京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『孤狼の血』

2018年05月17日 | KIMURAの読書ノート
『孤狼の血』
白石和彌 監督
柚月裕子 原作 池上純哉 脚本 役所広司 松坂桃李 出演
2018年5月12日 公開
 
昭和63年。広島県呉原東署に勤務するマル暴の刑事・大上(役所広司)と新人刑事・日岡(松坂桃李)は、広島の巨大組織五十子会系加古村組の関連企業の社員の失踪事件解決に奔走する。それに関連して、加古村組と地場組織尾谷組の抗争が激化。それを食い止めようとする大上のもとに、大上の過去がリークされ、両者に顔の利く大上はこの事件から外される。そのため、両者の抗争は更に激化していく。
 
目を覆ってしまう場面から物語は始まる。いわゆるやくざの「指をつめる」シーンがそのまま映し出され、豚の糞を口に押し込むという暴挙。バイオレンス映画とは聞いていたが、ここまであからさまに映し出されるとは全く想像もしていなかった。しかし、これはほんの序の口。話が進むにつれ、スクリーンに映し出される暴力はエスカレートしていく。いや、それはもはや「暴力」の域を脱している。フィクションであり、スクリーンの中の世界は架空の出来事で、その暴力シーンの一つ一は作りこまれたものというのは、頭では理解出来ていても、目の前で繰り広げられる凄惨さは、明らかに大人でもトラウマになってしまう。「表現の自由」と「社会規範」。その線引きはどこでするのかという問題を提起
した作品でもあると感じた。
 
しかし、それに目を背けつつも、その場から逃げ出せない面白さがあった。やくざ顔負けの大上。そのやり方に反発しながらも、暴力団を相手にするという現実を目の当たりにしながら、その世界を知っていく日岡との関係性。何よりも日岡役の松坂桃李さんの俳優としての成長過程がそこにあった。役所広司さんをはじめとする脇を固める豪華大御所人たちのぎらぎらとした目は間違いなく、この作品には必要なメンバーである。黙っていたら、暴力団に日常から間違えられてもおかしくない俳優陣の中に、「爽やか」が代名詞のような彼がどのような演技をしていくのか、そこだけ浮いてこないのかという疑問が当初はあったが、まさに作品が彼を育てたと言っても過言ではないだろう。日岡自身が作品の世界
でもまれたように、松坂桃李という俳優も今後、このような汚れ役に必要な俳優として名乗りを上げたように感じる。
 
さて、この物語の場所呉原市は、架空ではあるが、一昨年話題となった『この世界の片隅に』に続き、私の地元呉市が舞台である。うっかり忘れていたが、呉市は軍港の街でありながら、かつて『仁義なき戦い』でも有名となった裏世界の街でもある。原作者の柚月裕子さんはこの『仁義なき戦い』をリスペクトして、この作品を書き上げたという。なぜ、こうして今「呉市」が取り上げられるのか、あえて考えてみるとよくも悪くも「ノスタルジー」を感じる街ではないかということなのかもしれない。それは平成最後の年になった今もそうであるが、『‪仁義なき戦い‬』が公開されていた1970年代の当時ですら、その時に人が感じる郷愁を持っていたのではないだろうか。またそれは方言にも表れているような気が
する。とあるインタビュー記事で役所広司さんは「やくざ映画には呉弁が似合う」と語っていたが、それは「やくざ」に特化した方言ではなく、『この世界……』と同様に、人の息づかいの延長にその方言はあり、市井の人にもやくざにも何人にもなじむ方言なのではないかと考えた。やくざだからという突出した方言になっていないところも、この作品の注目すべき点の一つである。
 
私がこれは勝手に予想していることだが、この作品はテレビ地上波での放映はないのではないかと思う。それは、前述したように過激すぎ、かつ露わにとなっている暴力シーンが多すぎるためである。正直これがR15指定というのも首を傾けてしまう(18禁と言っても誰もが納得するのではないだろうか)。これらのシーンを割愛すると物語の7~8割りは無くなってしまい、物語として成立しなくなるだろう。ということで、この作品が気になる方は是非劇場で観覧して欲しい。但し、その後の心のケアは自分自身で責任持って行うべし。という事だけは強く忠告しておく。

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文責 木村綾子

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