12月27日(木):今日の分153ページ 2:30
総計407ページ 所要時間5:50 評価5(面白かった!本の博物館だ!)蔵書
半歩前で知の巨人が、「これは良いですよ。あれも良いですよ。」と導かれていく気分であり、立ち止りたいが、そういう訳にもいかず歩きつづけている感じである。とにかく、次々と繰り出されてくる話題が、A級・特A級の内容ばかりで舌を巻いた。抑え気味にページの端を折るが、2~3ページおきに犬耳することになり、単行本の上部がかさ張って厚くなってしまった。
すぐに情報が古臭くなってしまう世知辛い現代にあって、「やっぱり高い値段を出して買われた本の情報というのは、簡単には古くならないし、色褪せないんだな」と再認識させられた。本書で取り上げられる本の多くが外国の文献の貴重な翻訳書であるのも頷ける。
魅力あふれる多くの本が紹介される中に、自分が死蔵している本の名前を見つけると、「やった!」という気分になる。例えば、「吉田満『戦艦大和の最後』を再読した。学生時代に読んで衝撃を受けた本である。その内容もすごいが、文章もすごい。吉田はこれを、終戦直後ほとんど一日で書いたという。略。この簡潔で濃密な文章は、近代日本語散文の傑作中の傑作である。文語体の格調の高さ、内容の悲劇性、ほとんど昭和の平家物語といっていいくらいだ。」(292ページ)どうだろう、尊敬する著者がここまで書いてくれれば、モチベーションMAXであろう!当時、世界三大無用の長物として、ピラミッド、万里の長城、戦艦大和と乗組員らが自嘲したそうだ。
遺伝子組み換え食品を恐れる空騒ぎを、「遺伝子組換えで何が起こるかといえば、略、体内に入っても、他のタン白質と同じく消化酵素で分解されるだけなのだ。略。私は、あの騒いでいる連中は、明治維新のとき廃刀令に反対してチョンマゲに日本刀をひっさげ、電信柱の電線を切って歩いた熊本神風連なみの連中だと思っている。」(307ページ)まさに快刀乱麻を断つである。
ハンナ・アーレントとハイデガーの不倫を暴き、ワーグナーの下品な実像に触れ、ナチズムの思想的核をなすと誤解されているニーチェについて「実際のニーチェは、反対の極にいた」と指摘して、彼の「ドイツでこんにち私の著書を読むのは、私自身と同様に、底の底まで予め自分を非ドイツ人化した人である。つまり、<良きドイツ人であるとは、ドイツ人であることをやめる>化、もしくは―ドイツ人のあいだでは少なからぬ差別意識があるのだが―ユダヤの出自であるというのが、私の公式である。―ただドイツ人たちに比べれば、ユダヤ人はいずれの場合にもより高いレベルの人種であり―繊細で、知的で、愛すべき人種だ…」という草稿を紹介して見せてくれる。(325ページ)
明治の横山源之助を柳田国男、柳宗悦と並び称す。その上で、紀田順一郎「東京の下層社会」を推奨する。(363~4ページ)
最後の章では、辰巳 渚『「捨てる!」技術』に対して強烈な批判を展開し、「この著者が新しい美徳として説く行動は、消費社会の生活習慣病がもたらした、異常行動でしかない。略、この本は一種の強迫神経症にかかった人が書いた本だ。略、この本の中核をなす、捨てるテクニックと称するくどすぎるメモも、神経症の患者がよく書くパラノイア的メモと読めるだろう。」
「ストックをためるということは、未来に現実化可能なポテンシャルを高めるということである。ストックを捨てるということは、ポテンシャルを捨てることであり、未来の可能性をそれだけ捨てることである。」
「人間存在というのは、裸一貫肉体だけの存在としてあるのではない。頭の中の意識世界全部を含めて「その人自身」として存在している。そして意識世界の相当部分はポテンシャルとしてある。略、その大きさは人によってちがうが、何千倍も何万倍も大きいだろう。略。「捨てる技術」を安易に行使して、モノをどんどん捨てていくことは、そのようなポテンシャルを切り捨てるということなのだ。自己を切り落とすということなのだ。」
「個体だけではない。社会も無駄な部分をいっぱいかかえたポテンシャルの高い社会のほうがよりよく生きることができるのである。個人の生だって同じことだ。略。だが、日本社会の現状を考えるとどうか。略、教育界では教育内容の削減という名の「捨てる技術」がまかり通っている。それによって教育崩壊というポテンシャルの一大レベルダウンが起きている。」
ここまでくると、ポピュリズム政治家橋下徹大阪市長による文楽補助金カット政策や、今日ニュースで観た大阪市所有の帆船<あこがれ>の売却が、いかにナンセンスかも自然に見えてくるのだ。
※日本未来の党の分党騒ぎは、残念だけど、選挙に負けたのだから仕方ない。それでも総選挙で<脱原発の選択肢>を作ってくれたと思えば、もって瞑すべしである。朝日新聞12月22日朝刊オピニオン欄で小熊英二さんが「脱原発は民意 反映されない選挙 正当性また下がる」と考察しているように、むしろ日本の政治的状況こそ嘆くべきだろう。自民党を批判しても仕方ない。彼らは、ただ単に彼らの道を歩いているだけだ。それを選挙という制度で止められない国民、野党のあり様をもう一度問い直すしかない。残り時間は、もうあまり無いだろう…。
