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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-18

Vol.-17からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第53番 本覚山 寶光寺 自性院
(じしょういん)
公式Web

台東区谷中6-2-8
新義真言宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第53番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第10番、弘法大師二十一ヶ寺第10番

第53番は「谷中愛染堂」とも呼ばれる谷中の自性院です。

第53番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに自性院で、第53番札所は開創当初から谷中の自性院であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

自性院は、慶長十六年(1611年)、道意上人により江戸神田北寺町(現・千代田区神田錦町)に開創、慶安元年(1648年)幕府用地となったため、谷中の現在地を賜り移転と伝わります。

中興開山は第9世貫海上人。
元文年間(1736-1741年)上人が境内の楠を切り彫刻された像高1メートルの像内には、上人が高野山参詣のとき奥之院路上で拾われた小さな愛染明王が納められているといいます。(公式Webによると、「近年修理をしたところ像内より胎内仏を確認」とのこと。)

当山は愛染堂安置の愛染明王像で知られ、文化文政の頃(1804-1830年)になると、その名は近在まで広がり「愛染寺」と呼ばれて親しまれたそうです。

愛染明王はとくに縁結び、家庭円満のご利益で信仰されます。
昭和12年(1937年)1月から翌年5月にかけ「婦人倶楽部」に連載された、文豪・川口松太郎の『愛染かつら』は、当山奉安の愛染明王の縁結びのご利益と本堂前のかつらの古木をモチーフとして書かれた作品といいます。(作品中では「永法寺」として描かれる。)

主人公ふたりは当山の愛染堂前のかつらの木に手をふれ、愛染明王に愛を誓約しました。恋人同士がこうして誓うと、将来かならず結ばれるという筋書きで、「愛染かつら」は昭和13年(1938年)松竹映画として、上原謙と田中絹代が共演して大ヒットとなりました。

また、映画の主題歌『旅の夜風』(昭和13年)を歌った霧島 昇と松原 操(ミス・コロムビア)が共演をきっかけに結ばれるというエピソードもあいまって、当山の愛染明王への参詣者は急増したといいます。

いまは谷中の奥まった一画で、御府内霊場巡拝者を迎える静かな寺院となっています。

当山は「弘法大師二十一ヶ寺」第10番の札所でもあります。
この霊場は、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」が伝える弘法大師霊場で、この附版木は寛政二年(1790年)の開版ですからかなり古い来歴をもちます。

これとは別に「弘法大師 御府内二十一ヶ所」という霊場もあります。
「ニッポンの霊場」様によると、この霊場は元禄(1688年)から宝暦(1751年)の間に開創とされる古い霊場で、宝暦五年(1755年)頃の開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。

二十一ヶ所霊場は、八十八ヶ所霊場のミニ版として開創され八十八ヶ所と札所が重複するケースもみられますが、「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」ともに御府内霊場(八十八ヶ所)との札所重複は多くありません。
「弘法大師二十一ヶ寺」はお大師さまのご縁日二十一日に因んでの開創なので合点がいきますが、「弘法大師 御府内二十一ヶ所」についてはナゾが残ります。

「弘法大師二十一ヶ寺」はなにかのWeb資料から札所情報を入手しましたが、いま検索してもヒットしません。ご参考までにリストします。

【弘法大師二十一ヶ寺】
1番  萬昌山 金剛幢院 圓満寺 真言宗御室派 文京区湯島1-6-2
2番  宝塔山 多寶院 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-35
3番  五剣山 普門寺 大乗院 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-16
4番  清光院 台東区下谷(廃寺)
5番  恵日山 延命寺 地蔵院 真言宗智山派 台東区元浅草1-15-8
6番  阿遮山 円満寺 不動院 真言宗智山派 台東区寿2-5-2
7番  峯松山 遮那院 仙蔵寺 真言宗智山派 台東区寿2-8-15
8番  高野山 金剛閣 大徳院 高野山真言宗 墨田区両国2-7-13
9番  青林山 最勝寺 龍福院 真言宗智山派 台東区元浅草3-17-2
10番 本覚山 宝光寺 自性院 新義真言宗 台東区谷中6-2-8
11番 摩尼山 隆全寺 吉祥院 真言宗智山派 台東区元浅草2-1-14
12番 神勝山 成就院 真言宗智山派 台東区元浅草4-8-12
13番 広幡山 観蔵院 真言宗智山派 台東区元浅草3-18-5
14番 望月山 般若寺 正福院 真言宗智山派 台東区元浅草4-7-21
15番 仏到山 無量寿院 西光寺 新義真言宗 台東区谷中6-2-20
16番 鶴亭山 隆全寺 威光院 真言宗智山派 台東区寿2-6-8
17番 十善山 蓮花寺 密蔵院 真言宗御室派 中野区沼袋2-33-4(移転)
18番 象頭山 観音寺 本智院 真言宗智山派 北区滝野川1-58-2
19番 瑠璃光山 薬王寺 長久院 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-16
20番 玉龍山 弘憲寺 延命院 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-2
21番 宝林山 大悲心院 霊雲寺 真言宗霊雲寺派 文京区湯島2-21-6

