もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

78冊目 玄有宗及「禅的生活」(ちくま新書;2003)  評価4

2011年11月22日 05時02分38秒 | 一日一冊読書開始
11月21日(月):

237ページ   所要時間5:00

47歳の禅僧の著者が冒頭いきなり「(生きにくい世の中で、)私に言えるのは、今の私が、なぜ生きるのが楽なのか、ということだけだ。もしかするとそれは年齢のせいかもしれないが、私としては「禅」のお陰だと思っている。略。今改めて考えると、自分の過去のすべてが、この本を書くためにあった。略。少しでも、一人でも多くの人に楽で元気になってほしいのである」と書かれていた。

そこまで言ってくれるなら、「是非救って頂きたい」と思った。しかし、流し読みできる本ではなかった。疲労から繰り返し襲ってくる眠気・睡魔と延々闘いながら、なんとか一応最後まで目を這わせた。

著者は、難しい禅の教えを、できるだけ解り易さを意識して書いてくれている気がする。内容的にも良書だろうと思う。ただ元々が一読でスッキリ解かる類いの本ではないのだ。今回は、この本との出会いの日ということで、「野狐禅」は困るが、今後折りに触れて開き、線を引いて、付き合っていこうと思う。

<禅語録>には、憧れ半分と、ご都合主義的な詭弁に思える部分への嫌悪半分だったが、著者が「禅は、世界の根源をカオス(渾沌)と見るタオイズム(道教)の嫡流にあたる」と言明していて、少し目からウロコが落ちた。本来の仏教での位置付けは気になるが、ちょうど老荘思想への興味も湧いてきていたので、しばらくこの本の禅語録及び解説とお付き合いをさせて頂こうと思った。

「拈華微笑」、「どうしても習慣によって頻繁にあける抽斗が決まってくる。略。愚痴の抽斗。略。怒りの抽斗。略。実際に現れる自己は理性でも感情でもなく、習慣によって動くのだし、思考も習慣どおりしている。禅はそう考える。」「一無位の真人」、「うすらぼんやり見る練習」、「犬にも仏性はあるか→趙州は有・無両方を答えた!」、「父母未生以前の本来の面目」、「隻手の音声」、「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)、「眼横鼻直」、『十牛図』、「仏に逢っては仏を殺す」、「因果一如→因果に落ちず、今を楽しむ」、「人間、到る処青山あり」、「百尺竿頭に一歩を進む」、「回向返照」、「風吹けども動ぜず天辺の月、雪圧せどもくだけ難しかん底の松」etc.とにかく無数に<禅語>なるものが溢れている。

※著者の『私だけの仏教』(講談社+α新書』は相当に読み込んで随分ためになっている。

※私は、NHK「こころの時間」の村上光照師のビデオ2本と、正眼僧堂(谷耕月師)の臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)を撮った「行」のビデオを持っている。これらは、私にとっては宝物である。気分が不安定な時にずいぶん助けられた。数え切れないほど見直してきた。
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