5月3日(金):
ずいぶん昔の話になってしまうが、大学の寮の部屋で「きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記」の文庫本を読みながら、一人鼻をすすり、落涙し続けていたことを思い出す。「二度と過ちは繰り返さない」と日本は誓ったはずなのに、弱肉強食、貧困格差是認の拝金主義に鼻面を引きまわされて、あれだけ測り知れない代償を払って手にした「日本国憲法」を毀損・放棄しようとしている。
新渡戸稲造の国際連盟での多大な尽力をどぶに捨てる国連脱退をして歓呼の声とともに日本を地獄に引きずり込んだポピュリスト松岡洋右の甥が岸信介である。その岸信介の孫で、弱者の痛みを理解できない世襲議員安倍晋三のアベノミクスというポピュリズムに踊らされて、我々は取り返しのつかない最大の財産を失い、<地獄への片道特急券>を買おうとしている。
憲法は国家権力の怠慢や暴走を縛るものである。国民・市民を縛るものでは断じてない。その基本すら踏まえない内容の憲法観しか持たない安倍晋三という愚者によって国の根幹が崩れていく。歴史上何度も見せられた最も大事なものが、その価値を理解できない愚者によって破壊されるという三文芝居がまた繰り返されようとしている。安倍晋三を見ていると、小賢しさで近衛文麿や松岡洋右を思い出してしまう。安倍の中国包囲網外交を見ていると、松岡洋右のスターリン、ヒトラーらを相手に結局失敗した、小賢しい四国同盟構想を思い出してしまう。
<反原発>も大事だが、その根幹を支える<平和>と<基本的人権>が危ない。今回の<憲法の危機>は、「戦後最大の危機」である。
yahooHP掲載の江川紹子さんの記事を転載する。
改憲バスに乗る前に
江川 紹子 | ジャーナリスト
2013年5月3日 0時9分
安倍首相は、念願の憲法改正に向けてテンションが高まっているらしい。外遊先でも、改憲を夏の参院選の争点にする意向を改めて示し、「まず国民投票法の宿題をやる。その後に96条から始めたい」と述べた。
サウジアラビアでスピーチする安倍首相(首相官邸HPより)
第96条は、憲法改正の手続きを定めた条文。改正の発議のために必要な「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」を「過半数以上の賛成」にして、改正を容易にしようというのが、今回の改正の狙い。ただ、「96条から」との発言からも明らかなように、これはほんのとば口に過ぎない。では、ゴールはどこにあるのか。
自民党は、昨年4月に「日本国憲法改正草案」を決定している。マスメディアでは、この問題となると、第9条を書き換えて軍隊である「国防軍」を設置することばかりがクローズアップされがち。確かに、それは重要なテーマではあるが、自民党が目指すゴールは、そういうレベルの(と敢えて言うが)ものではない。まさに「革命」に匹敵するほどの価値観の変容を、国民に迫るものとなっている。
「個人の尊重」が消えて…
まず注目すべきは、「個人の尊重」の消滅。
日本国憲法第13条は、まず最初にこう書かれている。
〈すべて国民は、個人として尊重される〉
一人ひとりの「個人」が等しい価値の存在として尊重される。一人ひとりが、自らの生存と自由を守り幸福を追求していく権利を有する。その権利もまた等しく尊重されなければならないーーこれは、憲法の土台であり出発点であり、憲法全体を貫く価値観と言えるだろう。
これによって、立法その他の国政は、個人の人権を最大限に尊重しなければならない。人権と人権がぶつかり合う場合などは、「公共の福祉」の観点から調整し一部の権利が制限されることはある。だが、それは「個人」より「国家」が優先される、という類の発想とは本質的に異なっている。
ところが、「草案」ではこうなっている。
〈全て国民は、人として尊重される〉
国民は、一人ひとりの違いを認め合う「個人」として扱われるのではなく、包括的な「人」というくくりの中に汲み入れられる。違いよりも「人グループ」としての同質性に重きが置かれる。しかも、その人権には、「公益及び公の秩序に反しない限り」という条件がついた。ここには、明らかに「人権」より「公益及び公の秩序」、「個人」より「国家」を優先する発想がある。
「公益」や「公の秩序」に反すると認定されれば、「個人」の言論や思想の自由も認められないことになる。ツイッターやフェイスブックなどが普及した今、表現の自由は、多くの人にとって、情報の受け手としての「知る権利」だけでなく、発信者としての「言論の自由」に関わってくる。
