もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

5 007 中沢啓治「はだしのゲン わたしの遺書」(朝日学生新聞社:2012)感想特5 不動の座標軸

2015年09月08日 02時00分00秒 | 一日一冊読書開始
9月7日(月):
       恥を知れ!島根県!
222ページ   所要時間 3:25    図書館

著者73歳(1939~2012:73歳)。本書は著者死去の2012年12月19日の翌日12月20日初版発行。但し、急きょ発行された混乱の印象は全くない。覚悟して、すでに書き上げてあった著作をその日に発行した感じ。整理が行き届いている。

本書は「はだしのゲン」作者による自伝である。「はだしのゲン」のモデルは著者自身である。6歳で被爆しながら奇跡的に生き残った著者が目に焼き付けた光景は耐え難い死臭も含めて著者の生涯に忘れられない苦しみの記憶を刻み付けた。著者の原爆への怒り、日本の軍国主義に対する怒り、天皇の戦争責任への糾弾意識は、本書を通じて微動だにしない。爆心地の地獄にも勝る凄惨というも愚かな光景、その後の生後4か月の妹の死も含めて、それを見てしまった人間の不動の意識に貫かれてるのだ。

爆心地のすぐそばで被爆し、父・姉・弟・妹、多くの家族を失い、生き残った母・長兄・次兄・著者(6歳)で原爆症の恐怖と隣り合わせで精一杯生きてきた著者は、たまたま漫画家であった。1966年、著者27歳の時、60歳の母が亡くなり、骨拾いの時本来あるべき骨が無い。原爆の放射能は、戦後も母の体を蝕み続けていたのだ。これを契機に、原爆というテーマを努めて避けてきた著者の意識は180度変わる。「母の敵を討つ」覚悟で原爆をテーマに真正面から取り組み始める。「黒い雨に打たれて」を一週間で書き上げるが、出版社が見つからない。1968年、苦労して掲載してくれた雑誌はエロ成人誌だった。原爆のテーマは重いのだ。

その後も苦労を重ねるが、「サンデー」「マガジン」に比べ後発の「少年ジャンプ」編集長との縁ができ、1973年、34歳で「はだしのゲン」連載開始。1974年、オイル・ショックの影響もあり、休載。単行本発行も難航。1975年、汐文社より第一部全4巻発売、ベストセラー化。その後、『市民』→『文化評論』→『教育評論』と掲載紙を変えながら、1985年第二部の連載完結。「はだしのゲン」は、著者の怒りに裏付けられた不屈の意志の中で書き続けられた作品なのだ。

実写映画化、アニメ映画化、翻訳者の多くがボランティアで名乗り出られて世界中の多くの国向けの言語で出版が進められる。例えば、韓国語では金 松伊(キム・ソンイ)ソンセンニムは、韓国の出版社まで見つけてくれた!

青少年向けに書かれた本書では字数も少なめに書かれているが、一言一言の重みが圧倒的である。小学生で「はだしのゲン」に出会って以来、その原作者がこれほどの思い確信と怒りに裏打ちされて書いてきた作品であるというのを初めて知った。戦争を軽々しく口にするバカどもには、まず本書を読んでから出直して来いと言いたい。

本書の内容を紹介し始めれば、すべてを書き写さねばならない。まとまらないがここで筆を擱く。

【目次】 第1章 母の死/第2章 ピカドン/第3章 残酷/第4章 生きる/第5章 出会い/第6章 上京/第7章 『はだしのゲン』誕生/第8章 肺がん 

紹介文:原爆で父、姉、弟、妹を亡くし、母とともにゼロから再出発した中沢少年が、母の死をきっかけに、戦争責任と原爆の問題に向き合った。実体験をもとに『はだしのゲン』を生み出した漫画家の、不屈の人生。
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