もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

170110 一年前:160108 今の民主党は、安倍自民と同じくらい国民と政治を舐めている。共犯者だ!と言っても過言ではない

2017年01月10日 20時07分11秒 | 一年前
1月10日(火):
160108 今の民主党は、安倍自民と同じくらい国民と政治を舐めている。共犯者だ!と言っても過言ではない
1月8日(金):  相変わらず、朝日の外注記事には見るべきものがある。この当たり前の主張を自社でしっかりと発信できないところに朝日新聞の問題が集約できる。「腰が引けて(抜けて)......


6 020 角岡伸彦「ふしぎな部落問題」(ちくま新書:2016.6月)感想5+

2017年01月09日 03時30分54秒 | 一日一冊読書開始
1月8日(日):  

285ページ    所要時間4:30    ブックオフ660円(高エー)

著者53歳(1963生まれ)。

  著者は、「現在の差別問題」を考える際に、俺が最も信頼する書き手の一人である。しかし、今回はさして面白い内容でもなかったので、読みながら、感想4にすると決めていた。それが、終盤近くなって本書の『ふしぎな問題』というタイトルが、俺自身の持っている認識・感覚にふわっと憑依したように重なってしまい、「本当にそうだよなあ。問題ってふしぎだよなあ。特に最近の問題ってますますもってふしぎだよなあ。この人やっぱりよう観てはるわ!」と著者の本書に込めた思いがストンと腑に落ちてしまったのだ。錯覚かもしれないが、俺にはそれで十分なのだ。

  問題の現状」の機微までを考える上で最適のテキスト本書に感想5+を与えるには、ハイレベルなセンスが必要だと思う。問題に対する相当深い関心と理解と知識量が必要である。本書は、読み手を選ぶ本である。本書に感想5+を付けられる俺自身を少しだけど誇らしく思う。

  2002年に同和対策事業が終わって以来、同和問題の存在はきわめて視界不良でよくわからなくなってきている。実態もわからないし、解決したのかな?と言えるようでいて、ちょっと考えれば、実際の差別意識の根深さは、ネットでの「地名総鑑」流布(垂れ流し)、大阪市長選での橋下徹候補に対する週刊朝日での差別連載事件を挙げるまでもなく、結婚式を挙げられない結婚差別などなどなど重いものから軽いものまでいくらでも残っている。ただ見えにくくなってるだけだ。

  外国人や障害者等に対する「違い」&「(反撃できない)弱さ」へのあからさまな差別に比べると、差別は「同じ(違いがない)」&「(反撃できる)強さ」への差別であるため、差別はできるだけ表に出さない潜行型で陰湿・根強く残り続けている。そのこと自体は、どこかではっきりわかっている。ただ、みんな(被差別の人も含めて)が、ふだんはないふりをしているだけなのだ。

  話題にのぼらないから、見て見ぬふりをするから、どう考えて捉えればよいのかわからない。差別の実態・現状がわからない。思考のひっかけ場所がわからない。でも、差別問題は、日本社会のすべての人権問題の核心である。基本的人権に関わるあらゆる人権問題に対して、差別問題解決の取り組みや経験・知見は役に立つはずである。

  俺は、「161223 安倍政治の淵源は2001年のナチス麻生による野中広務氏への差別発言だ!」で、野中広務氏が、麻生の「あんな出身者を日本の総理にはできんわなあ」という差別発言で総理への道を閉ざされ、その後小泉に敗れて引退をしたことが、日本の政治における「社会民主主義」的流れが、「新自由主義」的弱者切り捨ての流れへの転換点だったと以前指摘した。

  しかし、今回本書を読んで、「野中広務氏が去った」時期と「同和対策事業が終わった」時期が奇しくも重なっているのに気がついた。つまり、同和対策事業の意義は単に差別問題の解消という狭い範囲で捉えるよりも、もっと広く「被差別や弱い立場にある人々を大切にする社会を作り上げていかなければいけない」という意識を日本社会全体で共有させていたと捉えるべきだったのだと思う。

  その証拠に、1990年代の解放同盟の活動自体が、憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を強く求めて、様々なマイノリティや弱者の団体と連帯しようとしていたのを俺は知っている。それが、21世紀の初めに野中広務氏が去り、同和対策事業が終わり、解放同盟が力を失い、それとともに「反戦」「護憲」と「社会民主主義」的価値を訴える勢力が足場を失って、急速に弱体化していった。そして、今や我々は「新自由主義」の腐り果てたなれの果てを見させられているのだ。

  ところで以前、朝日新聞の書評【10代の読書】で「差別、まず知ることから」というテーマで不用意に上原善広「路地の教室」(ちくまプリマー新書)金城一紀「GO」(角川文庫)を推薦していた本田由紀東京大学教授よりも俺の方が、差別問題ではセンスは上であることを本書を読んで再確認できた。本多由紀教授は、を「路地」と表現する上原某に対して衒学的に中上健次を重ねてしまったのだろうが、根本的間違いだ!
※「141026 東大本田由紀氏の朝日書評に異論。この人は、観念で生きている。生身の人間に接してるのか…?」参照

・朋樹は兄と同様、結婚式は挙げなかった。雅美の親や親戚が出席するとは思えなかったし、それでは雅美がつらい思いをすると考えたからである。現在も親同士の付き合いは、ほとんどない。略。/朋樹にとって差別は、他人事ではない。だが、差別する側の心理が不思議でならないという。/「ここ(暮らしづくりネットワーク)は、差別はおかしい、間違ってる、北芝は面白いという感覚を持ってる人が働いてる。僕はそれが正しいと思うんやけど、そういう中にいると、差別をしてしまっている人の感覚がわからなくなる。ただ単に、なんでそういう感覚になったんやろなっていうのが知りたい。不思議ですね。面白い……面白がったらあかんのですけど、知りたいなっていうのはあります」/自分の人生にふと訪れた陰影に、不思議がりながらも関心を持ち始めている。271ページ

【目次】はじめに
第1章 被差別一五〇年史(差別がなければ存在しなかった/身分制度は廃止されたが… ほか)
第2章 メディアと出自―『週刊朝日』問題から見えてきたもの(悪意に満ちたタイトルと内容/過剰なまでの家系重視 ほか)
第3章 映画「にくのひと」は、なぜ上映されなかったのか(大学生が屠場を撮影/上映に「待った」がかかる ほか)
第4章 被差別の未来(第一部:不安と葛藤―解放運動の勃興期/第二部:継承と挑戦―解放運動の転換期)
あとがき

【内容紹介】もはや差別だけでは語れきれない。を特定する膨大なネット情報、過敏になりすぎる運動体、同和対策事業の死角。様々な捻じれが発生する共同体の未来を探る。 / 二〇〇二年に同和対策事業が終了した。しかし、それは差別がなくなったことを意味するわけではない。インターネット上には、どこがか、などといった情報が氾濫している。一方、差別を解消しようとする解放運動も時を経て、変化を余儀なくされている。「歴史」から学び、「メディア」によって現在を知り、「地域」から未来の方向性を模索する、これまでにない問題の決定版。

【はじめに】  私はこれまでに、何冊かの問題関係の本を書いてきた。書き始めたのは、同和対策事業がまだあった世紀末である。世紀が変わった二〇〇二年(平成一四)に、同和対策事業の関連法が終了した。その後、関西を中心に、同和対策にかかわる不祥事が連続して摘発され、〝利権〟を追及するシリーズ本がベストセラーになったりした。
  ひととおりそれらの騒動がおさまり、私は問題に関しては、もう書くことはないだろうと考えていた。だが、その見通しは甘かった。二〇一二年(平成二四)には『週刊朝日』でにかかわる記述が問題になり、マスコミで大きく取り上げられた。ここ数年は、インターネット上にの地名や位置を掲載するサイトが登場するなど、を取り巻く状況は平穏ではない。問題は、まだ終わっていないのである。
  問題とは、が集住していたとされる(地区)の居住者に対する差別を指す。差別は依然としてあるが、ここにきて考えなければならないのは、新たな問題である。それは解放運動が抱える矛盾だ。 あらゆる反差別運動は、基本的には被差別当事者を残したまま、差別をなくすことを目指している。障害者解放運動は、障害者が障害者のままでいることを前提にした反差別運動である。健全者になることを目指しているわけではない。そもそもそれは運動とは呼べない。民族やセクシャルマイノリティが主体となった運動も同じである。
  では、解放運動はどうか。歴史的には、他のマイノリティと同じように、民が民のままであることを前提にした運動である。民からの解放ではなく、民としての解放を目指してきた。
  ところが現実には、民であることを公にしている人は少ない。芸能人やスポーツ選手には、少なくない出身者がいるが、彼ら彼女らが出身を明らかにして活動することは、ほとんどない。〝出身〟という四文字には、いわくいいがたいイメージがつきまとっているからである。
  加えて出身者は、民族や身体などにおいて、これといった差異がないため、〝同じ〟であることを前提にしたマイノリティである。当事者にしてみれば、他と区別する〝出身〟というカテゴリーは認めがたい。それもまた、出自を公にする者が少ない原因になっている。
  その意味においては、出自を言いたくない、言う必要がない、隠したいというのは、自然な心理であろう。ところがこれが、結果的に問題や解放運動をますますわかりにくくさせている。
  解放運動は、民としての解放を志向しながら、「どこ」と「だれ」を暴く差別に対して抗議運動を続けてきた。しかしそれは出自を隠蔽することにもつながる営為であった。民としての解放を目指しながら、民からの解放の道を歩まざるを得なかった。
  差別をなくす過程で、を残すのか、それともなくすのかという課題を、私たちは整理できていないのである。現在起きているさまざまな問題は、この解放運動が抱える根本的矛盾から派生している、と私は考える。
  本書は四章で構成されている。()が解放されるはずであった明治初期から現在までの約一五〇年を追ったのが、第一章である。だれがを残してきたのかを、私なりに整理してみた。
  特定の人物をひきずりおろすために「出身」という烙印が機能し、それを取り上げた雑誌が売れた。第二章は、『週刊朝日』の記事をめぐるジャーナリズムのあり方について考える。そこには売り上げ至上主義や、安易に人物とルーツを結びつけたり、取材不足のまま物語を構築するノンフィクション作家たちの資質という問題があった。同時に、取り上げられた人物や、その家族が、をどう見ていたのかという別の問題も浮かび上がるだろう。
  すぐ前にも述べたように、解放運動は、民としての解放を志向した。ところが現実には、多くの出身者は、民からの解放を目指し、地名に代表されるの具体性を明らかにすることを避けてきた。それは運動団体に所属するメンバーも例外ではない。一本の映画の公開をめぐる、運動団体の主張と混迷を第三章で取り上げた。
  これまで解放運動はどんな取り組みを進めてきたのか。また、どんな成果を上げ、矛盾を抱えているのか。を残すこと、それを語り継ぐことが果たしていいことなのか。大阪にあるを通して、これからの解放運動のあり方を第四章でさぐった。
  いずれもわかりにくく、とっつきにくい問題の過去と現在が見通せるように書いたつもりである。


