民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「モノクロ」 マイ・エッセイ 12

2015年02月18日 00時14分30秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
 「モノクロ」 マイ・エッセイ
                                               
 最近、年をとったせいか、妙にモノクロの世界になつかしさをおぼえる。わたしが子ども時代を過ごした昭和30年代は、まさにモノクロの世界だった。
 パソコン依存症でいろいろなブログを徘徊している。その中のお気に入りのひとつに「懐かしい昭和の情景を追って」というタイトルのブログがある。蒸気機関車、古い町並み、茅葺(かやぶき)屋根などの写真を投稿していて、そのほとんどが白黒写真である。やはり、昭和の風景には白黒写真がふさわしいのだろう。
 記憶の中の昭和の風景を思い出してみる。
 町の風景は、まだ舗装のされていない馬糞(まぐそ)が落ちていた道。ほとんどの屋根が灰色の瓦(かわら)、外壁は木の板張りの家。小学校の木造校舎。雨が降るとグチャグチャになった校庭。ブランコ、鉄棒、ジャングルジム。土を掘ったゴミ捨て場。蒲生君平の像。
 住んでいた家では、手作りの池。不相応に広い玄関。四畳半の茶の間。ちゃぶ台、堀ゴタツ、おやつの入っていた茶ダンス。蝿帳。お櫃(ひつ)。背をはかった印にキズがついている柱。ゼンマイ仕掛けの柱時計。欄間のあるフスマ。床の間付きの和室。こするとボロボロ落ちた塗り壁、いつまで見ていても飽きなかった天井の木目、節。夏に蚊帳(かや)をひっかけた長押(なげし)。破れたところが重ね張りしてある障子。下が物置になっていた縁側。ガラス戸の外には木製の雨戸。足踏み式ミシン。汲み取り式の便所。むき出しのコンロ。石の流し台。マキで沸かした木製の風呂。火吹き竹。井戸。洗濯板、盥(たらい)。七輪・・・・・。
 こうして思いつくままにあげてみると、今も残っているものは一つもないことに驚く。
 そんな風景と共に思い出すのは子どものころの遊びである。
 ポケットにはいつも肥後の守(かみ)が入っていて、木や竹を切ったり、削ったりしていろいろなモノをつくった。竹トンボ、杉デッポー。鉛筆の芯を削るのなんてお手のものだった。竹ヒゴをろうそくの火であぶり曲げてつくった飛行機。勝つために必死になって鉄のヤスリで削ったベーゴマ。メンコ、ビーダマ。ニービー弾、銀玉鉄砲。みんなで遊んだチャンバラごっこ、おしくらまんじゅう、缶ケリ。股に頭をつっこんで屈み敵がのっかってくるのを必死に耐えた胴馬(どうま)。 缶ヅメの空き缶に穴をあけ、ヒモを通して竹馬のようにして遊んだ。
 ポケットにはローセキ(蝋石)も入っていて、コンクリートの地面に落書きをしたり、石ケリなどの遊びをするための線を引いたりした。
 それらが、わたしの子どものころの風景である。
 モノクロとは、背景色にもう一つの色を加えた世界であるとするなら、わたしの子どものころ見た風景は厳密にはモノクロと言わないかもしれない。けれども、わたしにとって、それはモノクロの世界である。
 子どものころ、写真、テレビ、映画は白黒だった。肉眼で見るとカラーの世界が、それらを通すとモノクロの世界になって見えていた。それと同じように、子どものころの記憶を呼び戻すための脳の装置は、カラーの画像をモノクロの画像に変換してしまうのだろう。
 ちょうどいま読んでいる本に、英文学者の吉田健一は、テレビでチャンバラを見るのが好きだが血の色を見るのがイヤで、カラーテレビを白黒にして見ている、と書いてあった。
 同じ風景を撮った白黒写真とカラー写真とを見比べてみるとわかるが、白黒写真の方がカラー写真よりも、はっきりと輪郭が浮かびあがって見える。
 唐突な喩えだが、絵画で水墨画を見るとき、読書で吉田兼好の「徒然草」を読むとき、音楽でバッハの無伴奏バイオリンを聴くとき、わたしはそれらにモノクロの世界を見る。
 単純でありながら、たどりつけない精神の高さに心を打たれる。

