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「桜もさよならも日本語」 その8 丸谷 才一 

2016年01月01日 00時39分34秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その8 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 8、子供に詩を作らせるな

 まつたく十年一日の感があるが仕方がない。もう一度、子供に詩をつくらせるのはよくないといふことを書く。 
 第一の理由は、詩は書くのがむづかしいからである。散文は、上手下手はともかく、書けばいちおう散文が出来あがる。しかし詩となるとさうはゆかない。詩作のためには豊かな詩情ときびしい言葉の修練が必要である。その二つを持ち合わせてゐる大人だつて滅多にゐないのに、小学生が全員、詩を書けるはずがない。
 第二の理由は、現代日本では詩とは何かといふことが明らかでないからである。文語文から口語文へ移つてから、日本の詩は韻律と別れ、自由詩が標準的な形となつた。このせいで、単なる散文を行分けにしたものと、詩とは、素人目にも区別がつかないのぢゃないか。本職の詩人を含めて社会全体が、詩とはなにかがわからずにゐるとき、小学生に詩を書けと要求するのは乱暴な話だらう。
 今の教科書には、「主題をしっかりつかんで詩をかこう」とか、「気もちがはっきりあらわれるようにいきいきしたことばで書こう」とか、むやみに調子のいいことを言つて詩作をすすめる教材が多いし、それには小学生の作が見本のやうに添へてある。しかし、うんと見方を甘くしても、ほとんどすべてが詩ではない。さういふものを引用して論評することは避けよう。文明の悪条件を妙な具合にせおつて苦労してゐる子供たちの姿が痛々しくて、とてもそんな気にはなれない。
 子供には詩は書かせないで、しかし詩を読ませやう。大人の詩人が書いた本物の詩のなかの、子供向きのものを。(後略)

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