総計407ページ 所要時間5:50 評価5(面白かった!本の博物館だ!)蔵書
半歩前で知の巨人が、「これは良いですよ。あれも良いですよ。」と導かれていく気分であり、立ち止りたいが、そういう訳にもいかず歩きつづけている感じである。とにかく、次々と繰り出されてくる話題が、A級・特A級の内容ばかりで舌を巻いた。抑え気味にページの端を折るが、2~3ページおきに犬耳することになり、単行本の上部がかさ張って厚くなってしまった。
すぐに情報が古臭くなってしまう世知辛い現代にあって、「やっぱり高い値段を出して買われた本の情報というのは、簡単には古くならないし、色褪せないんだな」と再認識させられた。本書で取り上げられる本の多くが外国の文献の貴重な翻訳書であるのも頷ける。
魅力あふれる多くの本が紹介される中に、自分が死蔵している本の名前を見つけると、「やった!」という気分になる。例えば、「吉田満『戦艦大和の最後』を再読した。学生時代に読んで衝撃を受けた本である。その内容もすごいが、文章もすごい。吉田はこれを、終戦直後ほとんど一日で書いたという。略。この簡潔で濃密な文章は、近代日本語散文の傑作中の傑作である。文語体の格調の高さ、内容の悲劇性、ほとんど昭和の平家物語といっていいくらいだ。」(292ページ)どうだろう、尊敬する著者がここまで書いてくれれば、モチベーションMAXであろう!当時、世界三大無用の長物として、ピラミッド、万里の長城、戦艦大和と乗組員らが自嘲したそうだ。
遺伝子組み換え食品を恐れる空騒ぎを、「遺伝子組換えで何が起こるかといえば、略、体内に入っても、他のタン白質と同じく消化酵素で分解されるだけなのだ。略。私は、あの騒いでいる連中は、明治維新のとき廃刀令に反対してチョンマゲに日本刀をひっさげ、電信柱の電線を切って歩いた熊本神風連なみの連中だと思っている。」(307ページ)まさに快刀乱麻を断つである。
ハンナ・アーレントとハイデガーの不倫を暴き、ワーグナーの下品な実像に触れ、ナチズムの思想的核をなすと誤解されているニーチェについて「実際のニーチェは、反対の極にいた」と指摘して、彼の「ドイツでこんにち私の著書を読むのは、私自身と同様に、底の底まで予め自分を非ドイツ人化した人である。つまり、<良きドイツ人であるとは、ドイツ人であることをやめる>化、もしくは―ドイツ人のあいだでは少なからぬ差別意識があるのだが―ユダヤの出自であるというのが、私の公式である。―ただドイツ人たちに比べれば、ユダヤ人はいずれの場合にもより高いレベルの人種であり―繊細で、知的で、愛すべき人種だ…」という草稿を紹介して見せてくれる。(325ページ)
明治の横山源之助を柳田国男、柳宗悦と並び称す。その上で、紀田順一郎「東京の下層社会」を推奨する。(363~4ページ)
最後の章では、辰巳 渚『「捨てる!」技術』に対して強烈な批判を展開し、「この著者が新しい美徳として説く行動は、消費社会の生活習慣病がもたらした、異常行動でしかない。略、この本は一種の強迫神経症にかかった人が書いた本だ。略、この本の中核をなす、捨てるテクニックと称するくどすぎるメモも、神経症の患者がよく書くパラノイア的メモと読めるだろう。」
「ストックをためるということは、未来に現実化可能なポテンシャルを高めるということである。ストックを捨てるということは、ポテンシャルを捨てることであり、未来の可能性をそれだけ捨てることである。」
「人間存在というのは、裸一貫肉体だけの存在としてあるのではない。頭の中の意識世界全部を含めて「その人自身」として存在している。そして意識世界の相当部分はポテンシャルとしてある。略、その大きさは人によってちがうが、何千倍も何万倍も大きいだろう。略。「捨てる技術」を安易に行使して、モノをどんどん捨てていくことは、そのようなポテンシャルを切り捨てるということなのだ。自己を切り落とすということなのだ。」
「個体だけではない。社会も無駄な部分をいっぱいかかえたポテンシャルの高い社会のほうがよりよく生きることができるのである。個人の生だって同じことだ。略。だが、日本社会の現状を考えるとどうか。略、教育界では教育内容の削減という名の「捨てる技術」がまかり通っている。それによって教育崩壊というポテンシャルの一大レベルダウンが起きている。」
ここまでくると、ポピュリズム政治家橋下徹大阪市長による文楽補助金カット政策や、今日ニュースで観た大阪市所有の帆船<あこがれ>の売却が、いかにナンセンスかも自然に見えてくるのだ。
※日本未来の党の分党騒ぎは、残念だけど、選挙に負けたのだから仕方ない。それでも総選挙で<脱原発の選択肢>を作ってくれたと思えば、もって瞑すべしである。朝日新聞12月22日朝刊オピニオン欄で小熊英二さんが「脱原発は民意 反映されない選挙 正当性また下がる」と考察しているように、むしろ日本の政治的状況こそ嘆くべきだろう。自民党を批判しても仕方ない。彼らは、ただ単に彼らの道を歩いているだけだ。それを選挙という制度で止められない国民、野党のあり様をもう一度問い直すしかない。残り時間は、もうあまり無いだろう…。