このうち、「御府内八十八ヶ所」「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」の3つの霊場すべての札所となっているのは、霊雲寺(第28番/湯島)、多寶院(第49番/谷中)、自性院(第53番/谷中)、長久院(第55番/谷中)の4箇寺しかなく、札所重複が少ないことを示しています。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十三番
谷中寺町
本覺山 寶光寺 自性院
本所弥勒寺末 新義
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.99』
本所彌勒寺末
谷中不唱小名
本覺山寶光寺自性院
新義真言宗
本所弥勒寺末 谷中不唱小名
慶長十六年(1611年)二月 神田北寺町ニ而拝領仕候処 其後慶安元年(1648年) 御用地ニ奉差上、於当所代地拝領仕候
開山 道意上人
本堂
 本尊 金胎両部大日如来木像坐像 弘法大師木像 興教大師木像 不動尊木像 薬師如来木立像
宝篋印塔
地蔵堂 地蔵尊石像
中興開山 貫海上人
愛染堂 境内にあり 貫海上人の建立
愛染堂ハ今本堂と●●り 昔ハ別に本堂ありしと云

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
自性院(谷中上三崎南町六番地)
本所彌勒寺末、本覺山寶光寺と号す。本尊金剛界大日如来、胎蔵界大日如来。慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給うて開創せられ、慶安元年(1648年)現地に移ったのである。開山は僧道意。慶安元年(1648年)同所幕府の用地となり、現地に替地を給せられて移転した。



「自性院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋国立国会図書館DC(保護期間満了)


「自證寺(自性院)」/原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※『江戸切絵図』では「自證寺」と記されています。

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約7分。
東京メトロ千代田線「根津」駅からも歩けます。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 愛染明王安置碑

谷中六丁目のこのあたりは、ゆったりした区画の寺町で、落ち着いて参拝ができます。
路地に面した山内入口には愛染明王安置碑と『愛染かつらゆかりの地』の説明板。
左右の門柱は、それぞれ山号・寺号標と院号標となっています。


【写真 上(左)】 山号・寺号標
【写真 下(右)】 院号標

よく整備された山内。本堂前の大木が桂の木かどうかはうかつにも確認し忘れました。
参道が本堂前で右に折れる曲がり参道で、曲がった正面が本堂。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

入母屋造本瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を備えた端正な本堂です。

向拝硝子格子扉のうえに「愛染寺」の扁額。
通称が扁額となるのはめずらしいと思います。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 慈母観世音菩薩

御朱印は本堂向かって左手の庫裡で拝受しましたが、現況は専用納経帳のみへの授与かもしれません。(直近の状況は未確認)
また、こちらは16:00に閉門となるので、時間に余裕をもった参拝をおすすめします。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十三番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第54番 東豊山 浄瀧院 新長谷寺
(しんはせでら)
豊島区高田2-12-39
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:
〔新長谷寺〕
江戸八十八ヶ所霊場第54番、江戸五色不動(目白不動尊)、関東三十六不動霊場第14番、東京三十三観音霊場第23番、近世江戸三十三観音霊場[1] 第16番
〔金乗院〕
江戸八十八ヶ所霊場第38番、江戸三十三観音札所第14番、山の手三十三観音霊場第9番、近世江戸三十三観音霊場[1] 第14番
司元別当:此花咲耶姫社など
授与所:庫裡

