民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「老いて」 吉野 せい 

2015年02月10日 00時17分41秒 | 健康・老いについて
 「洟をたらした神」(短編小説集) 吉野 せい 中公文庫 2012年 (1975年 彌生書房刊)

 「老いて」 P-209

 阿武隈山系といえば物々しいが、海をめがけて踏み伸ばした脚にもたとえられよう末端。うねうねと空に浪打つ山嶺のその小指の先のちっぽけな菊竹山に巣くうて、既に半世紀が流れた。私は再び繰り返されぬ自分の生涯の歳月を今日まで運命などとぼやかずに、辛抱強く過ごして来た。だがたじろがぬつもりだった己惚れた自分の足跡を遠くしずかに振り返ってみて、今更にその乱れの哀れさ、消えがちな辿々(たどたど)しい侘しさ、踏みこらえたくるぶしの跡の深いくぼみの苦しさを、まじまじと見はるかす。暗然とした想いが、片隅の小さい歴史の仄白い一枚に、ところどころどすぐろい痕跡を鮮やかに落として、ゆらゆら浮かぶだけのただそれだけの今日の日。

 はるかな、はるかなかつての日に、何を求め、何を希い、何を夢み、何に血を沸らせてこの地を踏んだか、その遠い過去は記憶のぼけた雲煙のかなたに跡形なくきれいに消えてしまった――とはいいきれようか。だが思い出そうとしても遠い日の夢に等しい記憶の切れっぱしが、ひからびた脳波の中につながりもなくびくびくするように、捉えどころもなくまとまりもなく、唯風に似た何か荒れ狂うものの羽音だけが残る。

 私も老いた。耳をすませば、周囲の力なく崩れてゆく老人たちの足音につづいて、歩調がゆるんでよろめいてゆくのが日に日にわかる。どう胸を張ってもこの事実は否み切れない。抗えない生物の自然というしかあるまい。避けられぬ老醜と、自分のいのちの終わりに顔をゆがめながら、勇気を鼓して、時限の激流のなかに無数の頭があっぷあっぷしながら漂いつづけ、次々と声もなく沈んでゆく地獄絵を思い描いてみる。一方これに対して、見えない奇怪なばけものにおびえ狂っている群像の、空しくふるえてちぎれそうな生命の糸をつかもうと焦りつづけて空を探っている形象。たとえばいそぎんちゃくの細いもざもざした触手のような無意味で不快なやわらかい感触を持つ細い何万本の枯骨のしげみが、密生して組み合った珊瑚礁の枝々のように、潮流の中にゆらゆらと妖しい千指をくねらせている相対の付随図をも描いてみる。こうした時、私は声を落ちつけてあわてずにこう叫びたいものだ。

 「何をあんた、ぐっすりと眠れるんじゃないか。明日がどうというの。自分の長い疲れがすっぱりなくなるんだもの、せいせいするわねえ」

 すべては風の一吹きさ!どこからかひょいと生まれて、あばれて、吼えて、叩いて、踏んで、蹴り返して、踊って、わめいて、泣いて、愚痴をこぼして、苦しい呻きを残して、どこかへひょいと飛び去ってしもう素っとびあらし!!

 澄んだ秋空の蒼さに眼をしわめながら、私はゆったりした透きとおった気持ちにおかしな明るさを感じる。まといついていた使い古しの油かすのような労苦、貧苦、焦燥、増怨。その汚れた生活の一枚ずつを積み重ねて、紅蓮にやきただらした火の苦悩は、打ち萎えた私の体力に比例して尻込みしながらじりじりと遠ざかってゆくようだ。私は指先のあたたまるようにほのぼのと嬉しい。両肩が軽い。年齢がかもす当然の諦観ではないかと大方は淡く白っぽくわるだろう。老いぼれのつまらぬ意地さと、老いることを知らぬ青春は鼻に不敵の皺をよせるだろう。それも真実、これも真実、その何れにも私は湖面のようなしずけさで過ぎたいと切に希う。憎しみだけが偽りない人間の本性だと阿修羅のように横車もろとも、からだを叩きつけて生きて来た昨日までの私の一挙手一投足が巻き起こした北風は、無蓋な太陽のあたたかさをさえ、周囲から無惨に奪い去っていたであろうことを思い起こし、今更に深く恥じる。
 ついさき頃、偶然眼にした、老いさらばえた頃の混沌の一つの詩を、全身蒼白の思いで私は読んだ。

 ぜつぼうのうたをそらにあげた
 そんなにあさっぱらからなげくな
 なげけばむすこはほうろく(失うの意)
 あるいはばあさんじしんがどうなるか
 むすめはどこへ
 さてボクはここでおわるとしても
 めいめいのみちをたびたってしもう

 くどくなばあさん なげくな
 それさえなければ なにをくい なまみそでいきてもいい
 いっせんでも むすこのしゅうにゅうになるなら
 クサをとるというボクを ボクをみていよ
 じゆうはそれぞれにあるとしても
 ふこうはみんなのあたまのうえにおりてくる

 なげくな たかぶるな ふそくがたりするな
 じぶんをうらぎるのではないにしても
 それをうったえるな
 ばあさんよ どこへゆく
 そこはみんなでばらばらになるのみだ
 つつしんでくれ
 はたらいているあいだ いかるな たかぶるな
 いまによいときがくる 
 そのときにいきろ

 生涯憤ることをつつしんだ木偶の坊のような彼の詩を、いいおりに私は読んだものだ。なまなましいくり言は、唇を縫いつけて恥一ぱいでかき消そう。しずかであることをねがうのは、細胞の遅鈍さとはいえない老年の心の一つの成長といえはしないか。折角ゆらめき出した心の中の小さい灯だけは消さないように、これからもゆっくりと注意しながら、歩きつづけた昨日までの道を別に前方なんぞ気にせずに、おかしな姿でもいい。よろけた足どりでもかまわない。まるで自由な野分の風のように、胸だけは悠々としておびえずに歩けるところまで歩いてゆきたい。

 (昭和四十八年秋のこと)