6月28日(金):
朝日デジタル:(多事奏論)「私たちの」憲法です 「うちの」国じゃないのでね 高橋純子
《「お宅とうちの国とは 国民の民度のレベルが違うんだ」 と言って、 みんな絶句して黙る》
これは、終生偏屈を通した男が残した、人間の愚かさをうつした詩の一節である。冒頭の夜郎自大すぎるカギカッコから「黙る」に至る、騒から静への見事な展開とそのスピード。「咳(せき)をしても一人」(尾崎放哉)に通じる、肌に痛いほどの静寂と孤立が浮かび上がる。しかも「黙る」は複層的で、皆はあきれて言葉を継げずに黙っている、他方、当人は「黙らせてやった」ぐらいに思っている。滑稽である。みじめである。それでも、このどうしようもない「ズレ」こそが、生きるということの本質なのだ――なんて、適当なことを並べて戯れている外は雨。マスクしても一人。
もちろん詩であるはずがない。現役の副総理、7年半も副総理、失政失言暴言を重ねようとも副総理な御仁の、したり顔を伴った国会答弁である。
*
他国を見下し、自国の優越を誇るような「民度」という言葉遣いに批判が集まったのは当然のことだが、私はその手前、「うちの国」で早々に蹴つまずいてしまった。
うちの家族。うちのクラス。うちの会社。「うちの」でくくれるのはせいぜいその程度ではないのか。国とくっつくと、よからぬ気配が漂い出すのはなぜだろう……と思いをめぐらせるうち、「うちの」が幅を利かせているジャンルがあり、一つは任侠(にんきょう)映画であることに気づく。うちの組。うちのシマ。うちの親分。うちの若えの。
ああ、これだ。わが違和感の正体は。
構成員の結束、一体感が無意識のうちにも前提とされる「うちの」の世界。国家を家族になぞらえ、家族的情緒でもって個人を抑圧した戦前戦中の時代の尻尾が「うちの国」の陰からちらりとのぞく。考えすぎ? ではためしに、「私たちの」と言い換えてみてほしい。ニュアンスの微妙な違いに気づいてもらえるはずだ。
新憲法のもと、国家のための個人ではなく、個人のための国家として再出発した戦後日本。ゆえにことに為政者に、「うちの国」なんて軽く言わせてはいけない、いけないついでにもうひとつ、「民度」発言をとがめられても副総理は「(自粛)要請しただけで国民が賛同して、みんなで頑張った。国民として極めて、クオリティーとしては高いんじゃないか」と言い張った。
へっ。私は私自身の判断で「頑張った」。感謝されるならともかく、「クオリティー(質)」なんて言葉で頭をなでて頂かなくて結構。手、どけてもらえます? 私はお宅の飼い犬、「うちの犬」ではないのでね。
*
「ポストコロナの新しい日本の建設に着手すべきは今、今やるしかない」
キタキタ、この感じ。18日の首相会見、いくぜ!やるぜ!と国会を閉じた後にエンジンを空吹かし、その爆音で引責を求める声をかき消そうとする「安倍話法」は全開バリバリ、話は憲法改正へと継がれる。
「各党、各会派のご意見をうかがいながら(自民党改憲案を)進化させていきたい」
そして翌日、自民党は憲法改正を解説する4コマ漫画を公開。第1話で、ダーウィンの進化論では「唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者」といわれているとし、「これからの日本をより発展させるために いま憲法改正が必要」と訴えた。
すでに「誤用だ」という批判が研究者らから出ているが、歴史をさかのぼれば、進化論が悪用され、優生思想などを支えたことは広く知られている。差別や社会の分断が大変に憂慮されるコロナ禍のただなかで、こんな荒っぽい主張を平然とはじめてしまう自民党の「進化」、日本の夏。
顔を洗って出直してもらえます? 憲法はお宅らのおもちゃ、「うちの憲法」ではないのでね。「私たちの憲法」ですから。 (編集委員)
朝日デジタル:(多事奏論)「私たちの」憲法です 「うちの」国じゃないのでね 高橋純子
2020年6月24日 5時00分