毎日新聞書評】自然体で差別を乗り越える 角岡伸彦さん
  「けったいな(ヘンな)差別問題について、書きました」。障害者や性的少数者、少数民族らへの差別は、身体や文化などのわかりやすい差異が根拠になる。だが、差別は、かつて<(せんみん)とされた人々の集住地域>の在住者や出身者という、マジョリティーとの差異が今ひとつわかりにくい根拠しかない。
  大抵の反差別運動は、被差別者が自らの属性は変えず差別をなくそうとする。解放運動も<民としての解放>を追求する。「ところが、他者と『同じ』なのに差別あるがゆえ『違い』を押し付けられるのは認めがたい、という感情もある。多くの出身者が出自を隠す、つまり『からの解放』を求めるのも自然です」
  解放運動は、民の誇りを唱えつつ、「どこ」がで「誰」が出身かを暴く動きにも抗議してきた。また、本書が触れる橋下徹・前大阪市長の出自を巡る『週刊朝日』などの報道の中には、父親が出身で本人も居住歴があると、おどろおどろしく取り上げた。「実は橋下さんは住んでいないはず。思い込みで、へのマイナスイメージに寄りかかって書かれていた
  ただし、「出自や地名を出すのが常に悪いわけではない。問題は文脈です。メディアも運動も、そこが分からなくなっているのでは」。内の食肉処理場を描いたドキュメンタリーが、運動団体の反対で上映できなくなった例も取り上げた。
  今は、いくら抗議をしても、インターネットに「どこ」や「誰」の情報があふれ続ける。「抗議は当然必要ですが、もはや隠しきれないのも事実です。『寝た子を起こすな』(わざわざ人に伝えたり教えたりするな)で差別はなくならない」
  ならば、どうするか? 「開き直るしかない。『それがどうしました?』と。要はどんなを残すか。僕にも出身を隠したい気持ちはあり、単純な話ではないと承知の上ですが」
  大阪府箕面(みのお)市の北芝地区は、であることを表に出して、地域の文化活動や子供支援、市内の生活困難者支援などで複合的な町おこしをしている。地区外の若者も引きつけられ、越してくる人も。「北芝のように『はおもろいで』と打ち出す動きが増えたらいい。差別を乗り越えるとは、出自を隠すでも無理に誇るでもなく、自然体でポジティブに受け入れることのはずですから」<文・写真、鈴木英生>

6 019 大崎善生「聖(さとし)の青春」(角川文庫:2000、2002)感想5

2017年01月08日 04時17分11秒 | 一日一冊読書開始
1月7日(土):      

421ページ    所要時間6:30    ブックオフ360円

著者43歳(1957生まれ)。札幌市生まれ。日本将棋連盟に入り、「将棋マガジン」編集部を経て「将棋世界」の編集長。連盟を退職後は、作家活動に専念している。『聖の青春』(講談社文庫)で新潮学芸賞、将棋ペンクラブ大賞、『将棋の子』(講談社)で講談社ノンフィクション賞、『パイロットフィッシュ』(角川書店)で吉川英治文学新人賞を受賞

  本書は、東の天才羽生善治に対し西の怪童と謳われ、A級在位のまま惜しまれつつ29歳で早逝した天才棋士村山聖(1969~1998)の克明な伝記である。著者自身が、主人公の師匠森信雄六段の親友として重要な登場人物となって記述が進む。感動美談に作られてるのかと用心しながら、感想4にしようと考えていたが、最後まで読めば感想5以外の評価はつけられない。何よりも村山聖に対する愛惜の情があふれた内容を素直に読めば、感想5しかあり得なかった。

  5歳で腎ネフローゼを発症し、何もせず何も考えずにジーッと寝て絶対安静にする入院生活を強いられた。一日の大半を病院の大部屋のベッドの上で過ごす村山聖は桁違いの読書力をもつようになる。ある日、父が持ち込んだ将棋盤と駒に強く反応して、そこから両親が持ち込む将棋の本だけの独学で棋力を大きく伸ばす。制限付きで退院を許可された頃には、周囲の大人も誰一人相手にならないため、舞台は広島市、大阪へと広がり、13歳で森信雄六段30歳に弟子になり、奨励会入りを目指す。

  少しの無理も許されない病身という器に、溢れんばかりの将棋への熱意と才能、過剰な激情と弱い者への労りがぎゅうぎゅうに詰まった村山は、苛酷過ぎる道を「いつか谷川浩司名人を破って名人になる」決意を胸にひた走る。将棋一筋で精進の日々をひたすら繰り返す中で尋常でない才能が開き始めるが、それは同時に「名人になる」というのが夢物語でなくなり、かえって必死の努力が求められるのに、自分の身体がその無理を許さないという完全な袋小路に苦しむことになる。

  その上に、少年から青年・成人への変貌の戸惑い・苦しみが重なってくる。限界線を何度も超えて、何度も倒れ、入退院を繰り返しながら村山は、才能をぐいぐいと伸ばしていくが、同時に彼の身体が悲鳴を上げ続けることになる。時代は、中原誠から谷川浩司へと名人位のバトンが渡ったあと、いわゆる羽生(善治)世代の若い才能集団が台頭する時期が到来する。村山もその中心メンバーとして台頭し、名人を目前にするA級棋士となるが、そこで腎ネフローゼ以外に、膀胱癌を発症・手術、再発で力尽きる。

  あらすじを書いても、実際に読まない人は「そんな不幸は世の中いっぱいある」で片づけられるだろう。しかし、実際に読んで、生きた人間の意志力ある苦闘を凝視すれば、壮絶な物語りを読み取ることができる。そして、全く別の意味で人間の持つ偉大さを読み取り敷衍することことができるのだ、と思う。

【目次】 第1章 折れない翼/第2章 心の風景/第3章 彼の見ている海/第4章 夢の隣に/第5章 魂の棋譜

【内容情報】 重い腎臓病を抱え、命懸けで将棋を指す弟子のために、師匠は彼のパンツをも洗った。弟子の名前は村山聖。享年29。将棋界の最高峰A級に在籍したままの逝去だった。名人への夢半ばで倒れた“怪童”の一生を、師弟愛、家族愛、ライバルたちとの友情を通して描く感動ノンフィクション。第13回新潮学芸賞受賞作。

170106 (考論 長谷部×杉田)混迷の世界、行く先は(構成・高橋純子)

2017年01月06日 19時42分28秒 | 時々刻々 考える資料
1月6日(金):

朝日デジタル(考論 長谷部×杉田)混迷の世界、行く先は  2017年1月6日05時00分

  英国の欧州連合(EU)離脱や、トランプ氏の米大統領就任は、世界にどんな影響を与えるのか。先行きが不透明な中で幕を開けた2017年。長谷部恭男・早稲田大教授(憲法)杉田敦・法政大教授(政治理論)による今年最初の対談は、混迷する世界の中での政治システムや社会のあり方を探る。

