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「溲瓶(しゅびん)」 団 伊玖磨

2015年02月16日 00時55分40秒 | エッセイ(模範)
 「パイプのけむり」 団 伊玖磨 著  朝日新聞社 1965年(昭40)

 「溲瓶(しゅびん)」 昭40.1.22

 僕は溲瓶の愛用者であって、自宅においては各室に溲瓶を具(そな)え、随時、随所で用を足すことを以って喜びとしている。

 さて溲瓶とは何であるかと言うに、それは、通常しびんと訛って言われる。あの、厚い硝子で出来た一物のことで、正確に表現すれば、男性用携帯放尿器のことである。本来、溲瓶とは陶製のもののことを言ったらしいが、今はその総てが硝子製であって、量を計るために横腹に目盛りが記され、背の部分に持ち運びのための把手(とって)が付いているのが普通である。

 何でまたトイレットに行かずに、随時随所で小用を足せるような設備投資を僕が家に行うに到ったかと言うと、その責任の一端はは、アメリカが月ロケットの打ち上げに成功したことにある。あの日、正確に言えば去年の7月31日の夜、僕はトイレットの中に蹲(うずくま)りながら、こうも原子力の開発が進み、今日はロケットさえもが月に届いたという現代において、人間が、いちいち尿意、もしくは糞意を催す度にトイレットに通うなどという、全く以って原始的な行為を続けていて良いものであるかどうかに、深く考えを致したのである。世間一般の人々は、一方で宇宙旅行を論じながら、他方、自分の行っている日常生活の中の愚行に気ずかずに、昔ながらのトイレ通いを続けて平気であるようだが、どうもこれは可笑しい。よし、この際、月ロケットが月面に到着したことを記念して、小生は、本日只今より、小用のために厠に赴くという陋習(ろうしゅう)を自宅においては全廃して、以後、随時随所、居ながらにして用を足すことにしようと決心して、急遽(きゅうきょ)、家人を薬屋に走らせ、計四個の溲瓶を入手、客間、居間、書斎、寝所(しんじょ)の四室にそれを一つずつしつらえたのである。置き場所については、色々考えた末、矢張りこの種のものは、あまりに見え過ぎるところでは具合が悪るかろうと思い、客間はソファの下、居間は掘り炬燵の中に隠匿し寝所は、手の届く枕許の本棚の下段、最も使用頻度の多い書斎は、書き物机の下に定置することにした。

 この日以来、僕は溲瓶愛用者となり、文明生活を送っている。
 溲瓶の取り扱いについては、現在、ベテランと化した小生から御教示したいことは山々あるが、上品な本書の紙面をこれ以上汚すのもなにかと思い、止めることにする。ただ書き物のために机に向かっている時と、掘り炬燵に客と対座している時に、トイレに立たなくて済む便利さは筆舌に尽くし難いということだけは御伝えしたく思う。この稿を書いている時も、僕は、硝子製の愛器を片手で保持しているかもしれず、これは絶対に此処だけの話だが、もったい振ったつまらぬ客と対座しながら、季節の挨拶などを交わしつつ、素知らぬ顔で放尿する痛快さはまさに比類がない。こんなことをしても、ベテランである僕の場合は、相手に悟られることは絶対に無いのだから、いささかも失礼には当たらない。
 但し、初心者は、僕の真似をしては不可(いけな)い。

 以下略

 団 伊玖磨 大正13年東京生まれ。昭和20年東京音楽学校(芸大)作曲科卒業。以後作曲ならびに自作の演奏に従事。昭和41年日本芸術院賞受賞。「パイプのけむり」「続パイプのけむり」で第19回読売文学賞(随筆・紀行)受賞。日本芸術院会員。

 このエッセイを読んでこれは事実なのだろうか、それとも読者を楽しませるサービス精神なのだろうか、疑問が解けない。あの団伊玖磨が本当にこんなことをしているとはどうしても思えないのだ。