第38番札所の金乗院は、第54番札所の目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)を合寺したので、現在、金乗院が第38番、第54番のふたつの札所の御朱印を授与されています。
第38番札所金乗院の記事で第54番札所目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)もとりあげたため、第54番ではこの記事を再掲します。
(なお、本記事は「江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 3.目白不動尊」から転載・追記したものです。)

第38番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに金乗院なので、御府内霊場開創時から一貫して下高田砂り場の金乗院であったとみられます。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』および『関東三十六不動霊場ガイドブック』などから縁起・沿革を追ってみます。

金乗院は天正年間(1573-1592年)、開山永順が御本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を建立したのが草創といいます。
当初は蓮花山 金乗院と号し中野寶仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山 金乗院 慈眼寺と号を改め、音羽護国寺の末寺となりました。

御本尊は正観世音菩薩(伝・眦首羯摩作、運慶の作とも)。
山内に荒神を合殿する観音堂、御嶽社、辨天社、三峯社などを置き、江戸時代には旧砂利場村の此花咲耶姫社をはじめ社地三、四ヶ所の別当でしたが、昭和20年4月の戦災で本堂などの伽藍、水戸光圀公揮毫とされる此花咲耶姫の額などの宝物を焼失しました。

戦災で全焼した関口駒井町の新長谷寺(目白不動尊)を合併し、新長谷寺の札所も金乗院に移動しています。

明治初期の神仏分離を乗り切ったふたつの札所のうち一方が戦災で全焼して、一方に合寺されたという比較的めずらしい例です。

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第54番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに新長谷寺(目白不動尊)なので、御府内霊場開創時から一貫して関口駒井町の新長谷寺(目白不動尊)であったとみられます。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』および『関東三十六不動霊場ガイドブック』などから縁起・沿革を追ってみます。

目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)は、元和四年(1618年)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(現・文京区関口、金乗院から東に約1㎞)にありました。

『江戸切絵図(小日向絵図)』をみると、江戸川橋から目白台にのぼる目白坂沿い北側に永泉寺、養国寺、八幡宮(正八幡神社)と並び、その南側神田川寄りに目白不動尊があったことがわかります。

目白不動堂奉安の不動尊は高さ八寸、「断臂不動明王」といい、弘法大師の御作と伝わります。

縁起によると、弘法大師が唐より御帰朝の後、出羽羽黒山に参籠されたとき大日如来が現れてたちまち不動明王のお姿に変じました。
大師に告げるには「此の地は諸仏内証秘密の浄土なれば、有為の穢火をきらえり、故に凡夫登山する事かたし、今汝に無漏の浄火をあたうべし」と。
不動尊は利剣をもってみずから左の御臂を切られると、霊火が盛んに燃え出でて仏身に満ちあふれました。
大師はこの御影を二体謹刻され、一体は出羽国の荒沢に安置され、もう一体は大師みずから護持されたと伝わります。

後年、野州足利の沙門某が大師護持の不動尊を奉持していましたが、武蔵国関口の松村氏が霊夢を得て足利よりお遷しし、領主の渡辺岩見守より関口台の一画に土地の寄進を受けて一宇を建立したのが本寺の濫觴(らんしょう/はじまりのこと)とされます。

元和四年(1618年)、大和長谷寺小池坊秀算僧正が中興、徳川2代将軍秀忠公の命により堂塔伽藍を建立。
大和長谷寺から御本尊と同木同作の十一面観世音菩薩像を御遷ししてその直末となり、東叡山 浄滝院 新長谷寺と号しました。

寛永年間(1624-1644年)、3代将軍家光公は当山の断臂不動明王に「目白」の号を贈り、江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとして、また、江戸三不動の代一位として名を高め、人々の篤い信仰を受けました。
ことに護身、厄除け眼病治癒の不動尊として霊験あらたかとされます。

元禄年間(1688-1704年)には、5代将軍綱吉公とその母桂昌院が深く帰依してさらに伽藍を整え、寺容は壮麗を極めたと伝わります。

境内は堰口の流れを見下ろす高台の景勝地で、付近には茶肆、割烹などの店が出て、ことに月雪景の名所であったようです。
その佳景は、『東京名所四十八景 関口目しろ不動』 (慶應義塾大学メディアセンターDC)からも偲ぶことができます。