 ■政治不信でなく、過剰な信頼では 長谷部/グローバル競争、見せかけの対策 杉田
  杉田敦・法政大教授 昨年は波乱の年でした。イギリスの国民投票でEU離脱が決まり、米大統領選ではトランプ氏が当選。背景には「反エリート」や「政治不信」があると、一般に総括されています。
  長谷部恭男・早稲田大教授 それはどうでしょう。むしろ逆で、みんな政治システムを信じているのではないですか、過剰なほどに。ケンブリッジ大学のデイビッド・ランシマンという政治学者は、イギリスやアメリカの驚くべき選択の背景には、「政治は、最後は我々を守ってくれる」という根拠のない、深い信頼があると指摘しています。
  杉田 誰を大統領にしようが、めちゃくちゃなことにはならない、とたかをくくっていると。
  長谷部 自分たちの利益が今以上に損なわれるとは思っていないのでしょう。
  杉田 アメリカの「ラストベルト(さび付いた地帯)」の人たちは、自分たちが祖父母や親の代のような豊かな生活ができないのはおかしいと主張し、その切実な声に寄り添わないリベラルやエリートが悪いという議論も最近多いです。
  長谷部 しかしそれは、アメリカの産業・経済構造が変化した結果です。
  杉田 たしかに、寄り添おうにも「ない袖は振れない」面もありますね。グローバル競争で、地域や個人が海外と直接に競争力を比べられてしまう状況になり、その中で、地域の切り捨ても起きている。由々しき事態ですが、根本的な対策がない点では、リベラルだけでなく、トランプ氏もEU離脱派も実は同じです。しかし彼らは、国境に壁を作るとか、移民排斥とか、見せかけの対策をショーアップし、つかの間の人気を得ている。本来なら産業・経済構造の変化という「不都合な真実」を伝え、それに対応して生き方を変えるよう人々に求めるしかありません。しかし、それは人々に我慢を強いる「縮小の政治」という面があり、どうすればそんな不人気な政治を、人々の支持を得ながら民主的に進めることができるか。難題です。
  長谷部 「縮小の政治」を可能にするには、人々が共働する組織を政治が底支えする必要があるでしょう。都会でも地方でも、人間は少なければ10人以下、多くても数百人の組織の中でそれぞれ役割を担い、仕事をすることに生きがいを感じます。経済的には豊かでなくとも、「私たち」と、その一員たる「私」の実感を持てれば、人は安心と満足を得られる。グローバル化で、組織のありようが変化を迫られている中で、軟着陸させる政治の知恵が求められます。

 ■弱まる連帯、大衆迎合が増長 杉田/「真の国民」支持者だけかも 長谷部
  杉田 そのようなコミュニティーの再生は簡単ではありません。かつて大阪・釜ケ崎や東京・山谷は日雇い労働者の町として、それなりのコミュニティーだった。似た境遇の人たちが空間的に接していることによって、政治的な連帯も可能でしたが、今はバラバラで連帯のしようもない。携帯電話やインターネットなど、テクノロジーの進化が社会にもたらした、極めて重要な変化です。
  長谷部 しかし、小さな組織を自分たちで作りあげ、維持しようという気風、つまりエートスが日本社会からなくなったわけではない。このエートスが失われたら本当におしまいなので、今のうちに、組織を支える施策を講じないといけません。
  杉田 エートスは大事ですが、その基盤がどこにあるかです。かつての村落共同体が産業化で破壊された後、企業がアイデンティティーのよりどころとなっていた面がありますが、日本式雇用も壊され、どこにも居場所を見つけられない。国民的なアイデンティティーだけがせり出しています。日本はすごいと吹聴するテレビ番組を見て悦に入ったり、ネット上に差別的な書き込みをして留飲を下げたりしている。少数派を差別することで多数派の側につくという競争が行われている。それしか自らを支えるものがないからです。そういう状況に付け込む形で、我こそは真の国民の代表であると幻想をばらまくポピュリズム(大衆迎合)も出てくるのでは。
  長谷部 真の国民の代表であるとの主張は、ポピュリストの特徴です。裏を返せば、他の政治家は真の国民を代表しておらず、自分たちの政治的主張だけが正しいということになる。トランプさんは当選を決めた後、すべてのアメリカ人のための大統領になると言いましたが、私を支持する人間だけが真のアメリカ人だと言っている可能性が十分にある。甘く見てはいけないと思います。
  杉田 ポピュリズムは本来、「貧しい労働者を代表する」という左派ポピュリズムとして表れてもおかしくないのに、現状はほとんどが右派ポピュリズムです。国籍や人種の方が直観的にわかりやすいからでしょうか。ナチスの反ユダヤ主義は、一時的な「逸脱」と見なされてきましたが、経済が悪くなると同じようなことが起きる。レイシズム(人種差別)という、人間の「地金」が出てきているようにも見えます。
  長谷部 ポピュリズムはポピュリズムで、右も左もないのでは。何を物差しに「真の国民」を決めるのかという違いでしかなく、階級で決めるならマルクス主義的なポピュリズムだし、民族ならファシズム的なポピュリズムになる。腐敗した不純分子を排除すれば、偉大な国民なり国家なりが再生するという主張は共通しているはずです。

 ■政治システム、試される1年 長谷部/憲法、不満の矛先になりがち 杉田
  杉田 民主的な選挙や国民投票の結果をポピュリズムだと批判するのは二重基準だという論調もありますが、民主主義ならなんでもいいのか。だとすると、選挙で成立したヒトラー政権も批判できません。20世紀前半の危機については、じわじわと変化が生じ、どこで一線を越えたのかは、今も判然としない。沖縄での「土人」発言など、以前なら決して許されなかったことが許されたかのようになっている。すでにわれわれは帰還不能な地点に差し掛かっているのか否か、わからない。同時代を生きる人にはわからないということだけがわかっています。
  長谷部 今年はいろいろなことが試される年になるでしょう。まずは、権力を分立し、おかしな党派にすべての権力が掌握されないように設計されている憲法システムや政治システムが、トランプ次期大統領の暴走を抑えることが本当にできるかが試されます。
  杉田 日本ではまだ、イギリスやアメリカほどの鬱屈(うっくつ)したエネルギーの噴出には至っていませんが、日本で不満のはけ口になりがちなのが憲法ですね。憲法への攻撃は、エリートへの攻撃という形にもなり得て、留飲が下がるようです
  長谷部 安倍(晋三首相)さんは、何でもいいからとにかく憲法を変えたいと思っているでしょう。狙うとすれば、ごく限定的な緊急事態条項でしょう。
  杉田 限定的な緊急事態条項では、安倍さんの支持層の反発を招くかもしれず、ハードルが高いわりにメリットは小さい。やるならやはり9条改正では
  長谷部 安倍さんは「実」より「名」をとる人。変えたという実績をのこせれば、中身は何でもいいという考えだと思います。
  杉田 いずれにしても、憲法を変えても何の問題の解決にもならないことだけは確かで、政治的エネルギーを浪費している場合ではない。明らかに解とはなり得ないものを、自らの支持獲得のためだけに掲げるのは、極めて不健康な政治と言わざるを得ません。
  長谷部 帰還不能地点がどこにあるかは、今を生きている人にはわからない。ならばせめて私たちは、われわれの政治システムはそれほど頑丈にできていない、甘えてもたれかかっていたら壊れてしまうという自覚を持って、政治に向き合わなくてはなりません。 (構成・高橋純子)

170106 二年前:4 035 佐藤優「私のマルクス」(文春文庫:2007/2010) 感想5

2017年01月06日 18時34分06秒 | 一年前
1月6日(金): ※以下に再掲しますm(_ _)m。

2015年1月4日(日): 

414ページ  所要時間 10:05    ブックオフ108円

著者47歳/50歳(1960年1月生まれ)。

三日かかった。10時間かけたからといって、著者の思想をしっかり理解するというのは到底不可能である。でも、途中で投げ出したい気分には全くならなかった。面白かったのだ。最後まで、目を通して、あらすじと大雑把な人間模様を知り得ただけで満足である。まあ、“読めただけでも嬉しい本”ってあるのだ。

著者の父親は、大銀行の技術者で、母親は沖縄戦に九死に一生を得た敬虔なカルバン派キリスト教徒である。中学で東大全学連の闘士だった塾教師から、超詰め込み教育を施され、見事に埼玉県内一の進学校の県立浦和高校に合格する。その御褒美に、高1の夏休みに、文通相手を訪ねて、ハンガリーに行く。高校では政治活動が盛んで、著者は母方伯父の影響もあり、社会主義青年同盟と深く関係を持ち、マルクスについて学び、同時にキリスト教への関心の裏返しとして無神論に興味を持つ。ここら辺から、もう本の終りまで、思想家の名前がバンバンと頻出してくる。ルター、カント、マルクス、レーニン、ヘーゲル、スピノザ、ドストエフスキー程度ならいいが、ローザ=ルクセンブルク、フォイエルバッハ、バルト、ルカーチ、ウィットフォーゲル、ウェスレー、シュライエルマッハー、オポチェンスキー、キュンク、ニーバー、ブルンナー、ピ-サレフ、マホベッツ、モルトマン、ミハイエルスキー、大内兵衛、向坂逸郎、太田薫etc.まあ名前だけは聞いたことあるけど、内容はムリ! という具合になる。社会主義思想と無神論にのめり込み過ぎて、東大文Ⅱに落ちて、浪人をするはめになる。それでも、受験勉強に身が入らず、無神論を勉強できる学校と、ルーツである沖縄を研究する大学を受験する。前者が同志社大学神学部、後者が琉球大学法文学部。両方に合格するが、同志社での面接で「他校に合格してもぜひうちに来てほしい」と声をかけられたのがきっかけで同志社大学神学部に進学する。