戦前の大日本国憲法は、表現の自由に「法律ノ範囲内ニ於テ」という条件をつけていた。この旧憲法下で、様々な言論が制約され、弾圧が行われた。曖昧な「公益」「公の秩序」は、国家の方針やその時の状況によって、いくらでも恣意的な規制や制約ができそうだ。
表現の自由に限らず、「個人」より「国家」を尊重する。「人権」は「公益及び公の秩序」の下に置かれる。これが、自民党「草案」の基本。日本国憲法と似た体裁をとっているが、まったく別物であり、その価値観は天と地ほども違うと言わなければならない。
憲法が国民を縛る
憲法の役割も、180度変えてしまおうとする。現行憲法は国民の権利を謳い、平和主義を宣言し、国の統治機構を定めた後、こう締めくくっている。
〈第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。〉
憲法が縛るものは…
天皇陛下が即位直後に、「日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす」と誓われたのは、この条文を意識されてのことだろう。
憲法は、この条文によって、政治家が法律を作ったり、公務員などがそれを執行する時に、憲法で定めた国民の権利を侵害するようなことがないよう、釘を刺しているのだ。つまり、憲法は、国民を縛るのではなく、政治家や公務員らの行動を縛るために存在していると、ここで念押している、といえる。
では、自民党「草案」はどうか。
これに当たる条文のまず最初に、こう書かれている。
〈全て国民は、この憲法を尊重しなければならない〉
憲法を「国民」の言動を律するものに変えよう、というのである。
ちなみに大日本国憲法は、「臣民」が「憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フ」としていた。自民党「草案」は、この点でも明治憲法に先祖返りしている。
戦争ができる国に
そして、平和主義と安全保障の問題。
「草案」によれば、「国防軍」の活動範囲は、自衛のための活動のみならず、相当に広い。一応、「武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」としているが、「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」ならOK。これによって、国連が武力行使容認決議を行っていない多国籍軍に参加し、戦闘行為、すなわち殺傷行為を行うことも可能となる。
また、「軍人」の職務実施に伴う罪や「国防軍」の機密に関する罪についての裁判は、「軍」内部に置いた「審判所」で裁く、とされる。いわゆる軍法会議の復活だろう。これについての問題点は、軍事ジャーナリスト田岡俊二さんの論稿に詳しい。
もう1つ見過ごされがちなのが、「草案」の第9章として新しく設けられた「緊急事態」。「我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律に定める緊急事態」が起きた時に、内閣総理大臣が「緊急事態の宣言」をすることができる、とする。
とってつけたように「自然災害」が加えられているが、東日本大震災のような大規模な(しかも、原発事故を伴う)災害が起きても、日本では「公の秩序」が破壊されるような暴動など起きていない。法律や災害時の対応策をきちんと整備しておけば、憲法でわざわざ「緊急事態」の規定を置く必要はない。また、そのような「内乱」や「武力革命」が起きることも、日本では想定し難い。
要するに、「緊急事態」は戦争を想定した規定なのだ。現行憲法に規定がないのは、戦争をしないのが前提だから。9条の改変に加え、「緊急事態」の規定を入れることで、日本は戦争ができる国へと変貌する。
ひとたび「宣言」が出ると、内閣は強大な権限を持つ。法律と同じ効力を持つ政令を発することができる。つまり、国会抜きで国民の権利を制限することが可能。この「宣言」が発せられると、「何人も…国その他公の機関の指示に従わなければならない」とある。
まさに、総動員態勢で国民が総力を挙げて戦争に協力する態勢を作るための基礎を固めるのが、この「緊急事態」の規定と言える。
バスに乗る前に必要なこと
第96条改正の問題を考える時には、その先に、このような国家観、憲法観、人権などについての価値観が広がっていることを、まずは知っておく必要があるだろう。それを知ったうえで、自分の意見をまとめたい。
マスコミも改憲ありきの雰囲気になっているし、よく分からないけど96条だけなら変えてもいいかも…という人がいるかもしれない。でもそれは、行き先も確かめずにバスに飛び乗るようなもの。
バスに乗る前に、切符を買う前に、行き先と停まる停留所は確かめよう。