 白黒の映画で印象に残っているのは、昭和27年につくられた、黒沢明監督、志村喬主演の「生きる」である。
 市役所に勤める中年男がガンにおかされ、自分の命がまもないことを知る。毎日の判を押すような生き方に疑問を抱き、公園をつくってほしいという住民の希望を実現させることに残りの人生を捧げる。お役所仕事に逆らい、圧力や妨害にも負けずに全力で立ち向かうその姿に、最初は白い眼で見ていた同僚たちも次第に心を動かし、住民のために仕事をすることの大切さに気づき、生き生きと仕事をするようになる。
 やがて、みんなの熱意で公園が完成し、雪の降る夜、男はブランコに乗り、
「いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 あせぬ間に・・・・・」
と切々と歌い、息を引き取る。
 男の死後、同僚たちは前と変わらず判を押したような毎日に戻っている。
 静かな水面(みなも)に小石を投げると波紋が生じる。しかし、それもいっとき、時間がたてばなにごともなかったように、また元の静かな水面に戻っている。
 ひとりの人間のできることなんて、なんとちっぽけなことなんだろう。
                                


「溲瓶(しゅびん)」 団 伊玖磨

2015年02月16日 00時55分40秒 | エッセイ(模範)
 「パイプのけむり」 団 伊玖磨 著  朝日新聞社 1965年(昭40)

 「溲瓶(しゅびん)」 昭40.1.22

 僕は溲瓶の愛用者であって、自宅においては各室に溲瓶を具(そな)え、随時、随所で用を足すことを以って喜びとしている。

 さて溲瓶とは何であるかと言うに、それは、通常しびんと訛って言われる。あの、厚い硝子で出来た一物のことで、正確に表現すれば、男性用携帯放尿器のことである。本来、溲瓶とは陶製のもののことを言ったらしいが、今はその総てが硝子製であって、量を計るために横腹に目盛りが記され、背の部分に持ち運びのための把手(とって)が付いているのが普通である。

 何でまたトイレットに行かずに、随時随所で小用を足せるような設備投資を僕が家に行うに到ったかと言うと、その責任の一端はは、アメリカが月ロケットの打ち上げに成功したことにある。あの日、正確に言えば去年の7月31日の夜、僕はトイレットの中に蹲(うずくま)りながら、こうも原子力の開発が進み、今日はロケットさえもが月に届いたという現代において、人間が、いちいち尿意、もしくは糞意を催す度にトイレットに通うなどという、全く以って原始的な行為を続けていて良いものであるかどうかに、深く考えを致したのである。世間一般の人々は、一方で宇宙旅行を論じながら、他方、自分の行っている日常生活の中の愚行に気ずかずに、昔ながらのトイレ通いを続けて平気であるようだが、どうもこれは可笑しい。よし、この際、月ロケットが月面に到着したことを記念して、小生は、本日只今より、小用のために厠に赴くという陋習(ろうしゅう)を自宅においては全廃して、以後、随時随所、居ながらにして用を足すことにしようと決心して、急遽(きゅうきょ)、家人を薬屋に走らせ、計四個の溲瓶を入手、客間、居間、書斎、寝所(しんじょ)の四室にそれを一つずつしつらえたのである。置き場所については、色々考えた末、矢張りこの種のものは、あまりに見え過ぎるところでは具合が悪るかろうと思い、客間はソファの下、居間は掘り炬燵の中に隠匿し寝所は、手の届く枕許の本棚の下段、最も使用頻度の多い書斎は、書き物机の下に定置することにした。