全編に共通することだが、著者の膨大な記憶量と明晰さにはもう舌を巻くしかない。著者は記憶を頭の中の映像として覚えているそうだ。あと、経済的に困窮しているシーンはほとんど無かった。上流の下くらいの経済状況の家庭なのだろう。まあ、埼玉から京都の私立大学にお金の心配なく進学できるのだから、それなりの家だ。

著者の早熟さ、頭脳の優秀さは群を抜いている。俺なんかは、受験勉強で力を使い果たし、大学での勉強は結局納得のできるものにはならなかったが、著者は同志社大学神学部に入学すると同時に俺から見て「濃密過ぎる」学生生活に突入していく。

まず、無神論研究を目指す教授とのやり取りが、表現方法にもよるのかもしれないが、ほぼ対等で、教授らから指示された課題を生き急ぐが如くこなしていく。一方で、1980年前後「同志社ガラパゴス」と呼ばれるほど、学生運動が活発で各学部自治会、全学自治会、ブント、三里塚共闘会議、統一教会(原理研)、民青(日共)他、セクト入り乱れる状況に「距離を置く」と言いながら、すぐ神学部自治会メンバーと深い仲になり、“同志社の自由”の中で神学部自治会が占拠し続けていた半公認の教室「アザーワールド」にたむろして、難解な思想書などを読み合いながら、酒を飲み語り合い、寝泊まりする日々を送る。そして、1年の秋には無神論を離れ、洗礼を受ける。一方で、著者は、教授から示された外国語の神学書の読み込みをひとり図書館に通って積み上げていく。

また、四条河原町の「キエフ」をはじめ、京都市中の飲み屋で語り合い、深酒を重ねる。そこには教授たちも交じることがある。韓国の軍事政権に監禁された同志社神学部の韓国人卒業生の解放のための運動に骨折り、ときに教授たちと対等に語り合い、ときにトラブル処理で頼られもする。同志社大神学部の教授陣は教育者であると同時に、宗教家の牧師なのだ。極めて懐の深い師たちであったようだ。学生時代、教授とまともに口をきくこともできなかった俺の目から見れば、著者の早熟さと、教授たちの立派さは際立っている。一種のユートピアだ。

著者のフィルターを通すことによってなのかは、わからないが、著者をめぐる学生たちの姿も皆、ひとかどの人物に見えてくる。教授たちも人間味豊かで深い奥行きのある人柄に見える。角度を変えて見れば、著者の人間的魅力(カリスマ性?)が、友だちや教授陣の良い面を引き出し、よい面を見出していったのだと言った方がよいだろう。学生運動と衝突事件と勉強と酒と談論に明け暮れる濃密な迫力ある日々、読んでいて、これは佐藤優版『突破者』だなあと、昔読んだ宮崎学『突破者』のイメージと重ね合わせてなんとなく腑に落ちた。

著者は、チェコの神学者で、共産主義とキリスト教の共存の可能性を追求し、1969年急逝したフロマートカを、人生をかけた研究課題とするが、チェコへ渡って研究をすることは当時不可能だった。そして、著者の飛躍が起こる。神学部に前例のない外務省外交官(ノンキャリア)試験を受ける。留学できて、給料以外に30万円の支給がある。大学院1年で受験した時は、準備不足で落ちたが、2年の11月には外務省専門職員に合格、あこがれの東欧を目指すことになる。官僚的知性は、その能力を自分や組織や国家のために使うが、神学者の知性は、その能力を他者のために使う点で、全く向きが違う。

本書は、著者の中学から大学院2年まで、高校と大学でのマルクスとの2度の出会いを中心に記された「青春期」のようなものである。マルクスとの3度目の出会いは別著に書かれる。まとめようもないものですが、勢いだけでとりあえず紹介しておきます。

外務省のラスプーチンと誹謗中傷された著者であるが、大学生の時にすでに仲間の学生たちから「君のカリスマ性は危険だ」と指摘を受けていたそうだ。著者の本は6~7冊目だと思うが、読むごとに著者に対しては「この人はものが違う。規格外だ!」という思いが強まっていく。そもそも著者は、自分が物書きになる、ということにひどく臆病だった。それを、仲間のロシア語通訳者の米原万里から、「あなたは書くべきよ。必ず書く人だわ。」と予言されていたそうだが、その米原万里も含めて、ロシア語畑の人々から、どうしてこうも盛りだくさんで分厚く重厚な、それでいて内容の充実した文章を書く人が輩出するのか。文字量で圧倒する雰囲気は、ドストエフスキーを思わせる。佐藤優という全く無名のノンキャリア外交官が、糊口をしのぎ、真実を伝えるためにやむを得ず書きはじめたら、全くの規格外のスケールの書き手(化け物、失礼!)だった。というのは考えようによってはすごい風景だ。世の中、こんな人たちがまだまだ隠れてるのかと思うと意味もなくすごいなあとため息が出る。

目次:はじめに/1 ユダヤ教の刻印/2 ブダペシュトへ/3 やぶにらみのマルクス像/4 労農派マルクス主義/5 同志社大学神学部/6 組織神学教授・緒方純雄/7 ロシアレストラン「キエフ」/8 黒旗の上に描いた魚の絵/9 極めつけの嫌がらせ/10『美学の破壊』/11 思想家・渡邊雅司/12 襲撃/13『なぜ私は生きているか』/14 天性の牧師・野村真也/文庫版のためのあとがきにかえて 講演録(2010年)/解説 中村うさぎ/書名リスト/人物索引

<抜粋> 
・イスラームの人間観には原罪がない。これはユダヤ教徒、キリスト教徒と決定的に異なる。20ページ
・この教師は受験勉強は理解ではなく暗記に尽きるという哲学の持ち主で、徹底的な詰め込み教育を行った。知識を徹底的に詰め込むと、ある段階から知識自体が動き出し、自分の頭で考え始めるようになることを私は学習塾で体得した。38ページ
・高校三年生の頃、私は社会党左派や社会主義協会の人々からマルクスっ主義について集中的に学ぶことになった。彼/彼女らはソ連や東欧(特に東ドイツ)が理想的な社会であると信じていた。54ページ
・「堀江先生は、むしろ共産党にシンパシーを感じますか」/「いや、感じません。選挙では社会党に入れることの方が多いです。共産党のセクト主義は嫌いです。解放同盟に対する共産党の対応は差別の本質を見失わせ、結果として差別を助長させることになると思います」97ページ  *何か、都知事選や今回の総選挙を思い出した。
・「インテリとは自分が現在どういう状況にいるかを客観的に知ることだ。」101ページ
・私にはいいかげんで、本質的に人間の知性を信じないキリスト教が身の丈に合っているのだ。117ページ
・「重要なのはほんとうに好きなことが何かです。ほんとうに好きなことをやっていて、食べていくことができない人は、私が知る限り、一人もいません。」119ページ
・結局、僕は神を信じたいのだけれど、信じることができないのだと思う。もちろん無神論を信じることもできないけどね。アウシュビッツ以降のユダヤ人はみんなそういう感覚を共有しているよ。145ページ
・古典を根拠にどんな政治的言説でも作ることができることを私はインテリジェンスの世界で山ほど見てきた。164ページ
・あるとき野本真也神学部教授が私たちに「神学には秩序が壊れている部分が絶対に必要なんです。だから神学部にアザーワールドのような、既成の秩序に収まらない場所と、そういう場所で思索する人たちが必要なんです」といっていたが、これはレトリックではなく、神学部の教授たちは、あえて通常の規格には収まらない神学生たちの活動場所を保全していたのである。202ページ
・「佐藤、古代教会で、十字架が一般化する前にキリスト教のシンボルとして書かれたのは、、確か魚だったよな」204ページ
・田邊元はその責任を果たさなかった。言葉に対する責任回避の道具として弁証法ほど便利なものはない。209ページ
・「惚れるときは、大きな思想家に惚れないといけない。小物の思想家に惚れると、結局、時間を無駄にする」251ページ
・「インテリは先駆者的役割なんか果たせないよ。インテリが何をやってもプロレタリアートに影響なんか与えられないよ」259ページ
・「第一旭」と「新福菜館」は京都駅のそばにある豚足スープ系の京都ラーメンの有名店で朝七時から営業しているので、徹夜で飲み明かしたときに、神学部自治会の友人たちとよく訪れた。267ページ
・洗礼を受けてキリスト教徒になったのだから、マルクスからは離脱するというのが通常の軌跡と思うのだが、そうはならなかった。私のマルクスに対する想いはますます強くなる。279ページ
・「君のカリスマ性は危険だと思う。だから神学部はもとより少なくとも近未来は大学教師はならない方がいいと思うんだ」298ページ
・宗教改革の最大の指導者はマルティン・ルターである。ヒトラー総統が最も尊敬したドイツ人はルターだった。319ページ
・相当のことをしでかしても、神学生が退学になることはないと思います。それは同志社大学神学部に自由主義神学の伝統があるからです。ここでいう自由とは責任をともなう自由というタイプの自由ではじゃなくて、何をやってもかまわないという、でたらめ放題の自由ですね。こういう自由主義は非常に貴重です。364ページ
・緒方先生は、「バルトは、神学は最も美しい学問であると言ったでしょう。私はその美しいというところが非常に気になるんです。美しいという言葉の中には恐ろしさがある。」378ページ
・官僚が、国民についてどう思っているかというと、略、無知蒙昧の有象無象だと思っている。そこで国会議員というのは、その有象無象から選ばれているわけですから、無知蒙昧のエキスみたいなものだと見下しています。この無知蒙昧のエキスみたいなものが国家を牛耳るようになったら、国家は崩壊すると官僚は本気で心配しているんです。あいつらは本気です。382ページ
・官僚は官僚に忠誠を誓っているわけです。383ページ
・日本で左翼による革命は起きません。可能性としてあるのは、右翼による「世直し」です。このとき鍵を握るのが武器をもつ自衛隊になります。どうもこの危険が、霞が関の偏差値秀才には見えていないようです。403ページ

