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「会話の日本語読本」 その2 鴨下 信一

2014年06月24日 13時51分54秒 | 日本語について
 「会話の日本語読本」  鴨下 信一 著  文春新書 文藝春秋 2003年 

 「会話を途切らせないためのやりとり」

 ここで使われている(里見 淳の「縁談窶(やつ)れ」大正14年の作例)
「何がいやなもんか」
「嘘ばッかり」
「嘘なもんかね」のやりとり。

「馬鹿だね」
「なんだよ」
「いいわ、よすわ」
「じゃアいいじゃアないの」
「なんだい、これア」(他の作例、省略)
などは皆それぞれ、意味を持った文ではあるけれども、その表面の意味よりも、
あるリズムで会話を途切らせないことを主な目的として使用されているものだ。

 煩わしいのを承知で書き抜いたのは、
現在これらの<あいづち・合いの手>言葉がほとんど絶滅したからである。
(あの「もし、もし」ですらケイタイになって使わなくなった)

 正確にいえば現実の会話ではまだわずかに残っているけれども、こんなに豊富ではない。
特にこの本で扱っているような<はじめから書かれた会話文>ではまったく滅びた。

 よく日本語の死語、単語が滅んでゆく現象が話題になる。
しかし、いまの日本語に少し注意をはらえば、
単語ではなく日本語の一種属がまるごと死に瀕していることがわかる。
<あいづち・合いの手)言葉がそれである。

 何故そうなったのか。
 日本人が会話に臆病でなくなり、あいづちや合いの手を入れずに会話を続けることが
可能になったのか。
身振り・表情が豊かになってこの種の言葉の代わりを果たすようになったのか。
 
 それとも、もう日本字の会話にはその裏に流れる陰のコミュニケーション、
そのために<あいづち・合いの手>言葉が必要だった日本人らしいもう一つの
真実のコミュニケーションなどなくなって、直裁でその分のっぺりとしたものになってしまったのか。

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