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「桜もさよならも日本語」 その9 丸谷 才一

2016年01月03日 00時20分16秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その9 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 9、古典を読ませよう

 (前略)今の教科書の『奥の細道』はたいてい、

 月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。

とはじまるテクストを使ふ。岩波『日本古典文学体系』本に従つてゐるのである。しかしわたしには、ハクタイはどうも納得がゆかない。
 この書き出しは李白の『春夜、桃季(とうり)園ニ宴スルノ序』の「夫レ天地ハ万物ノ逆旅、光陰ハ百代ノ過客ナリ」によるものだが、ハクタイと読むのは、おそらく芭蕉が読んだと推定される『古文真宝後集』和刻本のこの箇所に「百(はく)代」と仮名が振ってあるからだ。「百」がハクと漢音でゆく以上、「代」も漢音でタイと、元禄の俳諧師が読んだにちがひないといふ考証は、学問的には貴重なものだらう。だが、現代の普通の読者が『奥の細道』を読むには、ヒャクダイで一向かまはないではないか。

 中略

 これではとても古典に親しんだといふわけにはゆかないし、第一かう断片的では興味が湧くはずがない。もつと長いものをたくさん読ませなければ話にならないのである。現状では、ただ申しわけに古典の匂ひを嗅がせてゐるだけのやうな気がする。
 それに、文語文の分量が決定的にすくないのもいかがなものか。明治の漢文くづしや江戸の擬古文も入れて文語体になじませるほうがいいし、さらに言へば、漢文の初歩も手ほどきするのが正しい。
 これは反動的な意見ではない。現代日本文明にとつてさしあたり大事なのは、明確精細にものごとを伝達する散文を社会一般のものにすることなのだが、この能力の下地になるのは、意外なことに、古文と漢文の素養にほかならない。そのへんの事情をうんと大がかりにすれば、夏目漱石と森鴎外はなぜあのやうな口語文を書けたかといふ話になるだらう。

 中略

 年少者の学力や体験を考へず、『源氏』や『史記』のやうな超一流の古典をほんのちよつぴり教へようとするのは、体裁としての学問を尊ぶ態度である。そこには、「月日はハクタイの過客」といふテクストを選ぶ姿勢と共通するものがあるやうな気がする。

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