ずいぶん昔の話になってしまうが、大学の寮の部屋で「きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記」の文庫本を読みながら、一人鼻をすすり、落涙し続けていたことを思い出す。「二度と過ちは繰り返さない」と日本は誓ったはずなのに、弱肉強食、貧困格差是認の拝金主義に鼻面を引きまわされて、あれだけ測り知れない代償を払って手にした「日本国憲法」を毀損・放棄しようとしている。
新渡戸稲造の国際連盟での多大な尽力をどぶに捨てる国連脱退をして歓呼の声とともに日本を地獄に引きずり込んだポピュリスト松岡洋右の甥が岸信介である。その岸信介の孫で、弱者の痛みを理解できない世襲議員安倍晋三のアベノミクスというポピュリズムに踊らされて、我々は取り返しのつかない最大の財産を失い、<地獄への片道特急券>を買おうとしている。
憲法は国家権力の怠慢や暴走を縛るものである。国民・市民を縛るものでは断じてない。その基本すら踏まえない内容の憲法観しか持たない安倍晋三という愚者によって国の根幹が崩れていく。歴史上何度も見せられた最も大事なものが、その価値を理解できない愚者によって破壊されるという三文芝居がまた繰り返されようとしている。安倍晋三を見ていると、小賢しさで近衛文麿や松岡洋右を思い出してしまう。安倍の中国包囲網外交を見ていると、松岡洋右のスターリン、ヒトラーらを相手に結局失敗した、小賢しい四国同盟構想を思い出してしまう。
<反原発>も大事だが、その根幹を支える<平和>と<基本的人権>が危ない。今回の<憲法の危機>は、「戦後最大の危機」である。
yahooHP掲載の江川紹子さんの記事を転載する。
改憲バスに乗る前に
江川 紹子 | ジャーナリスト
2013年5月3日 0時9分
安倍首相は、念願の憲法改正に向けてテンションが高まっているらしい。外遊先でも、改憲を夏の参院選の争点にする意向を改めて示し、「まず国民投票法の宿題をやる。その後に96条から始めたい」と述べた。
サウジアラビアでスピーチする安倍首相(首相官邸HPより)
第96条は、憲法改正の手続きを定めた条文。改正の発議のために必要な「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」を「過半数以上の賛成」にして、改正を容易にしようというのが、今回の改正の狙い。ただ、「96条から」との発言からも明らかなように、これはほんのとば口に過ぎない。では、ゴールはどこにあるのか。
自民党は、昨年4月に「日本国憲法改正草案」を決定している。マスメディアでは、この問題となると、第9条を書き換えて軍隊である「国防軍」を設置することばかりがクローズアップされがち。確かに、それは重要なテーマではあるが、自民党が目指すゴールは、そういうレベルの(と敢えて言うが)ものではない。まさに「革命」に匹敵するほどの価値観の変容を、国民に迫るものとなっている。
「個人の尊重」が消えて…
まず注目すべきは、「個人の尊重」の消滅。
日本国憲法第13条は、まず最初にこう書かれている。
〈すべて国民は、個人として尊重される〉
一人ひとりの「個人」が等しい価値の存在として尊重される。一人ひとりが、自らの生存と自由を守り幸福を追求していく権利を有する。その権利もまた等しく尊重されなければならないーーこれは、憲法の土台であり出発点であり、憲法全体を貫く価値観と言えるだろう。
これによって、立法その他の国政は、個人の人権を最大限に尊重しなければならない。人権と人権がぶつかり合う場合などは、「公共の福祉」の観点から調整し一部の権利が制限されることはある。だが、それは「個人」より「国家」が優先される、という類の発想とは本質的に異なっている。
ところが、「草案」ではこうなっている。
〈全て国民は、人として尊重される〉
国民は、一人ひとりの違いを認め合う「個人」として扱われるのではなく、包括的な「人」というくくりの中に汲み入れられる。違いよりも「人グループ」としての同質性に重きが置かれる。しかも、その人権には、「公益及び公の秩序に反しない限り」という条件がついた。ここには、明らかに「人権」より「公益及び公の秩序」、「個人」より「国家」を優先する発想がある。
「公益」や「公の秩序」に反すると認定されれば、「個人」の言論や思想の自由も認められないことになる。ツイッターやフェイスブックなどが普及した今、表現の自由は、多くの人にとって、情報の受け手としての「知る権利」だけでなく、発信者としての「言論の自由」に関わってくる。