著者紹介:1960年生まれ。1975年、浦和高校入学、同年夏に一人で東欧・ソ連を旅する。79年、同志社大学神学部入学、85年、同大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在英国日本国大使館、ロシア連邦日本国大使館に勤務後、95年より外務本省国際情報局分析第一課で主任分析官として活躍する。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕され、512日間東京拘置所に勾留される。05年2月、執行猶予付き有罪判決を受ける。09年6月、最高裁によって上告棄却された。

背表紙内容紹介:「資本主義の内在的論理についてマルクスが『資本論』で解明した論理は、超克不能である」という確信のもとに、自らの思想的ルーツをたどる。稀代の論客・佐藤優の根幹を成した浦和高校、同志社大学神学部時代を回想しつつ、カール・マルクスとの三度の出会いを綴る(もみ注;実際は二度の出会いまで)著者初の思想的自叙伝前篇。文庫版付録・京都での講演を新たに収録。解説・中村うさぎ

6 018 佐藤優「先生と私」(幻冬舎文庫:2014) 感想4

2017年01月05日 21時44分55秒 | 一日一冊読書開始
1月5日(木):  

413ページ    所要時間1:50    ブックオフ510円

著者54歳(1960生まれ)。

 1ページ15秒の眺め読み。途中で集中力が切れなかったので、最後まで眺めることができた。この速度だと、筋を追いかけるのが精一杯で味わうところまではいかない。それでも、集中はできたことが大きい。味わいたいけど、味わえば本書とは縁を結べなかったのも確かなことだ。

 本書は著者が、生まれてから中学で地元の進学塾に通い、浦和高校に合格するまでの15年間に出会った人々との交流を書いたものである。以前に読んだ著者の『私のマルクス』が、同志社大学での学生時代が中心だったのに対して、本書は中学での受験勉強時代が中心だ。著者の早熟ぶりがわかるほか、『私のマルクス』でも興味深く紹介されていた塾の先生らの様子がより詳しく描かれている。

 ただ、内容的には『私のマルクス』より数段下がると思う。特に、浦和高校に進学が決まった後の北海道旅行は、著者にとっては大切な思い出なのかもしれないが、正直言って<蛇足>だと思う。もう少しで、感想3+にしそうになった。でも、もう一度ゆっくり読み直してみたいとも思う。

※こんな不十分な形の読書でも、本を読むと少しだけ幸せな気分になれますね。

6017 <初夢 池上彰総理大臣> 池上彰「池上彰のやさしい教養講座」(日本経済新聞出版部:2014.5月) 感想4+

2017年01月04日 20時01分20秒 | 一日一冊読書開始
1月4日(水):  

322ページ   所要時間5:00    ブックオフ360円

著者64歳(1950生まれ)。

  2度目。現代の日本と世界について最もわかりやすく解説できる人である。日本と世界の現状を掌を指すように腑分けしてくれる。今この瞬間、日本で比類なく最も影響力のある良識派知識人であると言っても異論は出ないだろう。昨日のテレビ東京系「2017年 世界を見に行く」もすごく興味深く観れた。しかし、池上さんも、もう66歳、世界中を自由に飛び回って取材できることもあと数年だと思う。

  本書を読みながら、野暮で無粋の極みだと思いつつ「初夢だけど…、池上さんが、小沢さんと組んで共産党も含めた野党連合の旗頭に立ってくれたら、安倍の自民党総裁三期目就任という悪夢を見ないですむ。池上さんを野党連合の旗頭にすれば、池上総理大臣を実現することは十分に可能だし、なって欲しい」と心の底から思った。

  池上首相が実現したからと言って、政治経済の現状が劇的に変わることを期待しているわけではない。願うことはポピュリズムからの脱却。「当たり前の政治の実現」であり、「政治の正常化」のみだ。憲法を尊重せず、日本会議という極右団体に頭の中をあずけ、多過ぎるステークホルダー(利害関係者)にがんじがらめに絡めとられて彼らの利益代表としてしか動かず、日本国民・市民の本当の福利を考えない世襲政治屋が弱者を切り捨て、強者を優遇する、とても「政治」と言えない暴政がまかり通るのを変えてほしいだけである。

  それが一番難しいこともわかっているが、「立憲主義」と「日米安保」のバランスを回復してほしい。きちんと説明責任を果たしてくれるのであれば、国民的議論を避ける必要もない。「消費税増税」「社会保障」「日本経済」「教育」「経済格差と貧困」「皇室典範」「沖縄」「福島」「原発」「防災」「対中・対韓・対露他の諸外交」「移民受け入れ」etc.何やら書いていて空しくなるが…。本当に多岐にわたる国民的課題をあの愚劣な世襲総理とチンピラ集団の自民党がきちんと取り組めていないのを思い合わせると、池上さんに総理大臣になってもらいたいと思ってしまう。

  池上首相の最大の障害は、野田幹事長の民進党だろう。できれば、非自民・非民進の枠組みを作ってほしい。池上総理をめざす野党連合を掲げれば、民進党は必ず割れる。松下政経塾や日本会議の影響下にない議員集団が合流すれば十分に闘える規模になる。見分けるのは簡単だ、護憲」「反原発」「沖縄への連帯」の姿勢を見ればよい。その際、「従米」でも構わない。

  期間限定、テーマ限定でよい。マニフェストを復活させてもよい。小沢一郎さんと共産党のもとに池上首相実現のために非自民・非民進でみんなが結集すればよい。国民・市民の側も多くを期待しないことだ。ただ、「護憲」「反原発」「沖縄への連帯」というごく絞られた課題に注目して「政治の正常化」のみを求めればよい。あとはケースバイケースで池上首相に任せるべきだ。

  もし池上首相の可能性が出てくれば、自民党はあらゆる汚い手を使って阻止に回るだろう。野党も国民も本気で池上さんを守り、支える覚悟が求められるだろう。それでも、実現してほしいと思う。多くを望んではいけないが、少なくとも国際社会で笑いものになっている学ばない世襲の愚か者の首相が、国内で国民・市民の生活を踏みつけにする倒錯した無残な光景をこれ以上見ないですむのだ。

【紹介文】もとは東京工業大学で1年生を対象に開講している教養科目の講義。全体を10 のトピックに再構成し(日本編と世界編でそれぞれ5つずつ)、それぞれのとっかかりとして身近なニュースを盛り込む。時事ネタを読み解きながら、その背景にある戦後世界の現代史がよくわかる1 冊です。米軍は日本を守ってくれるの? 原発問題はどうなる? 中東和平はなぜ難しい? ――日経新聞の人気連載を書籍化。日本と世界の気になるニュースを手がかりに、戦後史を池上先生がやさしく解説。

【「はじめに」から】
  このところ「教養」がちょっとしたブームの様相を呈しています。書店の店頭には「教養」を冠した書籍が多く並ぶようになりました。それだけ教養が求められるよう になったのでしょう。
  とはいえ、そもそも教養とは何でしょう。人生の滋養になるもの。そんな回答も可能でしょう。人生をよりよく生きるための基礎体力。そんな言い方も可能でしょう。
  長い人生の中で、私たちはさまざまな困難にぶつかります。障害をどうすれば乗り越えることができるのか。そこで教養がモノを言います。教養の多寡が成功と失敗を分けます。そこで必要になるのが、過去の人々の叡智です。叡智ばかりではありません。過去の愚かな失敗もまた、他山の石として大いに参考になります。過去の成功と失敗を学んでおく。これも教養なのです。
  こうした過去の例を教訓にするためには、歴史を学ばなければなりません。そのために学校には「歴史」という教科があるのです。高校では「世界史」や「日本史」という科目名になっていますが。
  しかし、一口に歴史といっても、多種多様です。高校までの「世界史」や「日本史」では、現代に到達する前に時間切れとなることが多いことでしょう。これでは、現代を読み解くことができません。そこで、東京工業大学で教えている私は、現代史を中心に授業をしています。第二次世界大戦後の東西冷戦が現代にどのような影を落としているのか。冷戦が終結したことによって、何が起きたのか。そうした歴史の道筋を辿りながら、人々の取り組みの成功と失敗を、学生たちと考えています。現代史は、現代に生きる私たちにとっての必須の教養だと思うからです。
  現代史を講義する際、私は、最新のニュースを導入に用います。いま何が問題になっているのか、それを把握するために現代史の理解が必要であることをわかってもらうためです。
  こうした講義録を書籍にまとめたのが、この本です。東日本大震災を、私たちはどう受け止めるべきなのか。政権交代は何をもたらしたのか。私たちにとって「豊かさ」とは何か。バブルや公害問題の歴史を考えました。
  さらには、日本を取り巻く東アジア情勢の激変の中で、日米安保や沖縄の米軍駐留問題も取り上げました。
 ジャーナリスト・東京工業大学教授  池上彰


