8月9日(木):
琉球新報:<社説>翁長知事が死去 命懸けで職務を全うした 2018年8月9日 06:01
膵臓(すいぞう)がんの治療を続けていた翁長雄志知事が8日、死去した。67歳だった。4月に手術を受けたが、がん細胞が肝臓に転移していたという。心から冥福をお祈りしたい。
翁長氏は、名護市辺野古沿岸の新基地建設阻止を公約に掲げ、2014年の知事選で36万票余りを獲得し初当選した。復帰後7代目の知事だ。
就任直後から基地建設を強行する政府と全面的に対立してきた。さまざまな心労、疲労が積み重なったのだろう。
前知事による辺野古埋め立て承認の撤回を、7月27日に表明したばかりだった。がんの苦痛を押して記者会見に臨んだと思われる。文字通り、命懸けで政治家の職務を全うした。
もとより、沖縄県の知事は他県とは比較にならないほど厳しい重圧にさらされる。国土の0・6%にすぎない県土に全国の米軍専用施設面積の70%が集中し、凶悪事件や米軍機の墜落といった重大事故が繰り返されてきたからだ。
歴代の沖縄県知事はことごとく、過重な基地負担という深刻な課題に向き合い、苦悩してきた。その重みは健康をむしばむほど過酷だ。
屋良朝苗氏から革新県政を引き継いだ第2代知事の平良幸市氏は山積する政治課題の処理に追われる中、1978年7月、東京に公務出張中、脳血栓で倒れた。入院を経て同年10月に辞任している。
第3代の西銘順治氏も84年に都内の病院で胃がんの手術を受けた。当時は胃潰瘍と胆のう炎と発表され、本人にもがんであることは知らされていなかったという。
第4代の大田昌秀氏は92年の2月定例県議会開会中に風邪やめまいの症状が出るなど体調を崩して入院した。51日後に公務復帰している。
第5代の稲嶺恵一氏は入院こそしなかったが、基地問題のことが常に頭を離れず、日々大きな精神的重圧にさらされていたと語っている。
第6代の仲井真弘多氏も、07年6月23日の沖縄全戦没者追悼式に出席した直後に、軽い脳梗塞のため緊急入院している。
翁長氏は機会あるごとに「辺野古に新基地は造らせない」と言い続けた。志半ばで病に倒れ、さぞかし無念だったことだろう。
知事職務代理者は、謝花喜一郎副知事に続いて、富川盛武副知事が務める。9日には辺野古沿岸部の埋め立て承認の撤回に関し、沖縄防衛局側の言い分を聞く「聴聞」が控えている。まずは、基地問題への対応を含め、県政運営に混乱を来さないよう万全の態勢を取ってほしい。
現職知事の死去に伴う知事選挙は50日以内に行われる。既に自民党など野党が推す宜野湾市長・佐喜真淳氏らが出馬を表明している。今後、与党側の後継候補人選が本格化する。どのような対決構図になるにせよ、基地問題に真正面から向き合い選挙戦を展開してもらいたい。
沖縄タイムス:社説[翁長雄志知事急逝]命を削り公約守り抜く 2018年8月9日 06:21
翁長雄志知事が8日夕、膵臓(すいぞう)がんのため、入院中の浦添市内の病院で急逝した。67歳だった。
そのわずか1時間半ほど前、謝花喜一郎副知事が県庁で記者会見し、知事の職務代理を置くことを発表したばかりだった。
あまりにも突然の訃報というしかない。
翁長知事は4月に膵臓の腫瘍の摘出手術を受け、ステージ2の膵臓がんだったことを公表していた。5月に退院した後は、抗がん剤治療を受けながら県議会や慰霊の日の式典など公務をこなしてきた。
しかし新基地建設を巡り埋め立て承認撤回を表明した7月27日の会見以降、公の場には姿を見せていなかった。がんは肝臓にも転移し、7月30日に再入院していたという。
糸満市摩文仁で開かれた慰霊の日の沖縄全戦没者追悼式で、知事は直前までかぶっていた帽子を脱ぎ、安倍晋三首相を前にして、声を振り絞って平和宣言を読み上げた。
