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「桜もさよならも日本語」 その6 丸谷 才一

2015年12月28日 00時19分38秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その6 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 6、漢語は使ひ過ぎないやうに

 漢語は最初から漢字で教へるほうがいい、とわたしは言つた。さらに、漢字は訓も教へようと言つた。が、それとは別に、今の小学教科書は、殊に低学年で、漢語を使ひ過ぎると思つてゐる。

 中略

 わたしは、子供相手のときはあまり漢語を使はないほうが向こうによくわかつていいと思ふのだが、そんなことはおかまひなしに、「とくちょう」とか「ぶぶん」とか、むづかしいことを言ひたい、そのついでに「地下」なんて言葉も使ひたい、さういふ人たちが集まつて教科書を作つてゐるわけだ。近ごろは子供も大変である。
 もちろんこれには現代日本語の反映といふ面もあらう。このごろは「引越し」とは言はないし、「家移り」は廃語になつた。もっぱら「転居」「移転」を使ふ。電話をかけてくれと頼んで、「うちにをりますから」と言ひ添へると、「御自宅ですか?」と念を押される。「生きがいい」は「新鮮」、「こだはる」は「抵抗感」、「思ひがけない」は「意外性がある」。生活用語にも、「団地」「暖房」「解凍」などと漢語はどんどんはいつて来てゐる。一体に戦後の日本語では、戦前とくらべて、漢語がむやみに幅をきかせてゐるのである。今の日本語は外来語づくめだとよく言はれるけれど、それと並ぶこの漢語ばやりも見落としてはならない。
 これは能率を重んじる風潮のせいである。和語でゆくとまだるつこしくなるから、漢語を使ふのだ。しかし、世の中がさうだからと言つて、子供にも漢語の多い本をあてがはなくちやならないものかしら。

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