《「お宅とうちの国とは 国民の民度のレベルが違うんだ」 と言って、 みんな絶句して黙る》
これは、終生偏屈を通した男が残した、人間の愚かさをうつした詩の一節である。冒頭の夜郎自大すぎるカギカッコから「黙る」に至る、騒から静への見事な展開とそのスピード。「咳(せき)をしても一人」(尾崎放哉)に通じる、肌に痛いほどの静寂と孤立が浮かび上がる。しかも「黙る」は複層的で、皆はあきれて言葉を継げずに黙っている、他方、当人は「黙らせてやった」ぐらいに思っている。滑稽である。みじめである。それでも、このどうしようもない「ズレ」こそが、生きるということの本質なのだ――なんて、適当なことを並べて戯れている外は雨。マスクしても一人。
もちろん詩であるはずがない。現役の副総理、7年半も副総理、失政失言暴言を重ねようとも副総理な御仁の、したり顔を伴った国会答弁である。
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他国を見下し、自国の優越を誇るような「民度」という言葉遣いに批判が集まったのは当然のことだが、私はその手前、「うちの国」で早々に蹴つまずいてしまった。
うちの家族。うちのクラス。うちの会社。「うちの」でくくれるのはせいぜいその程度ではないのか。国とくっつくと、よからぬ気配が漂い出すのはなぜだろう……と思いをめぐらせるうち、「うちの」が幅を利かせているジャンルがあり、一つは任侠(にんきょう)映画であることに気づく。うちの組。うちのシマ。うちの親分。うちの若えの。
ああ、これだ。わが違和感の正体は。
構成員の結束、一体感が無意識のうちにも前提とされる「うちの」の世界。国家を家族になぞらえ、家族的情緒でもって個人を抑圧した戦前戦中の時代の尻尾が「うちの国」の陰からちらりとのぞく。考えすぎ? ではためしに、「私たちの」と言い換えてみてほしい。ニュアンスの微妙な違いに気づいてもらえるはずだ。
新憲法のもと、国家のための個人ではなく、個人のための国家として再出発した戦後日本。ゆえにことに為政者に、「うちの国」なんて軽く言わせてはいけない、いけないついでにもうひとつ、「民度」発言をとがめられても副総理は「(自粛)要請しただけで国民が賛同して、みんなで頑張った。国民として極めて、クオリティーとしては高いんじゃないか」と言い張った。
へっ。私は私自身の判断で「頑張った」。感謝されるならともかく、「クオリティー(質)」なんて言葉で頭をなでて頂かなくて結構。手、どけてもらえます? 私はお宅の飼い犬、「うちの犬」ではないのでね。
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「ポストコロナの新しい日本の建設に着手すべきは今、今やるしかない」
キタキタ、この感じ。18日の首相会見、いくぜ!やるぜ!と国会を閉じた後にエンジンを空吹かし、その爆音で引責を求める声をかき消そうとする「安倍話法」は全開バリバリ、話は憲法改正へと継がれる。
「各党、各会派のご意見をうかがいながら(自民党改憲案を)進化させていきたい」
そして翌日、自民党は憲法改正を解説する4コマ漫画を公開。第1話で、ダーウィンの進化論では「唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者」といわれているとし、「これからの日本をより発展させるために いま憲法改正が必要」と訴えた。
すでに「誤用だ」という批判が研究者らから出ているが、歴史をさかのぼれば、進化論が悪用され、優生思想などを支えたことは広く知られている。差別や社会の分断が大変に憂慮されるコロナ禍のただなかで、こんな荒っぽい主張を平然とはじめてしまう自民党の「進化」、日本の夏。
顔を洗って出直してもらえます? 憲法はお宅らのおもちゃ、「うちの憲法」ではないのでね。「私たちの憲法」ですから。 (編集委員)