【目次】はじめに
第一章 講演集 池上先生、教養を学ぶ意味って何ですか? :C h a p t e r.1 学ぶ力を持つということ /C h a p t e r.2 悩むことは怖くない
第二章 現代日本を知る5つのテーマ 戦後日本の歩みを学ぶ :C h a p t e r.1 豊かさとは何だろう /C h a p t e r.2 3・11という「第2の敗戦」からの復活 /C h a p t e r.3 日米安全保障条約が守るモノとは /C h a p t e r.4 歴史的政権交代は、なぜ失敗したのか /C h a p t e r.5 「働く」ということを考える
第三章 現代世界を知る5つのテーマ 戦後世界のかたちを学ぶ :C h a p t e r.1 勝者が世界を二分した東西冷戦 /C h a p t e r.2 世界平和は核の恐怖で生まれる? /C h a p t e r.3 中東和平への遠い道のり /C h a p t e r.4 テロを生んだもの、テロを終わらせるもの /C h a p t e r.5 戦争のない世界を目指して

170103 二年前:150103 テキスト紹介:「国益に反して何が悪い?」池上彰が朝日叩きとネトウヨの無知を大批判!(LITERA)

2017年01月04日 04時04分54秒 | 一年前
1月3日(月):

2015年1月3日(土):

紹介しておきたい言説を載せます。池上さんは、軸がぶれない。

「国益に反して何が悪い?」池上彰が朝日叩きとネトウヨの無知を大批判!  2014.11.16 LITERA(リテラ)
 11月14日、ついに朝日新聞の木村伊量社長が辞任した。だが、15日の朝刊に掲載された辞任のことばを読むと、中身のない反省の言葉が並んでいるだけで言論機関としての矜持は皆無だ。
 いや、社長の対応だけではない。一連のバッシングは明らかに官邸や右派勢力による不当な圧力なのに、それに抗する姿勢をまったく見せることができず、自分たちが損ねた慰安婦問題の信用性を回復するために新たな史実を発掘しようとする気概もない。いまの朝日は食品偽装が発覚したレストランみたいに、ただ頭を低くして嵐が通り過ぎるのを待っているだけだ。
 一方、そんな朝日と対照的に、最近、言論人としての原理原則を強く打ち出しているのが、その朝日にコラムの掲載拒否をされて話題になった池上彰だろう。池上は、朝日の言論封殺の被害にあったにもかかわらず、「週刊文春」(文藝春秋)での連載で、「罪なき者、石を投げよ」というタイトルの文章を発表。他紙も同様に自社批判を封印していることを指摘したうえで「売国」という言葉を使う朝日バッシングの風潮に警鐘を鳴らして、読者から高い評価を得ていた。
 その池上が、ここにきて、さらに踏み込んだ発言をしているのだ。
 たとえば、そのひとつが「世界」(岩波書店)12月号での発言。この号は「報道崩壊」が特集なのだが、池上はジャーナリストの二木啓孝との対談で、朝日バッシングを取り上げ、こんな本質的な問題提起をしている。
〈今回、一番私が違和感を覚えるのは、「国益を損なった」という言い方です。極端な言い方をすれば、メディアが「国益」と言い始めたらおしまいだと思います。〉
〈これが国益に反するかどうかと考え始めたら、いまの政権を叩かないのが一番という話になるわけでしょう。それでは御用新聞になってしまう。私は、国益がどうこうと考えずに事実を伝えるべきで、結果的に国益も損ねることになったとすれば、その政権がおかしなことをやっていたに過ぎないと思います。〉

 たしかに、朝日バッシングでは、産経や読売といった新聞、「週刊文春」や「週刊新潮」(新潮社)などの雑誌から、やたらこの「国益」という言葉が発せられていた。朝日は国益を損ねたのだから、国際社会に対して説明せよとか、廃刊して責任をとれ、という意見までがとびだした。
 しかも、この言葉を使うのは、右派メディアにかぎらない。朝日や毎日新聞などもふくめたあらゆるメディア関係者の間でこの言葉が普通に使われ、権力批判を放棄するエクスキューズになっている。
 まさに池上の指摘は、いまのメディアが抱える最大の病理を鋭く指摘したかたちだが、しかし、池上はこの対談で、新聞やテレビ、週刊誌だけでなく、ネットについても鋭く切り込んでいる。
〈嫌韓だけでなく、かつては絶対に使ってはいけないとされた差別用語が臆面もなくネットには飛び交っていますね。(中略)書き放題のネットを唯一の情報源としている人たちには、出版界や新聞などとは全く別の“常識”が生まれているのではないでしょうか。〉
〈ある大学で講義をしたとき、レポートの裏に学生の質問が書いてあって、「日本のメディアはみんな在日に支配されているというのは本当ですか」と。かなりの部分の若者たちがそうしたネット言説を信じているんですね。〉
 こうした現状認識を開陳した上で、ネットにはびこる嫌韓・反中、そして日本の誇りという言葉の裏にあるデタラメを暴きだすのだ。
歴史的な発展段階で通る過程において起きることを、韓国だから中国だからこうなんだといって叩いている。ちょっと前は日本だって同じだったよ、という歴史も知らないまま日本の誇りを持つというのは、非常に歪んでいます。
「昔はよかった」とか「取り戻そう」というのも、その「昔」とは何なでしょうか。日本はいま街にゴミを捨てる人もいないけれど、一九六四年の東京オリンピックの前に一大キャンペーンが行われるまでは本当にゴミだらけで、青山通りから渋谷は、風が吹くとゴミが舞っていた。〉 
〈昔から日本は清潔好きで、行列はちゃんとつくる優等民族だという発想がこわいですね。民族の問題じゃない。発展段階や政治体制の問題なのに。
 そして、侵略戦争や慰安婦問題についても、はっきりと日本に責任があることを明言したのである。
〈国益について言うと、ドイツは七〇年間「ナチスのドイツといまのドイツは違う」と言い続けてきて現在がある。日本が慰安婦問題で「昔の軍国日本の行為です。平和国家日本は違う」ときちんと言えなければ、昔の日本は悪くなかったと主張していると受け止められるでしょう。そういう大局観がないと、それこそ国益を損ねますね。〉
〈だって、何百万人もの日本人を死に追いやった責任が誰かにあるわけでしょう。ドイツは経済的に発展するためにも謝罪をし、周辺の理解を得なければならなかった。さらには、自国の通貨マルクを捨ててでもユーロを選ぶことによって信頼を勝ち取るしかなかった。そこまでのことを甘受しているドイツと、周りを悪しざまに言うことがうけている日本と、相当差がありますね。

 どうだろうか。いくら発言の舞台が岩波の「世界」だとはいっても、池上は特別、左派的な論客ではない。しかも、テレビや大手新聞などで活躍しているメジャーな存在である。
 最近のマスコミを活動の舞台にしている評論家やコメンテーターは池上と同じようなことを思っていても、炎上や右派からの攻撃を恐れて、それを口にすることができない者がほとんどだ。それどころか、発言のたびにいちいち「私は愛国者だが」とか「国益を考えても」というエクスキューズをつけるのが、テレビでのコメントの作法にさえなってしまっている。
 そんな中で、ここまで正論をはっきりと口にできるとは……。正直いって、これまでは、池上のことを“ただの中立病”“バランス感覚だけの”と思っていたが、認識を改める必要があるだろう。もしかしたら、「言論」ということにかんしては、今、池上彰という人が一番、真っ当なスタンスをもっているのではないか。それとも、バランス病の池上サンがここまでいいたくなるほど、全体が右に寄っているということなのか。(野尻民夫)


※ついでにもう一丁!