昭和20年5月の戦災で焼失したため金乗院に合併、御本尊の目白不動明王像は関口から金乗院に遷られました。

ふたつの名刹が合併した金乗院は今日も複数のメジャー霊場の札所であり、多くの参拝客を集めています。
また、当寺住職の小野塚幾澄大僧正は、平成20年から平成24年まで真言宗豊山派管長・長谷寺化主に就任されています。

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【史料】
【金乗院関連】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
三十八番
砂り場
神霊山 金乗院
中野村宝仙寺末 新義
本尊:千手観音 興教大師 弘法大師

『新編武蔵風土記稿 巻之12 豊島郡之4』(国立国会図書館)
(下高田村)金乗院
新義真言宗多磨郡中野村寶仙寺末、神靈山観音院ト號ス 本尊正観音長一寸八分眦首羯摩作 開山永順文禄三年(1594念)六月四日寂 御嶽社 辨天社 三峯社 観音堂/荒神ヲ合殿トス 観音ハ木ノ立像長三尺運慶ノ作ト云


「金乗院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


「宿坂関旧址 金乗院 観音堂」/原典:斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』十二,博文館,1893.12.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』音羽絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

【新長谷寺関連】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十四番
関口駒井町
東豊山 海瀧院 新長谷寺
紀州初瀬小池坊末 新義
本尊:十一面観世音菩薩 本社目白不動明王 弘法大師

『江戸名所図会. 十二』(国立国会図書館)
目白不動堂 同所東の方にありて堰口の涯に臨む真言宗にして東豊山新長谷寺と号す
長谷小池坊の宿寺とす
本尊不動明王の霊像は長八寸弘法大師の作 総門の額東豊山の三大字ハ南岳悦山の筆
縁起云弘法大師唐より帰朝の後 羽州湯殿山に参籠ありし時 大日如来忽然と不動明王の姿に変現し滝の下に現ハれ●● 大師に告て云く此地ハ諸佛内證秘密の浄土なれハ有為の穢土をきらえり 故に凡夫登山することかたし 今汝に無漏の上火をあたふべしと宣ひ持ちし●●●の利劍をもって左の御臂を切●●ハ、霊火盛に燃出でて佛身に充てり 依て大使面前に出現の像二躯を模刻し一躰ハ同國荒澤に安置し 一躰ハ大師自ら護持なしたまふ
その後野州足利に住せる沙門某之を感得し●奉持せしに一年 霊感あるを以て此地の住人松村氏某に●かりつひに一宇を開きて此本尊を移し安置なし奉ると
当寺元和四年和州長谷小池坊秀算僧正中興ありし頃 大将軍台徳公の厳命により堂塔坊舎御建立あり
また和州長谷寺の本尊と同木同作の十一面観世音の像をうつし新長谷寺と改む
大将軍大猷公目白の号を賜ひ 元禄の始にハ桂昌一位尼公御帰依浅からす諸堂修理を加へたまひ丈余●地蔵尊等を安置なさしめられたり
此地麓●●堰口の流を帯ひ 水流そうそうとして日夜不絶 早稲田の村落高田の森林を望む風光の地なり 境内貸食亭多く何れも涯に臨めり

また、『寺社書上(御府内備考). [61] 関口寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社書上P.134』
新義真言宗
和州長谷小池坊末
目白不動尊別当
東豊山 新長谷寺 海瀧院
本堂
 本尊不動尊 弘法大師御作 秘佛
 開帳佛不動 木立像
 前立不動 木座像 四大明王ニ童附各立像
不動堂本殿 桂昌院御建立別堂
 地蔵尊木立像
 不動木立像 良弁僧都作
 聖徳大師木立像
 七曜佛木立像 運慶作
 庚申佛木立像
 疱瘡神木立像
 愛染明王木像
 大日如来木像 聖徳太子作
 毘沙門木像
 弁財天木像 竹生嶋写し
観音堂
 本尊十一面木立像 行基菩薩作 開山秀算僧正勧請
 前立観音木立像
 与森天神木座像
 興教大師木像
 弘法大師木像 伊豫國延命寺写しニテ五十四番札所
 開山秀算僧正木像
 子安地蔵尊金立像
 如意輪観音木像
 弥陀木座像
 聖天金像
末社
 稲荷社、秋葉社、人丸社
唐金地蔵尊 濡佛

