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「呉清源」 その3 坂口安吾 

2015年02月26日 00時04分23秒 | 雑学知識
 「呉清源」 その3 坂口安吾 

 私は昨年十二月、木村升田三番勝負の第一局の観戦に名古屋へ行った。木村に連勝のあとであり、順位戦に一位となったあとでもあり、木村何者ぞ、升田の心は、いさゝか軽卒であり、思いあがっていた。
 対局前夜に、私が相手になったのも悪かったが、彼は酒をのみすぎた。それから私と木村、升田三人で碁をやり、升田は酔いがさめて、睡れなくなり、殆ど、一睡もできなかったらしい。私も一睡もできなかった。酔っ払いは、酔ったら、すぐ、ねるに限る。酔いがさめては、ねむれない。木村は、酒は自分の適量しか飲まず、おそくまでワアワア騒ぐと良く睡れるたちで、自分の流儀通りに、ワアワア碁をやって、良く睡った。そして、翌日の対局は、木村の見事な勝となった。
 我々文士でも、その日の調子によって、頭の閃きが違う。然し、文士は、今日は閃きがないから休む、ということが出来るが、碁や将棋は、そうはできぬ。だから、対局の日をコンディションの頂点へ持って行く計画的な心構えが必要な筈であるのに、あの日の升田は、それがなかった。
 だから、対局も軽卒で、正確、真剣の用意に不足があり、あの対局に限って、良いところは、なかった。この敗局は、彼のために、よい教訓であったと思う。
 呉清源には、そのような軽卒は、ミジンもない。人の思惑、人のオツキアイなど、全然問題としない。もっとも、神様のオツキアイは、する。然し、これが曲者で、この神様のオツキアイも、呉清源の偉さのせいだと私は思う。
 勝負師とか、すべて芸にたずさわる者の心は、悲痛なものだ。他人の批評などは、とるにも足らぬ。われ自らの心に於て、わが力の限界というものと、常に絶体絶命の争いを、つゞけざるを得ない。当人が偉いほど、その争いは激しく、その絶望も大きい。
 自己の限界、この苦痛にみちた争いは、宗教や迷信の類いに直結し易いものでもあり、その混乱、苦悶のアゲクは、体をなさゞる悪アガキの如きものともなり易い。双葉山や呉清源の如き天才がジコーサマに入門するのも、彼らの魂が苦悶にみちた嵐自体であるからで、ジコーサマの滑稽な性格によって、二人の天才を笑うことは当らない。
 別して、呉清源は、およそ人の思惑を気にするところがない人物で、わが道を行く、とことんまで、わが道であり、常に勝負は必死であり、一匹の虫を踏みつぶすにも必死であり、その激しさが、自己の限界というものと争う苦痛に直面した場合の厳しさは、言語を絶するものがある筈である。この男には、およそ、人間の甘さはない。芸道の激しさ、必死の一念のみが全部なのである。

底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行