池上彰が朝日叩きに走る新聞、週刊誌を批判! 他紙での掲載拒否も告白!          2014年9月21日 21時40分 LITERA(リテラ)
 ありとあらゆるメディア、識者、ジャーナリストが問題の本質をネグって、"朝日吊るし上げ"に熱狂する言論状況。そんな中、本サイトは逆に朝日を叩く側、読売新聞や産経新聞、週刊誌、そして安倍政権に対して、「おまえたちも同じアナのムジナだ!」と徹底批判を展開してきた。付和雷同、勝ち馬に乗ることしか考えていないこの国のメディアの中でこんな酔狂なまねをするのは自分たちくらいだろうと覚悟しつつ......。実際、いくら書いても孤立無援、本サイトの意見に同調してくれる新聞、テレビ、雑誌は皆無だった。
 ところがここにきて、意外な人物が本サイトと同様、メディアの"朝日叩き"への違和感を口にし始めた。その人物とは、朝日新聞の連載で朝日の報道姿勢を批判するコラムを書いて掲載を拒否された池上彰氏だ。
 この問題は朝日新聞による言論の封殺だとして読者から非常な不評を買い、朝日にとって「慰安婦問題」や「吉田調書」以上にダメ―ジになったと言われている。ところが、一方の当事者であるその池上氏が「週刊文春」(文藝春秋)9月25日号の連載コラム「池上彰のそこからですか!?」で、朝日を叩いている他のメディアも同じようなことをしていると指摘したのだ。
 まず、池上氏は冒頭で「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という聖書の一節を引いた上で、こんな体験を語る。
 「私は、かつて、ある新聞社の社内報(記事審査報)に連載コラムをもっていました。このコラムの中で、その新聞社の報道姿勢に注文(批判に近いもの)をつけた途端、担当者が私に会いに来て、『外部筆者に連載をお願いするシステムを止めることにしました』と通告されました」
 「後で新聞社内から、『経営トップが池上の原稿を読んで激怒した』という情報が漏れてきました」
 ようするに、朝日新聞と同様の掲載拒否が別の新聞社でも起こっていたことを暴露したのだ。池上氏は「新聞業界全体の恥になると考え」この一件を封印してきたが、「歴史を知らない若い記者たちが、朝日新聞を批判する記事を書いているのを見て」敢えて過去の体験を明かすことにしたという。そして、冒頭で引用した聖書の一節を再び使ってこう指摘している。
 「その新聞社の記者たちは『石を投げる』ことはできないと思うのですが」
 さらに池上氏は朝日新聞が自社の批判特集を掲載した週刊誌の広告掲載を拒否したことにも言及している。この件もまた、他の新聞が激しい批判を展開していたが、池上氏は皮肉まじりにこう書く。
 「『そんなに朝日のことを批判できるのかなあ』と思った『週刊現代』の関係者もいるのではないでしょうか。かつて『週刊現代』の新聞広告が、新聞社から長期にわたって掲載を拒否されたことがあったからです。(略)この時期、『週刊現代』は、その新聞社の経営トップに関する記事を立て続けに掲載していました。まさかそれで広告掲載拒否になったなどということは、ありえないと思うのですが」
 実はこの件については、本サイトも全く同じことを指摘していた。池上氏は新聞社名を伏せているが、この新聞社とは読売新聞のことだ。「週刊現代」(講談社)が読売の渡辺恒雄会長への批判や読売巨人軍の不祥事を報道していたところ、ナベツネ会長のツルの一声で「週刊現代」の広告掲載拒否が決まったのである。
 また、本サイトは今回の問題を読売、産経が新聞拡販に利用し、本社販売部からの「朝日攻撃指令」などの指示が出ていることを暴露。結局、商売目的でしかないと批判したが、池上氏も同様の指摘をしている。
 「朝日の検証報道をめぐり、朝日を批判し、自社の新聞を購買するように勧誘する他社のチラシが大量に配布されています。これを見て、批判は正しい報道を求めるためなのか、それとも商売のためなのか、と新聞業界全体に失望する読者を生み出すことを懸念します」
 池上の矛先はさらに古巣NHKにも及んでいる。それは1981年2月、当時の『ニュースセンター9時』を舞台にしたものだった。
 「ロッキード事件から五年になるのに合わせて特集を組みました。このとき三木武夫元総理のインタビューが、当時の報道局長の指示で放送直前にカットされるという事件がありました」
 これに対し、政治部長も社会部長も各部のデスクも記者たちも激怒、その説明を求めたが、しかしインタビューは放送されることもなく、次の人事異動で政治部長、社会部長ともに異動になったという。そして、池上氏はそのNHKと比べるかたちで、「少なくとも朝日の幹部は判断の誤りを認め、謝罪するという態度をとった」として、評価する姿勢を見せている。
 池上氏の批判は、このコラムが掲載されている「週刊文春」をはじめとする週刊誌にも向けられている。
 「一連の批判記事の中には本誌を筆頭に『売国』という文字まで登場しました。これには驚きました。『売国』とは日中戦争から太平洋戦争にかけて、政府の方針に批判的な人物に対して使われた言葉。問答無用の言論封殺の一環です。少なくとも言論報道機関の一員として、こんな用語を使わないようにするのが、せめてもの矜持ではないでしょうか
 いかがだろうか。新聞社名を伏せるなど、池上サンらしい配慮とバランスを見せていることにはちょっと不満が残るが、おっしゃっていることはすべて正論。正直、この人がここまできちんとした言論の自由への意識、ジャーナリストとしての倫理観をもっているとは思っていなかった。こんな人物がポピュラリティをもってメディアで活躍できていることを素直に喜びたいと思う。
 だが、同時に暗澹とさせられるのが、この国のメディアでこうした意見をはっきりと口にしたのが、今のところ、池上サンただ1人しかいないという事実だ。新聞もテレビも雑誌もそんなことはおくびにもださず、安倍政権と世の中の空気に乗っかって朝日叩きに血道をあげているだけだ。
"朝日叩き"は売れるコンテンツらしいから、やるなとはいわないが、せめて、返す刀で安倍政権や自分たちも含めたメディア全体の責任を検証すべきではないか。
 それは袋だたきにあっている朝日も同様だ。朝日こそこうした反論と真相の暴露をするべきなのに、それをまったくすることができず、まるで食品不祥事を起こした企業のようにひたすら頭を下げてその場をやりすごそうとしている。
 この国で、メディアにジャーナリズムの使命感や矜持を求めるなんていうのはもはや、八百屋で魚を求めるようなものなのかもしれない。(エンジョウトオル)