『東京名所図会』(国立国会図書館)
目白不動堂は同所東の方にあり堰口の涯に臨む真言宗にして東豊山新長谷寺と號す 本尊不動明王は弘法大師の作なり 当寺は元和年間(1615-1624年)和州長谷の小池坊秀算僧正中興ありしより将軍家の厳命にて堂塔伽藍建立あり 後ち桂昌院尼公諸堂に修理を加えられ頗る荘厳を極めたり 境内眺望佳絶にして茶肆割烹店等多し 冬月雪景最も宜しと云ふ


「新長谷寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


「目白不動堂」/原典:斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』十二,博文館,1893.12.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』小日向絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ・都電荒川線「雑司ヶ谷」駅か都電荒川線「学習院下」駅ですが、道行きの風情は「雑司ヶ谷」駅ルートの方があると思うので、こちらをご紹介。

メトロ・都電荒川線「雑司ヶ谷」駅3番出口から、目白通りを渡って宿坂通りに入ります。
目白通りは目白台の台地上を走り、ここから南側、神田川にかけては下り勾配となります。
宿坂(しゅくざか)もかなりの急坂ですが、この一本西側の「のぞき坂」は別名を「胸突(むなつき)坂」といい、「東京一急な坂」として知られています。

『江戸名所図会. 十二』(国会図書館DC)には以下のとおり「宿坂」と「金乗院」が記されています。
「宿坂関之旧跡 同北の方金乗院といへる密寺の寺前を四谷町の方へ上る坂口をいふ 同じ寺の裏門の辺にさらちの平地あり(中略)昔の奥州街道●●其頃関門のありて跡ありといへり」

現地掲示によると、この辺りは中世に「宿坂の宿」と呼ばれた関所があり、「立丁場」と呼ばれた金乗院裏門辺の平地が関所跡との伝承があります。
宿坂は「江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話」が伝わっているそうです。


【写真 上(左)】 宿坂
【写真 下(右)】 山門

宿坂をほぼ下りきった右手が金乗院の山門です。
二軒の垂木を備えた銅板葺のどっしりとした二脚門で、「神霊山」の山号扁額を掲げています。
右の門柱には、関東三十六不動霊場、左には江戸三十三観音札所の札所板。


【写真 上(左)】 関東三十六不動霊場の札所板
【写真 下(右)】 江戸三十三観音札所の札所板

約200年前の建立ですが昭和20年4月の戦災で屋根を焼失、昭和63年に檀徒の寄進により復元されています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山門前の不動尊

山門周辺に御府内霊場第38番および第54番の札所標、「目白」と刻まれた台座の上に石造坐像のお不動さま、江戸八十八ヶ所霊場第38番の札所標、「東豊山 新長谷寺」の寺号標などが建ち並び、当寺の歴史を物語っています。


【写真 上(左)】 御府内霊場第38番の札所標
【写真 下(右)】 御府内霊場第54番の札所標


【写真 上(左)】 江戸八十八ヶ所の札所標
【写真 下(右)】 山の手三十三観音霊場の札所標

「江戸第拾六番 山之手第九番 本尊十一面観世音」の札所柱もありました。
「山之手第九番」は山の手三十三観音霊場第9番(新長谷寺)と思われますが、「江戸第拾六番」については霊場不明です。


【写真 上(左)】 金乗院の寺号標
【写真 下(右)】 新長谷寺の寺号標

石敷のすっきりとした境内。
山門正面が庫裡(納経所)、その左手に本堂、山門右手の高みが目白不動尊の不動堂です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂と不動堂

御府内霊場第38番、江戸三十三観音札所第14番は本堂、御府内霊場第54番、関東三十六不動霊場第14番は不動堂のお参りとなります。(御府内霊場は修行大師像も参拝)
(「本堂に『断臂不動明王』を安置」とする資料もありますが、『関東三十六不動霊場ガイドブック』には不動堂が参拝堂とあり、不動堂への参道に「目白不動尊参道」の案内掲示、不動堂の扁額も「目白不動堂」です。)

