄正
本堂
 本尊 多宝如来 行基菩薩作
聖天堂
 聖天尊像
稲荷社
四国写八十八ヶ所碑三本 第四十九番目
石地蔵尊

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
多寶院(谷中町三二番地)
湯島根生院末、寶塔山龍門寺と号す。本尊多寶如来、開山宥純(寛永五年(1628年)八月五日寂)。慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給せられて建立した。慶安元年(1648年)同所が幕府の用地となるに及び現地に替地を給うて移転した。



「多宝院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約8分。メトロ千代田線「千駄木」駅からも歩けます。
(→ 谷中マップ
千駄木(団子坂下)から谷中に登る三崎坂(さんざきざか)が谷中霊園に月当たるところにあり、谷中界隈では比較的開けたところです。

門柱に札所札。門柱手前に吉祥天安置標。
門柱脇にも札所標がありますが、写真がうまく撮れていません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 つつじの時期の門柱


【写真 上(左)】 門柱の院号札
【写真 下(右)】 吉祥天安置標

参道左手に六地蔵を含む地蔵尊、その先に慈母観音。
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
見上げに山号扁額を掲げています。
雰囲気のあるいい本堂で、落ち着いて参拝ができます。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂向かって右手に谷中吉祥天のお堂。
堂前には幟がはためき、向拝見上げには「吉祥天」の扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 谷中吉祥天
【写真 下(右)】 谷中吉祥天の扁額

背後に円光(輪光)、胸部に瓔珞(ようらく)を帯び、右手は与願印、左手には宝珠を持たれる煌びやかな立像です。
吉祥天は仏教のなかでも屈指の美形の尊格として知られますが、こちらのお像も整った面立ちです。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
なお、「谷中吉祥天」の御朱印は不授与とのことです。


〔 多寶院の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

【専用集印帳】
中央に「本尊多宝如来」「弘法大師」の揮毫とお種子の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第四十九番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
多宝如来のお種子は「ア」とされますが、このお種子は「ア」ではないと思われます。


■ 第10番 本覚山 寶光寺 自性院
(じしょういん)
公式Web

台東区谷中6-2-8
新義真言宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第53番、江戸八十八ヶ所霊場第53番、弘法大師二十一ヶ寺第10番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-18 をベースに再編しています。

第10番は「谷中愛染堂」とも呼ばれる谷中の自性院です。

第53番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに自性院で、第53番札所は開創当初から谷中の自性院であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

自性院は、慶長十六年(1611年)、道意上人により江戸神田北寺町(現・千代田区神田錦町)に開創、慶安元年(1648年)幕府用地となったため、谷中の現在地を賜り移転と伝わります。

中興開山は第9世貫海上人。
元文年間(1736-1741年)上人が境内の楠を切り彫刻された像高1メートルの像内には、上人が高野山参詣のとき奥之院路上で拾われた小さな愛染明王が納められているといいます。(公式Webによると、「近年修理をしたところ像内より胎内仏を確認」とのこと。)

当山は愛染堂安置の愛染明王像で知られ、文化文政の頃(1804-1830年)になると、その名は近在まで広がり「愛染寺」と呼ばれて親しまれたそうです。

愛染明王はとくに縁結び、家庭円満のご利益で信仰されます。
昭和12年(1937年)1月から翌年5月にかけ「婦人倶楽部」に連載された、文豪・川口松太郎の『愛染かつら』は、当山奉安の愛染明王の縁結びのご利益と本堂前のかつらの古木をモチーフとして書かれた作品といいます。(作品中では「永法寺」として描かれる。)

主人公ふたりは当山の愛染堂前のかつらの木に手をふれ、愛染明王に愛を誓約しました。恋人同士がこうして誓うと、将来かならず結ばれるという筋書きで、「愛染かつら」は昭和13年(1938年)松竹映画として、上原謙と田中絹代が共演して大ヒットとなりました。

また、映画の主題歌『旅の夜風』(昭和13年)を歌った霧島 昇と松原 操(ミス・コロムビア)が共演をきっかけに結ばれるというエピソードもあいまって、当山の愛染明王への参詣者は急増したといいます。

いまは谷中の奥まった一画で、御府内霊場巡拝者を迎える静かな寺院となっています。


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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十三番
谷中寺町
本覺山 寶光寺 自性院
本所弥勒寺末 新義
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.99』
本所彌勒寺末
谷中不唱小名
本覺山寶光寺自性院
新義真言宗
本所弥勒寺末 谷中不唱小名
慶長十六年(1611年)二月 神田北寺町ニ而拝領仕候処 其後慶安元年(1648年) 御用地ニ奉差上、於当所代地拝領仕候
開山 道意上人
本堂
 本尊 金胎両部大日如来木像坐像 弘法大師木像 興教大師木像 不動尊木像 薬師如来木立像
宝篋印塔
地蔵堂 地蔵尊石像
中興開山 貫海上人
愛染堂 境内にあり 貫海上人の建立
愛染堂ハ今本堂と●●り 昔ハ別に本堂ありしと云

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
自性院(谷中上三崎南町六番地)
本所彌勒寺末、本覺山寶光寺と号す。本尊金剛界大日如来、胎蔵界大日如来。慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給うて開創せられ、慶安元年(1648年)現地に移ったのである。開山は僧道意。慶安元年(1648年)同所幕府の用地となり、現地に替地を給せられて移転した。



「自性院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋国立国会図書館DC(保護期間満了)


「自證寺(自性院)」/原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※『江戸切絵図』では「自證寺」と記されています。

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約7分。
東京メトロ千代田線「根津」駅からも歩けます。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 愛染明王安置碑

谷中六丁目のこのあたりは、ゆったりした区画の寺町で、落ち着いて参拝ができます。
路地に面した山内入口には愛染明王安置碑と『愛染かつらゆかりの地』の説明板。
左右の門柱は、それぞれ山号・寺号標と院号標となっています。


【写真 上(左)】 山号・寺号標
【写真 下(右)】 院号標

よく整備された山内。本堂前の大木が桂の木かどうかはうかつにも確認し忘れました。
参道が本堂前で右に折れる曲がり参道で、曲がった正面が本堂。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

入母屋造本瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を備えた端正な本堂です。

向拝硝子格子扉のうえに「愛染寺」の扁額。
通称が扁額となるのはめずらしいと思います。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 慈母観世音菩薩

御朱印は本堂向かって左手の庫裡で拝受しましたが、現況は専用納経帳のみへの授与かもしれません。(直近の状況は未確認)
また、こちらは16:00に閉門となるので、時間に余裕をもった参拝をおすすめします。


〔 自性院の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十三番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-4

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【 BGM 】
■ 黄昏に風る feat.Osakana / Music&Arrangement:Koa


■ 春空-ハルソラ- - 石野田奈津代


■ Far On The Water - kalafina Live FOTW Special Final
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