170102 リテラ:天皇が「主権回復の日」に「沖縄の主権は回復されてない」と異議を唱えていた! 安倍政権に奪われる天皇の発言機会

2017年01月03日 00時27分47秒 | 沖縄と共に生きる
1月2日(月):
リテラ天皇が「主権回復の日」に「沖縄の主権は回復されてない」と異議を唱えていた! 安倍政権に奪われる天皇の発言機会
     http://lite-ra.com/2017/01/post-2820.html  2017.01.01. 天皇「主権回復の日」批判に官邸は  
  天皇の言葉を聞く機会がどんどん少なくなってきている。これまで毎年、元日に「新年の感想」を文書で発表してきた天皇だが、今年から負担軽減のためという理由で、「新年の感想」がとりやめになった。
  23日に公開された誕生日会見もそうだった。本サイトが22日にスクープしたように、宮内庁記者会からの質問がひとつにしぼられてしまい、天皇は結局、「生前退位」に関して踏み込んだ発言を一切することができなかった。
  これらは本当に天皇の本意なのだろうか。例の「お気持ち」表明の後、安倍官邸は内閣危機管理監の西村泰彦氏を宮内庁次長に送り込んだが、こうした新体制を使って天皇の言葉を奪おうとしているとしか思えない。
  「国会では圧倒的多数をしめ、マスコミは完全屈服と、怖いものなしな状況の安倍官邸がいま一番、気にしているのが天皇の動向なんです。官邸は天皇が自分たちの改憲・戦前回帰路線に批判的なことを重々わかっている。もし、天皇が本音を少しでも口にしたら、自分たちのもくろみが一気に崩壊しかねない。そこで、生前退位問題が浮上したのをいいことに、天皇が生の声を発する機会を少しずつ減らそうとしているんでしょう」(宮内庁担当記者)
  実は、最近も、天皇が安倍政権と真逆の考えをもっていることを明らかにする報道があった。昨年12月24日付の毎日新聞朝刊。「考・皇室」という連載シリーズ記事のなかに、2013年4月28日に政府主催でおこなわれた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」をめぐる、天皇の“注目すべき発言”が記されていたのだ。
  4月28日は、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、本土がアメリカの占領から独立した日だ。第二次安倍政権は3年前、この日を「主権回復の日」として政府主催で初めて式典を開き、天皇と皇后を出席させた(挨拶はなし)。式典の開催は、自民党が野党時代から公約にかかげるなど、安倍首相の強いこだわりがあったが、天皇・皇后は事前段階から周辺に拒絶感を吐露していたといわれている。
  そして式典当日、菅義偉官房長官が閉式の辞を述べ、天皇・皇后が退席しようとしたとき、あの“事件”が起きる。突然、会場の出席者らが両手を挙げて「天皇陛下万歳!」と叫んだのだ。安倍首相らも壇上でこれに続き、高らかに「天皇陛下万歳」を三唱。天皇と皇后は、足を止め、会場をちらりと見やり、わずかに会釈してから会場を去った。表情は固まったままだった。
  だが、このとき天皇は、安倍政権に「政治利用」されたことの他に、もうひとつ“大きな怒り”を覚えていたようだ。前述の毎日新聞24日付記事には、まさにそれを証明する、こんな記述がある。
  〈陛下は、式典への出席を求める政府側の事前説明に対し、「その当時、沖縄の主権はまだ回復されていません」と指摘されていた〉
  これは、サンフランシスコ講和条約で本土から切り捨てられた沖縄を無視してはならない、という天皇の気持ちに他なるまい。安倍首相は1952年4月28日を機に日本の主権が回復されたというが、沖縄は1972年5月15日の本土復帰まで米軍の統治下に置かれ続けた。ゆえに沖縄では講和条約発行日は「屈辱の日」と呼ばれており、当時の仲井眞弘多沖縄県知事も「主権回復の日」式典を欠席していた。
  つまり、毎日新聞によれば、その式典にたいして、天皇は沖縄が取り残されたという事実を持ち出し、政府側に反論していたというのだ。記事では続けて、宮内庁幹部の証言としてこう記されている。
  〈宮内庁の元幹部は「歴史的な事実を述べただけだが、陛下が政府の説明に指摘を加えることは非常に珍しい」と説明する。憲法で天皇は政治的権能を持たないと規定され、天皇の国事行為は「内閣の助言と承認に基づく」とされる。式典出席などの公的行為も内閣が責任を負う。元幹部は「政府の助言には象徴天皇として従わざるを得ない。国民統合の象徴として沖縄のことを常に案じている陛下にとって、苦渋の思いだった」と打ち明ける。
  陛下は皇太子時代に訪れた沖縄で火炎瓶を投げられた。関係者は「陛下は皇太子時代から沖縄問題を系統的に勉強している」と話す。陛下としては政治的な行為とならないぎりぎりの範囲で指摘したとみられる〉
  日本国憲法を遵守するがゆえに、政権によるみずからの「政治利用」を食い止められなかった今上天皇。だが、それでも安倍首相が無視する沖縄への思いだけは抑えることができなかった。そういうことなのだろう。
  実際、今上天皇の沖縄への思いは並々ならぬものがある。毎日の記事も触れているが、皇太子時代の1975年7月、美智子妃とともに沖縄を初めて訪問。当時、3年前に本土復帰したばかりの沖縄では、天皇に対する反感が強くあった。朝日新聞12月18日付によれば、訪問前、琉球文化研究などの第一人者である外間守善氏から「何が起こるかわかりませんから、ぜひ用心して下さい」と心配された今上天皇は、「何が起きても受けます」と述べたという。
  はたして、今上天皇がひめゆりの塔で献花したそのとき、潜伏していた過激派の男から火炎瓶を投げつけられた(ひめゆりの塔事件)。しかし、その後も、天皇は何度も沖縄を訪れ、そして、いくどとなく公の場でその心中を口にしてきた。
  たとえば2012年の誕生日会見では、その年の訪問について記者から質問され、このように語っている。
  「多くの沖縄の人々に迎えられたことも心に残ることでした。沖縄は、いろいろな問題で苦労が多いことと察しています。その苦労があるだけに日本全体の人が、皆で沖縄の人々の苦労をしている面を考えていくということが大事ではないかと思っています。地上戦であれだけ大勢の人々が亡くなったことはほかの地域ではないわけです。そのことなども、段々時がたつと忘れられていくということが心配されます。やはり、これまでの戦争で沖縄の人々の被った災難というものは,日本人全体で分かち合うということが大切ではないかと思っています」
  また、2003年の誕生日会見では、翌年1月に予定されていた沖縄訪問について、こう言及していた。
  「今度の沖縄県の訪問は、国立劇場おきなわの開場記念公演を観ることと、それからまだ行ったことのない宮古島と石垣島を訪問するということが目的です。しかし、沖縄県と言いますと、私どものまず念頭にあるのは沖縄島そして伊江島で地上戦が行われ非常に多くの、特に県民が、犠牲になったということです。この度もそういうことでまず国立沖縄戦没者墓苑に参拝することにしています。この沖縄は、本当に飛行機で島に向かっていくと美しい珊瑚礁に巡らされ、いろいろな緑の美しい海がそれを囲んでいます。しかし、ここで58年前に非常に多くの血が流されたということを常に考えずにはいられません」
  そして天皇は、サンフランシスコ講和条約に触れながらこう続けた。
  「沖縄が復帰したのは31年前になりますが、これも日本との平和条約が発効してから20年後のことです。その間、沖縄の人々は日本復帰ということを非常に願って様々な運動をしてきました。このような沖縄の人々を迎えるに当たって日本人全体で沖縄の歴史や文化を学び、沖縄の人々への理解を深めていかなければならないと思っていたわけです。私自身もそのような気持ちで沖縄への理解を深めようと努めてきました。私にとっては沖縄の歴史をひもとくということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました
  こうした天皇の言葉を踏まえれば、今回毎日が報じた、「主権回復の日」式典への出席を求める安倍政権の事前説明に対し「当時、沖縄の主権はまだ回復されていません」と指摘した、という話に疑いはない。
  また、昨年は「生前退位」をめぐる話題に注目が集まったが、この生前退位問題にしても、天皇はただ自らの高齢化だけを理由にしたのではなく、例のビデオメッセージを「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました」と結んだことからもわかるように、今上天皇はこうした“象徴天皇の在り方”を、皇太子に継承したいと考えている。
  そのなかに“沖縄と沖縄の人々を忘れてはならない”という気持ちがあることも、やはり間違いないだろう。再び03年の誕生日会見から引用する。
  「沖縄は離島であり、島民の生活にも、殊に現在の経済状況は厳しいものがあると聞いていますが、これから先、復帰を願ったことが、沖縄の人々にとって良かったと思えるような県になっていくよう、日本人全体が心を尽くすことを、切に願っています」
  しかし、周知のように、安倍首相は天皇のこうした沖縄への思いなど一顧だにすることなく、「主権回復の日」式典を強行し、天皇、皇后を無理やり出席させた
  そして、安倍政権による“沖縄いじめ”は年々熾烈さを増し、それに抗する言葉を発する機会を天皇からどんどん奪っている。
「保守」を自認する安倍晋三だが、やっていることはもはや「逆賊」としか言いようがない。天皇はこのまま沈黙をしいられ続けるのだろうか。(編集部)

161231 83万PV超:佐藤優「沖縄を差別する者どもは呪われよ」:室井佑月「愛国者ってどういう人?」

2017年01月01日 15時37分48秒 | 閲覧数 記録
12月31日(土):  記録ですm(_ _)m。ブログの開設から1911日。  

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週刊朝日室井佑月「愛国者ってどういう人?」 2017年1月6‐13日号
        http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161229-00000040-sasahi-soci
 作家・室井佑月氏は、米軍の輸送機オスプレイが“不時着”し大破した事故を論じるマスコミについて、持論を展開する。
*  *  * 
  12月13日の夜、米軍のオスプレイが沖縄県名護市沖に墜落した。15日付の毎日新聞によると、
  <沖縄県の安慶田(あげた)光男副知事は14日、在沖縄米軍トップのローレンス・ニコルソン沖縄地域調整官に直接抗議した。安慶田副知事によると、ニコルソン氏は「パイロットは住宅や住民に被害を与えなかった。感謝されるべきだ」などと述べ、抗議に不満を示したという。
  安慶田副知事はニコルソン氏に、オスプレイの飛行中止と配備撤回を求める抗議文を手渡した。これに対し、ニコルソン氏は「政治問題にするのか」と言い、怒りが収まらない様子だったという>
  普段、あたしの発言に「売国」だとかなんだとか執拗にいちゃもんをつけている「自称愛国者」の人たちは、こういうことをどう思うんだろう。こういうときこそ、文句やクレームをつけるべきなんじゃないの?
  てか、そういう人たちを相手にして、視聴率やヒット回数を伸ばしているメディアの人たちは、もうそろそろ恥ずかしいと思ったほうがいい。
  たぶん、メディアの人たちのほうが悪なのよ。完全にすっとぼけだもん。
  その発言があった翌日の15日、テレビの時事ネタは、ずーっとロシアのプーチン大統領について。
  プーチンさんが2時間半遅刻し、まだまだ来ないとわかってもなお、朝から山口の旅館前を実況中継。繰り返し、繰り返し。
  それって意味があるのかしら? 在沖縄米軍トップのニコルソンさんの暴言を取り上げ、オスプレイの危険性や、沖縄に基地を押し付ける意味、理不尽な日米地位協定などについての特集を組めばいいのに。
  ちゅうか、とことん腐っているのな。15日の沖縄タイムスに、「事故は『墜落』か『不時着』か 米軍は機体大破でも『墜落』使わず」という記事が載っていた。
  米軍が使っちゃダメと言ったからかね? 大手新聞もテレビのニュースもみんな「不時着」という言葉に統一されていた。
  機体が大破していても、不時着。事故を大したことにしたくないからだろう。
  これから佐賀県でも千葉県の木更津でもオスプレイは飛ぶことになる。人々の考えるきっかけを奪おうとするメディアは、もうメディアの体をなしていない。
  カジノ法案についてもきちんと報道している? なぜ、この国の刑法は賭博を禁止しているのか?
  12月2日、国会の中で質問されて、法務省の人がはっきり答えていた。
 「勤労の美風を害するばかりでなく、副次的な犯罪を誘発し、さらに国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらある」
  わかりやすい。ワイドショーなど、ボードでも取り上げやすいと思うが。
  ま、政府が右と言うことを左と言うわけにはいかないのね、きっと。
  あたしは政府が間違ったことをしていたら、間違ってると言えるのが愛国者だと思うけど。

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)