「新基地を造らせないという私の決意は県民とともにあり、これからもみじんも揺らぐことはありません」
翁長知事は在任中の4年間、安倍政権にいじめ抜かれたが、この姿勢が揺らぐことはなかった。安易な妥協を拒否し、理不尽な基地政策にあらがい続ける姿勢は、国際的にも大きな反響をよんだ。
知事は文字通り命を削るように、辺野古反対を貫き、沖縄の自治と民主主義を守るために政府と対峙(たいじ)し続けたのである。
その功績は末永く後世まで語り継がれるに違いない。心から哀悼の意を表したい。
■ ■
翁長知事は政治家一家で育った。
旧真和志村長だった父助静さんは、軍用地の一括払いなどを巡る「島ぐるみ闘争」の超党派代表団に選ばれ、沖縄の声を全国に伝えた。
元副知事の兄助裕さんは、1994年の知事選に立候補し「保革を超え、県民の心を一つにした県政を」と訴えた。
翁長知事は父親や兄から保守中道の姿勢を受け継ぎ、県民が心を一つにして基地問題に取り組むことが必要だと説き続けた。
仲井真弘多前知事が2010年11月、再選を期して立候補した時、辺野古反対を公約に掲げるよう仲井真氏に直談判したのは翁長知事である。
4年前の知事選では翁長氏が仲井真氏に10万票近い大差をつけて当選、保革を超えた新しい政治潮流の台頭に全国から多くの期待が寄せられた。
■ ■
公選法により後継を選ぶ知事選は、県選挙管理委員会に死亡を通知後、50日以内に実施される。9月中となる見込みだ。
県政奪還を狙う自民党県連などでつくる候補者選考委員会は既に宜野湾市の佐喜真淳市長の擁立を決めている。
県政与党や知事を支える県選出国会議員、オール沖縄の代表は、一日も早く今後の対応を協議し、志半ばに倒れた翁長知事の遺志を受け継ぐ後継候補を決めなければならない。
県内政治の流動化が一気に加速しそうだ。
琉球新報:<社説>翁長知事が死去 命懸けで職務を全うした 2018年8月9日 06:01
膵臓(すいぞう)がんの治療を続けていた翁長雄志知事が8日、死去した。67歳だった。4月に手術を受けたが、がん細胞が肝臓に転移していたという。心から冥福をお祈りしたい。
翁長氏は、名護市辺野古沿岸の新基地建設阻止を公約に掲げ、2014年の知事選で36万票余りを獲得し初当選した。復帰後7代目の知事だ。
就任直後から基地建設を強行する政府と全面的に対立してきた。さまざまな心労、疲労が積み重なったのだろう。
前知事による辺野古埋め立て承認の撤回を、7月27日に表明したばかりだった。がんの苦痛を押して記者会見に臨んだと思われる。文字通り、命懸けで政治家の職務を全うした。
もとより、沖縄県の知事は他県とは比較にならないほど厳しい重圧にさらされる。国土の0・6%にすぎない県土に全国の米軍専用施設面積の70%が集中し、凶悪事件や米軍機の墜落といった重大事故が繰り返されてきたからだ。
歴代の沖縄県知事はことごとく、過重な基地負担という深刻な課題に向き合い、苦悩してきた。その重みは健康をむしばむほど過酷だ。
屋良朝苗氏から革新県政を引き継いだ第2代知事の平良幸市氏は山積する政治課題の処理に追われる中、1978年7月、東京に公務出張中、脳血栓で倒れた。入院を経て同年10月に辞任している。
第3代の西銘順治氏も84年に都内の病院で胃がんの手術を受けた。当時は胃潰瘍と胆のう炎と発表され、本人にもがんであることは知らされていなかったという。
第4代の大田昌秀氏は92年の2月定例県議会開会中に風邪やめまいの症状が出るなど体調を崩して入院した。51日後に公務復帰している。
第5代の稲嶺恵一氏は入院こそしなかったが、基地問題のことが常に頭を離れず、日々大きな精神的重圧にさらされていたと語っている。