ちなみに御府内霊場のうち、一寺二札所、ふたつの御朱印をいただけるのはこちらのみです。


【写真 上(左)】 本堂(斜めから)
【写真 下(右)】 本堂向拝露天

本堂は昭和46年再建、平成15年の改修。
木造ではありませんが、入母屋造本瓦葺流れ向拝。
大棟、降り棟ともにやや細身ですが、隅棟、稚児棟まわりの鳥衾・熨斗瓦、掛瓦などのつくりが精緻で、屋根の照りもほどよく風格ある堂宇です。
水引虹梁に禅宗様の木鼻、中備えに蟇股、向拝正面は格子戸、その上に「神霊山」の扁額を掲げています。
御本尊は眦首羯摩作と伝わる高さ7㎝の聖観世音菩薩。金剛仏で秘仏です。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 修行大師像

本堂向かって左に端正な修行大師像が御座。
金乗院は江戸五色不動唯一の真言宗寺院で、江戸五色不動巡拝中に修行大師像のお参りができるのはこちらだけです。

本堂向かって右には「倶梨伽羅不動庚申」。
不動明王の法形である倶梨(利)伽羅剣と「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られた石像で、寛文六年(1660年)の建立です。
「人間を罪過から守る青面金剛の化身、三猿は天の神に人間の犯す罪を伝えない様子をあらわしている。」という現地掲示があります。


【写真 上(左)】 倶利伽羅不動庚申
【写真 下(右)】 不動堂参道

その横に宝塔。その後ろには立像の金仏(地蔵尊)。
その右横が墓地への参道で、その奥には慶安の変(由井正雪の乱、慶安四年7月(1651年))の首謀者の一人、丸橋忠弥の墓所があります。

さらに右手の山門寄りの高みのお堂が、目白不動尊の不動堂です。
確信はないですが、おそらく入母屋造銅板葺妻入り、妻側に付向拝の構成かと思われます。
棟部に経の巻獅子口、猪の目懸魚が見えます。


【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 不動堂向拝

水引虹梁部は向拝幕が張られているのでよくわかりませんが、身舎正面上部に「目白不動尊」の扁額。
格子戸越しに目白不動尊のおすがたが拝せます。
こちらの不動尊は御前立かと思われます。
整った面差しで、右手に剣、左臂に火焔を抱かれ、大盤石の上に御座される立像です。


【写真 上(左)】 不動堂扁額
【写真 下(右)】 鐔塚

境内にはこの他、寛政十二年(1800年)に建立の刀剣の供養塔、鐔塚(つばづか)などの見どころがあります。

なお、江戸名所図会で宿坂のかなり上方に描かれている観音堂(運慶作の観音像が奉られていたと伝わる)の現況については不明です。

御朱印は境内寺務所にて快く授与いただけます。
こちらは江戸五色不動のほか、御府内霊場(2札所)、江戸三十三観音札所、関東三十六不動霊場の札所も兼ねられ、いずれも御朱印を授与されています。

札所無申告の場合、目白不動尊、聖観世音菩薩いずれの御朱印になるかは不明ですが、おそらく先方からお尋ねになるのかと思います。


〔御府内霊場第54番(新長谷寺)の御朱印〕

【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「目白不動明王」「弘法大師」の揮毫と聖観世音菩薩のお種子「サ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右上に「弘法大師御府内霊場第三十八 五十四番」の札所印。左下に寺号院号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔江戸五色不動尊の御朱印〕

・御朱印尊格:目白不動明王 関東三十六不動尊霊場第14番印判 師子光童子の印判 直書(筆書)
※ 関東三十六不動霊場の御朱印が授与されている模様です。

〔関東三十六不動尊霊場第14番の御朱印/専用納経帳〕

・御朱印尊格:目白不動明王 関東三十六不動尊霊場第14番印判 師子光童子の印判 筆書

〔江戸三十三観音札所第14番の御朱印〕

・御朱印尊格:聖観世音菩薩 江戸三十三観音札所第14番印判 目白不動尊の印判 直書(筆書)


〔 御府内霊場第38番(金乗院)の御朱印 〕


【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「聖観世音菩薩」「弘法大師」の揮毫と聖観世音菩薩のお種子「サ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右上に「弘法大師御府内霊場第三十八 五十四番」の札所印。左下に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-19


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ 私達を信じていて - CINDY


■ Airport - 今井優子


■ far on the water - Kalafina
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