 この日以来、僕は溲瓶愛用者となり、文明生活を送っている。
 溲瓶の取り扱いについては、現在、ベテランと化した小生から御教示したいことは山々あるが、上品な本書の紙面をこれ以上汚すのもなにかと思い、止めることにする。ただ書き物のために机に向かっている時と、掘り炬燵に客と対座している時に、トイレに立たなくて済む便利さは筆舌に尽くし難いということだけは御伝えしたく思う。この稿を書いている時も、僕は、硝子製の愛器を片手で保持しているかもしれず、これは絶対に此処だけの話だが、もったい振ったつまらぬ客と対座しながら、季節の挨拶などを交わしつつ、素知らぬ顔で放尿する痛快さはまさに比類がない。こんなことをしても、ベテランである僕の場合は、相手に悟られることは絶対に無いのだから、いささかも失礼には当たらない。
 但し、初心者は、僕の真似をしては不可(いけな)い。

 以下略

 団 伊玖磨 大正13年東京生まれ。昭和20年東京音楽学校(芸大)作曲科卒業。以後作曲ならびに自作の演奏に従事。昭和41年日本芸術院賞受賞。「パイプのけむり」「続パイプのけむり」で第19回読売文学賞(随筆・紀行)受賞。日本芸術院会員。

 このエッセイを読んでこれは事実なのだろうか、それとも読者を楽しませるサービス精神なのだろうか、疑問が解けない。あの団伊玖磨が本当にこんなことをしているとはどうしても思えないのだ。

「どくとるマンボウ青春記」 北 杜夫

2015年02月14日 00時09分36秒 | 雑学知識
 「どくとるマンボウ青春記」 北 杜夫 著  新潮文庫 平成12年(刊行 昭和42年)

 前略

 ところが私は、読書するよりも、もっとくだらぬ外形にまず時間を割いてしまった。帽子に、夢にまで見た白線(旧制高校生は白線帽が特徴であった)を巻き、それに醤油と油をつけて古めかしく見せようと努力した。次に、一人の友人から当時には貴重なものであった地下足袋とひき換えに、でっかい朴歯の下駄を獲得した。それには普通の鼻緒がついていたが、私はどえらい苦心ののち、直径四センチもある鼻緒を自ら作りだし、これを朴歯にとっつけた。旧制高校生の弊衣破帽というのはむろん彼らなりの裏返されたおしゃれで、いつの世にもわざと異様な格好をし、一般の世人とは区別されたがる人種がいるのと同様である。(P-20)

 中略

 更に上級生は、ストームなるものを寮に復活した。ストームにもいろいろあるが、その一つは説教ストームである。真夜中、寝ている下級生を叩き起こし、なんのために入寮したのかとか高校生活の意義だとか質問を発す。どのように答えても、バカヤローの怒声が返ってくる。つまり、それまでの一般世間の常識、価値観をすべてくつがえし、高校生としての自覚に目ざめさせるのである。これはやるほうにも相手を即座にやりこめるだけの頭脳を要するけれど、やられるほうはネボケマナコだし、寝巻一枚でふるえていなければならぬし、十人の説教強盗にはいられたよりも災難だ。
 ただのストームというのは、やたらに騒々しい、単細胞の権化のごときデタラメのエネルギーの発露である。深夜、朴歯をはき、ホウキをふりまわし、せい一杯の声でデカンショをがなりたてながら、寮じゅうの廊下をねって歩く。いや、とびはねてゆく。朴歯で廊下を蹴り、あるいは手に持って打ちあわせ、ホウキ、ボウ切れでそこらじゅうを叩き、いかにしてもっとも凄まじい音響を立て、惰眠をむさぼる奴輩(やつばら)を覚醒させるかという狂宴である。
 いま追想してみると、なんたる天下一品のバカ騒ぎ、よくもまああんな真似をしたものだと我ながらあきれかえるが、当時は易々とその熱狂の渦の中に巻きこまれたもののようだ。また、こちらは寝ていて、幸いストームに室内に侵入もされず、目覚めて寮の辺りで、「ヨーイ、ヨーイ、デッカンショー!」という唄声が遥か彼方から伝わってくると、なにか哀愁を帯びてもいるようで、やはりいいものだなと思ったりしたものだ。(P-42)

 後略

 

 

