もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

170826 西田幾多郎「善の研究」29ページに1:50掛かった。これ無理…。

2017年08月26日 14時58分37秒 | 日記
8月26日(土):    

am10:30ごろ目覚めてすぐ、気まぐれで、若い時に挫折した西田幾多郎(1870~1945:75歳)「善の研究」(1911)の岩波文庫(1977年、46刷;解題 下村寅太郎)を手にした。かなり劣化変色している。全四編213ページ。序文を読むと、第二編は余の哲学的思想を述べたもので骨子といふべきものであるとあった。ならば、「この第二編58ページだけでも読んで、一冊としてご縁を結べればいい」と考えて読み始めた。

「絶対矛盾的自己同一」という言葉や鈴木大拙との交流、禅の精神を導入することによって日本独自の哲学を建てた。京都東山の名所哲学の道はこの西田幾多郎が歩いた道だ。断片的「知識」はあるが、そんなものに何の意味もない。

鉛筆で線を入れながら丁寧に読んだ。意味が解らないわけではない。しかし、時間が湯水のように流れた。「まあこの人、人間の分かること、認識するということについてとっても疑い深い人なんだ。演繹論のデカルトや経験論のベーコンにまでダメ出ししてるんだ。」「本当に分かる、認識するってどういうことなんだ。でもここまでこだわってるとなあ…」よそ見しなければ何とか意味は取れる。でも、少し別の想念が浮かぶともう読めてない。思考を飛ばしてる。気が付けば、目次を入れて29ページ、第二編本文だけなら18ページしか進まずに1h50mを費やしていた。「ちょっとやめとこ…」と離れた。

ただ付け加えておくと、言い回しは難しいが、この人それほど無茶苦茶なことを言ってるわけでもないし、大したことを言ってる訳でもない。ごく常識的なことを自分の思考に従って自分の言葉で言おうとしている人だという印象だけは持った。

「善の研究」【ウィキペディア】西田哲学の最初期のもので、日本初の独創的な哲学体系。 当初は『純粋経験と実在』という題名のもとに構想されていたが、出版社の弘道館が反対したため、この名に改題された。 観念論と唯物論の対立などの哲学上の根本問題の解決を純粋経験に求め、主客合一などを説いて、知識・道徳・宗教の一切を基礎づけようとした。 イマヌエル・カントの『純粋理性批判』と並び、戦前の日本では学生の必読書とされた。
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