戦前の大日本国憲法は、表現の自由に「法律ノ範囲内ニ於テ」という条件をつけていた。この旧憲法下で、様々な言論が制約され、弾圧が行われた。曖昧な「公益」「公の秩序」は、国家の方針やその時の状況によって、いくらでも恣意的な規制や制約ができそうだ。
表現の自由に限らず、「個人」より「国家」を尊重する。「人権」は「公益及び公の秩序」の下に置かれる。これが、自民党「草案」の基本。日本国憲法と似た体裁をとっているが、まったく別物であり、その価値観は天と地ほども違うと言わなければならない。
憲法が国民を縛る
憲法の役割も、180度変えてしまおうとする。現行憲法は国民の権利を謳い、平和主義を宣言し、国の統治機構を定めた後、こう締めくくっている。
〈第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。〉
憲法が縛るものは…
天皇陛下が即位直後に、「日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす」と誓われたのは、この条文を意識されてのことだろう。
憲法は、この条文によって、政治家が法律を作ったり、公務員などがそれを執行する時に、憲法で定めた国民の権利を侵害するようなことがないよう、釘を刺しているのだ。つまり、憲法は、国民を縛るのではなく、政治家や公務員らの行動を縛るために存在していると、ここで念押している、といえる。
では、自民党「草案」はどうか。
これに当たる条文のまず最初に、こう書かれている。
〈全て国民は、この憲法を尊重しなければならない〉
憲法を「国民」の言動を律するものに変えよう、というのである。
ちなみに大日本国憲法は、「臣民」が「憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フ」としていた。自民党「草案」は、この点でも明治憲法に先祖返りしている。
戦争ができる国に
そして、平和主義と安全保障の問題。
「草案」によれば、「国防軍」の活動範囲は、自衛のための活動のみならず、相当に広い。一応、「武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」としているが、「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」ならOK。これによって、国連が武力行使容認決議を行っていない多国籍軍に参加し、戦闘行為、すなわち殺傷行為を行うことも可能となる。
また、「軍人」の職務実施に伴う罪や「国防軍」の機密に関する罪についての裁判は、「軍」内部に置いた「審判所」で裁く、とされる。いわゆる軍法会議の復活だろう。これについての問題点は、軍事ジャーナリスト田岡俊二さんの論稿に詳しい。
もう1つ見過ごされがちなのが、「草案」の第9章として新しく設けられた「緊急事態」。「我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律に定める緊急事態」が起きた時に、内閣総理大臣が「緊急事態の宣言」をすることができる、とする。
とってつけたように「自然災害」が加えられているが、東日本大震災のような大規模な(しかも、原発事故を伴う)災害が起きても、日本では「公の秩序」が破壊されるような暴動など起きていない。法律や災害時の対応策をきちんと整備しておけば、憲法でわざわざ「緊急事態」の規定を置く必要はない。また、そのような「内乱」や「武力革命」が起きることも、日本では想定し難い。
要するに、「緊急事態」は戦争を想定した規定なのだ。現行憲法に規定がないのは、戦争をしないのが前提だから。9条の改変に加え、「緊急事態」の規定を入れることで、日本は戦争ができる国へと変貌する。
ひとたび「宣言」が出ると、内閣は強大な権限を持つ。法律と同じ効力を持つ政令を発することができる。つまり、国会抜きで国民の権利を制限することが可能。この「宣言」が発せられると、「何人も…国その他公の機関の指示に従わなければならない」とある。
まさに、総動員態勢で国民が総力を挙げて戦争に協力する態勢を作るための基礎を固めるのが、この「緊急事態」の規定と言える。
バスに乗る前に必要なこと
第96条改正の問題を考える時には、その先に、このような国家観、憲法観、人権などについての価値観が広がっていることを、まずは知っておく必要があるだろう。それを知ったうえで、自分の意見をまとめたい。
マスコミも改憲ありきの雰囲気になっているし、よく分からないけど96条だけなら変えてもいいかも…という人がいるかもしれない。でもそれは、行き先も確かめずにバスに飛び乗るようなもの。
バスに乗る前に、切符を買う前に、行き先と停まる停留所は確かめよう。