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『銀の匙』を読む 十川 信介

2015年02月20日 01時05分40秒 | 雑学知識
 『銀の匙』を読む 十川 信介  岩波セミナーブックス 43 岩波書店 1993年 P-44

 水のうえを白い鳥が行きつもどりつ魚を漁っていた。その長い柔らかそうな翼をたおたおと羽ばたいてしずかに飛びまわる姿はともすれば苦痛をおぼえる病弱な子供にとってまことに格好な見ものであった。 銀の匙(五)原文

 この「 水のうえを白い鳥が行きつもどりつ魚を漁っていた」という表現の背景にあるのは、『伊勢物語』の九段、業平の東下りで、例の「何しおはば いざ言問はん都鳥」という歌を歌った個所です。
「白き鳥の嘴と脚と赤き、鴨の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚をくふ」。それはやがて謡曲の「隅田川」になりますし、読者の胸のうちには当然、「隅田川」の引き離された子供と母親との問題が浮かび上がってくるはずです。

 ある表現の下層に含まれている有名な物語なり、情景なりが、同時に浮かび上がり、何重もの価値観や情景が共鳴して鳴り響くところが文学鑑賞の面白いところでもあり、逆に、そういう部分を持つことがよい作品の一つの要素であろうかと思います。

 私は学生のときに吉川幸次郎先生に中国文学を習いました。そのときに強く印象に残ったのは、漢詩文では、オリジナリティということよりも、むしろ何度も使われた言葉をいかに上手に再生するかという点に大切な問題があるということでした。

 レベルの違う使い方をされた言葉が、いくつもの情景を同時に思い出させて共鳴し、そこに複雑で違ったものが調和する新しい美しさが生まれます。


 (akiraの感想) 
 くそくらえ。これを読んで腹が立った。
 腹が立てられる自分が幸せだとおもった。
 こういう衒学趣味をひけらかさなくてすむ。

 「銀の匙」を熟読しようとおもって購入した。
 灘高の橋本先生のことは前から知っていて興味があった。
 手に入れて、解説に「この作品の価値を最初に認めたのは夏目漱石である。
漱石はこの作品が子供の世界の描写として未曾有のものであること、
またその描写がきれいで細かいこと、
文章に非常な彫琢があるにかかわらず不思議なほど真実を傷つけていないこと、
文章の響きがよいこと、などを指摘して賞讃した。」とか
「作者はおのれの眼で見、おのれの心で感じたこと以外に、いかなる人の眼も借りなかった。」
とか書いてあるのを読んで、わが意を得たり、と読むのを楽しみにしていた。

 そんなとき、上の本をタイトルにひかれ、読んでいるうち上の文章に出会った。

 もう読むものか。せっかく買った本だけど、ぶんなげた。