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「洟をたらした神」 序 串田 孫一

2015年02月08日 00時00分46秒 | 雑学知識
 「洟をたらした神」(短編小説集) 吉野 せい 中公文庫 2012年 (1975年 彌生書房刊)

 序  串田 孫一

 書くことを長年の仕事としている人は、文章の肝所を心得ていて、うまいものだと感心するようなものを作る。それを読む者も、ほどほどに期待しているから、それを上廻るうまさに驚く時もあれば、また、期待外れという時もある。

 ところが、吉野せいさんの文章は、それとはがらっと異質で、私はうろたえた。たとえば鑢紙(やすりがみ)での仕上げばかりを気にかけ、そこでかなりの歪みはなおせるというような、言わば誤魔化しの技巧を秘かに大切にしていた私は、張手を喰ったようだった。この文章は鑢紙などをかけて体裁を整えたものではない。刃毀(はこぼ)れなどどこにもない斧で、一度ですぱっと木を割ったような、狂いのない切れ味に圧倒された。

 私は呆然とした。二度読んでも、何度読み返しても、ますます呆然とした。そして体が実際にがくがくし、絞り上げられるような気分であった。「洟をたらした神」が最初であったが、この本に入れてある十六編の作品は、去年から今年の初夏にかけて、三、四篇ずつ私の手許に送られて来た。私も段々に慣れて来てもよさそうなものなのに、その都度、最初の時のように狼狽した。

 文章を書くことは、自分の人生を切って見せるようなものかも知れない。これは書く者の決意であり、構えであるが、実際その決意通りに行くことはなかなかない。構えることによって不必要な力が入り、ぎこちなくなり、不安が募る。

 吉野さんはそれを澄まして事もなげにやった。澄ましてというのは、楽々という意味ではない。むしろ剛胆である。そしてその人生の切り口は、何処をどう切っても水々しい。これにも驚嘆した。何かを惜しんで切り売り作業のようなことをしている人間は、羨望だの羞恥だの、ともかく大混乱である。

 (略)

 1974年

 詩人である夫とともに、阿武隈山麓の開墾者として生きた女性の年代記。ときに残酷なまでに厳しい自然、弱くも逞しくもある人々のすがた、夫との愛憎などを、質実かつ研ぎ澄まされたことばでつづる。大宅壮一ノンフィクション賞、田村俊子賞受賞作。(解説)清水眞砂子