「土着と反逆―吉野せいの文学について」 杉山 武子

2015年02月12日 00時19分42秒 | 雑学知識
 「土着と反逆―吉野せいの文学について」 杉山 武子 著 出版企画 あさんてさーな 2011年

 第四章 寂寞を超えて―渋谷黎子の生と死

 プロローグ

 1986年元旦、この年の誕生日で満37歳になる私は、少し前から37歳という年齢にこだわってきた。それは数年前に読了した高群逸枝(たかむれいつえ)の自叙伝『火の国の女の日記』の鮮烈な印象からきている。その本の余韻がふとした意識の切れ目から、思わぬ強さで立ちのぼってくるのである。私の内面をのぞき見るかのように――。

 高群逸枝が世間との交渉を断って「森の家」に引きこもり、女性史の研究という壮大な志を実行に移したのは、1931年7月1日、37歳の時であった。後日逸枝はこう回想している。

 私には、私のあわれな仕事はじめの日のことが、その後長い歳月がたっても忘れられない。――仕事場はできたけれども、五坪の書斎のまんなかに、三尺の机をぽつんと置き、『古事記伝』(本居宣長)を一冊のせて坐ったとき、書架や書庫にはまだ何一つなく、金もなく、多難な前途がしみじみと思いやられた日のことが。(『火の国の女の日記』)

 研究生活に入って、逸枝が最初に取り組んだのは日本の「母性系の研究」であった。その背景には、逸枝の鋭い現状認識からくる内的必然があった。

 中略

 逸枝はこのような状況に対する長年の疑問と憤りを率直に述べ、自分の女性史研究、わけても日本母系性研究の動機を明らかにしている。

 以来、一日最低10時間の読書・勉強を己に課し、厳守し、27年後の64歳、ついに『大日本女性史』全六巻の完成をみた。この間の研究生活の様子は、夫・橋本憲三の献身的な援助と共に、今日広く知られるところである。加えてその生活の過程で、二人の到達した恋愛と結婚の一元的な愛の形態は、理想の名に値する一つの頂点をなしていて、今日なお新しく、魅力的である。(P-175~177)

「老いて」 吉野 せい 

2015年02月10日 00時17分41秒 | 健康・老いについて
 「洟をたらした神」(短編小説集) 吉野 せい 中公文庫 2012年 (1975年 彌生書房刊)

 「老いて」 P-209

 阿武隈山系といえば物々しいが、海をめがけて踏み伸ばした脚にもたとえられよう末端。うねうねと空に浪打つ山嶺のその小指の先のちっぽけな菊竹山に巣くうて、既に半世紀が流れた。私は再び繰り返されぬ自分の生涯の歳月を今日まで運命などとぼやかずに、辛抱強く過ごして来た。だがたじろがぬつもりだった己惚れた自分の足跡を遠くしずかに振り返ってみて、今更にその乱れの哀れさ、消えがちな辿々(たどたど)しい侘しさ、踏みこらえたくるぶしの跡の深いくぼみの苦しさを、まじまじと見はるかす。暗然とした想いが、片隅の小さい歴史の仄白い一枚に、ところどころどすぐろい痕跡を鮮やかに落として、ゆらゆら浮かぶだけのただそれだけの今日の日。

 はるかな、はるかなかつての日に、何を求め、何を希い、何を夢み、何に血を沸らせてこの地を踏んだか、その遠い過去は記憶のぼけた雲煙のかなたに跡形なくきれいに消えてしまった――とはいいきれようか。だが思い出そうとしても遠い日の夢に等しい記憶の切れっぱしが、ひからびた脳波の中につながりもなくびくびくするように、捉えどころもなくまとまりもなく、唯風に似た何か荒れ狂うものの羽音だけが残る。