第6代の仲井真弘多氏も、07年6月23日の沖縄全戦没者追悼式に出席した直後に、軽い脳梗塞のため緊急入院している。
翁長氏は機会あるごとに「辺野古に新基地は造らせない」と言い続けた。志半ばで病に倒れ、さぞかし無念だったことだろう。
知事職務代理者は、謝花喜一郎副知事に続いて、富川盛武副知事が務める。9日には辺野古沿岸部の埋め立て承認の撤回に関し、沖縄防衛局側の言い分を聞く「聴聞」が控えている。まずは、基地問題への対応を含め、県政運営に混乱を来さないよう万全の態勢を取ってほしい。
現職知事の死去に伴う知事選挙は50日以内に行われる。既に自民党など野党が推す宜野湾市長・佐喜真淳氏らが出馬を表明している。今後、与党側の後継候補人選が本格化する。どのような対決構図になるにせよ、基地問題に真正面から向き合い選挙戦を展開してもらいたい。
沖縄タイムス:社説[翁長雄志知事急逝]命を削り公約守り抜く 2018年8月9日 06:21
翁長雄志知事が8日夕、膵臓(すいぞう)がんのため、入院中の浦添市内の病院で急逝した。67歳だった。
そのわずか1時間半ほど前、謝花喜一郎副知事が県庁で記者会見し、知事の職務代理を置くことを発表したばかりだった。
あまりにも突然の訃報というしかない。
翁長知事は4月に膵臓の腫瘍の摘出手術を受け、ステージ2の膵臓がんだったことを公表していた。5月に退院した後は、抗がん剤治療を受けながら県議会や慰霊の日の式典など公務をこなしてきた。
しかし新基地建設を巡り埋め立て承認撤回を表明した7月27日の会見以降、公の場には姿を見せていなかった。がんは肝臓にも転移し、7月30日に再入院していたという。
糸満市摩文仁で開かれた慰霊の日の沖縄全戦没者追悼式で、知事は直前までかぶっていた帽子を脱ぎ、安倍晋三首相を前にして、声を振り絞って平和宣言を読み上げた。
「新基地を造らせないという私の決意は県民とともにあり、これからもみじんも揺らぐことはありません」
翁長知事は在任中の4年間、安倍政権にいじめ抜かれたが、この姿勢が揺らぐことはなかった。安易な妥協を拒否し、理不尽な基地政策にあらがい続ける姿勢は、国際的にも大きな反響をよんだ。
知事は文字通り命を削るように、辺野古反対を貫き、沖縄の自治と民主主義を守るために政府と対峙(たいじ)し続けたのである。
その功績は末永く後世まで語り継がれるに違いない。心から哀悼の意を表したい。
■ ■
翁長知事は政治家一家で育った。
旧真和志村長だった父助静さんは、軍用地の一括払いなどを巡る「島ぐるみ闘争」の超党派代表団に選ばれ、沖縄の声を全国に伝えた。
元副知事の兄助裕さんは、1994年の知事選に立候補し「保革を超え、県民の心を一つにした県政を」と訴えた。
翁長知事は父親や兄から保守中道の姿勢を受け継ぎ、県民が心を一つにして基地問題に取り組むことが必要だと説き続けた。
仲井真弘多前知事が2010年11月、再選を期して立候補した時、辺野古反対を公約に掲げるよう仲井真氏に直談判したのは翁長知事である。
4年前の知事選では翁長氏が仲井真氏に10万票近い大差をつけて当選、保革を超えた新しい政治潮流の台頭に全国から多くの期待が寄せられた。
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公選法により後継を選ぶ知事選は、県選挙管理委員会に死亡を通知後、50日以内に実施される。9月中となる見込みだ。
県政奪還を狙う自民党県連などでつくる候補者選考委員会は既に宜野湾市の佐喜真淳市長の擁立を決めている。
県政与党や知事を支える県選出国会議員、オール沖縄の代表は、一日も早く今後の対応を協議し、志半ばに倒れた翁長知事の遺志を受け継ぐ後継候補を決めなければならない。
県内政治の流動化が一気に加速しそうだ。