 私も老いた。耳をすませば、周囲の力なく崩れてゆく老人たちの足音につづいて、歩調がゆるんでよろめいてゆくのが日に日にわかる。どう胸を張ってもこの事実は否み切れない。抗えない生物の自然というしかあるまい。避けられぬ老醜と、自分のいのちの終わりに顔をゆがめながら、勇気を鼓して、時限の激流のなかに無数の頭があっぷあっぷしながら漂いつづけ、次々と声もなく沈んでゆく地獄絵を思い描いてみる。一方これに対して、見えない奇怪なばけものにおびえ狂っている群像の、空しくふるえてちぎれそうな生命の糸をつかもうと焦りつづけて空を探っている形象。たとえばいそぎんちゃくの細いもざもざした触手のような無意味で不快なやわらかい感触を持つ細い何万本の枯骨のしげみが、密生して組み合った珊瑚礁の枝々のように、潮流の中にゆらゆらと妖しい千指をくねらせている相対の付随図をも描いてみる。こうした時、私は声を落ちつけてあわてずにこう叫びたいものだ。

 「何をあんた、ぐっすりと眠れるんじゃないか。明日がどうというの。自分の長い疲れがすっぱりなくなるんだもの、せいせいするわねえ」

 すべては風の一吹きさ!どこからかひょいと生まれて、あばれて、吼えて、叩いて、踏んで、蹴り返して、踊って、わめいて、泣いて、愚痴をこぼして、苦しい呻きを残して、どこかへひょいと飛び去ってしもう素っとびあらし!!

 澄んだ秋空の蒼さに眼をしわめながら、私はゆったりした透きとおった気持ちにおかしな明るさを感じる。まといついていた使い古しの油かすのような労苦、貧苦、焦燥、増怨。その汚れた生活の一枚ずつを積み重ねて、紅蓮にやきただらした火の苦悩は、打ち萎えた私の体力に比例して尻込みしながらじりじりと遠ざかってゆくようだ。私は指先のあたたまるようにほのぼのと嬉しい。両肩が軽い。年齢がかもす当然の諦観ではないかと大方は淡く白っぽくわるだろう。老いぼれのつまらぬ意地さと、老いることを知らぬ青春は鼻に不敵の皺をよせるだろう。それも真実、これも真実、その何れにも私は湖面のようなしずけさで過ぎたいと切に希う。憎しみだけが偽りない人間の本性だと阿修羅のように横車もろとも、からだを叩きつけて生きて来た昨日までの私の一挙手一投足が巻き起こした北風は、無蓋な太陽のあたたかさをさえ、周囲から無惨に奪い去っていたであろうことを思い起こし、今更に深く恥じる。
 ついさき頃、偶然眼にした、老いさらばえた頃の混沌の一つの詩を、全身蒼白の思いで私は読んだ。

 ぜつぼうのうたをそらにあげた
 そんなにあさっぱらからなげくな
 なげけばむすこはほうろく(失うの意)
 あるいはばあさんじしんがどうなるか
 むすめはどこへ
 さてボクはここでおわるとしても
 めいめいのみちをたびたってしもう

 くどくなばあさん なげくな
 それさえなければ なにをくい なまみそでいきてもいい
 いっせんでも むすこのしゅうにゅうになるなら
 クサをとるというボクを ボクをみていよ
 じゆうはそれぞれにあるとしても
 ふこうはみんなのあたまのうえにおりてくる

 なげくな たかぶるな ふそくがたりするな
 じぶんをうらぎるのではないにしても
 それをうったえるな
 ばあさんよ どこへゆく
 そこはみんなでばらばらになるのみだ
 つつしんでくれ
 はたらいているあいだ いかるな たかぶるな
 いまによいときがくる 
 そのときにいきろ

 生涯憤ることをつつしんだ木偶の坊のような彼の詩を、いいおりに私は読んだものだ。なまなましいくり言は、唇を縫いつけて恥一ぱいでかき消そう。しずかであることをねがうのは、細胞の遅鈍さとはいえない老年の心の一つの成長といえはしないか。折角ゆらめき出した心の中の小さい灯だけは消さないように、これからもゆっくりと注意しながら、歩きつづけた昨日までの道を別に前方なんぞ気にせずに、おかしな姿でもいい。よろけた足どりでもかまわない。まるで自由な野分の風のように、胸だけは悠々としておびえずに歩けるところまで歩いてゆきたい。

 (昭和四十八年秋のこと)