もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

140928 池澤夏樹さんによる白井聡『永続敗戦論』(太田出版)の書評を転載します。

2014年09月29日 00時43分38秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
9月28日(日):

ブログ「さぶろうの WORDS OF LOVE」様で、池澤夏樹さんによる白井聡『永続敗戦論』(太田出版)の書評を発見し、転載させて頂きます。

池澤夏樹 「戦後」の実態を明確に解析  (『週刊文春』2013年7月18日号)

何かおかしい、ということがいくつも重なる。一言で言えば筋の通らないことが多すぎる。

なぜ福島県をボロボロにした東電がああまで居丈高なのか?なぜオスプレイは勝手放題に飛んでいるのか?なぜ自民党が選挙で圧勝するのか?

どれにも明快な答えが見つからない。それはたぶん我々が時代から充分に距離を取っていないからだ。ぼくなど「戦後」を六十数年も生きてきたから、すべての問題は間近すぎて客観視できない。紋切り型の対応しかしていないと自分でも焦っているのだが。

もっとカメラを引いて視野を広くし、見逃していたものを取り込まなければならない。例えば白井聡の『永続敗戦論――戦後日本の核心』を読むとかして。

戦後という時代の実態が何だったか、これほど明確に解析した本はなかった。読んでいて慄然とするほど。

我々は「敗戦」という事実をスルーしてきた。「終戦」と言い換えて見ないようにしてきた。そこまではぼくも考えていた。しかし、日本が民主主義国でいられたのは朝鮮半島の共産化が38度線で食い止められたからだとは気づかなかった。

日本は戦後すぐに民主化されて選挙で成立した政権がことを仕切ってきた。しかし韓国と台湾ではずっと軍事独裁政権が続いた。理由は簡単で、ソ連との対決の前線である両国にアメリカは民主主義を許さなかったから。戦争をするには民主主義は邪魔になる。

国家とは巨大な利益追求組織であり、そこに倫理を求めるのは筋違いだ。それなのに日本はこの数十年間、敢えてアメリカは善であるという妄想の上に立って国を運営してきた。

この状態を白井は「永続敗戦」と呼ぶ。

それが今、破綻しかけている。アメリカにはひたすら追従、近隣三国には強硬姿勢という構図が崩れようとしている。頼むアメリカにはもう頼れない。頼んだのが間違いだった。

具体的には、「米国に対しては敗戦によって成立した従属構造を際限なく認めることによりそれを永続化させる一方で、その代償行為として中国をはじめとするアジアに対しては敗北の事実を絶対に認めようとしない。このような『敗北の否認』を持続させるためには、ますます米国に臣従しなければならない。隷従が否認を支え、否認が隷従の代償となる」

ここまでならば白井が言うのは若い論客の卓見に過ぎないかもしれない。しかし彼はこの「永続敗戦」の仮説を昨今の三つの領土問題に応用してみせる。外交文書を精緻に読んで関係各国の言い分を客観的に精査すれば、日本がそうそう強気なことを言えないのが明らかになる。

うちには強いお兄ちゃんがいるんだぞ、と言って振り向くとそこにお兄ちゃんはいない。アメリカは尖閣諸島に属する久場島と大正島を射爆場として実効支配しているのに、尖閣諸島の帰属問題については「中立の立場」と言っている。

それでは筋が通らないというのはこちらの勝手な思いであって、利を考えればアメリカの選択は当然。些細なきっかけから尖閣で軍事衝突が起きたとしてもアメリカ軍は出動してくれない。オスプレイは来ない。日米安保は基本的に不平等なのであり、それは日本が敗戦国だったから、今もなお敗戦国であるからだ。

多くの謎があきらかになる。日米地位協定の改革一つアメリカに申し出ることもできないのに「主権回復の日」を祝う理由、この国の指導者が誰も失敗の責任を取らない理由、右翼が親米である理由……。

なぜこの欺瞞の体系がかくも長きに亘って存続してきたか?経済の繁栄があったからだ。「平和と繁栄」はセットだった。二つはただ並置されているのではなく本質において結びついている。そして今、繁栄が失われようとしている。となると平和も危ない。

白井は現実を見ないままスローガンを繰り返す平和主義者に対しても厳しい。「唯一の被爆国である日本は……」という言葉のあとになぜ自動的に「いかなるかたちでも絶対に核兵器に関わらない」が続くのか。もう一つの選択肢、「二度と再び他国から核攻撃されないよう進んで核武装する」という方を熟考して捨てた上での前者でなければ意味がないのだ。しかし後者はアメリカが許すはずがない……で済ませてしまうのが「永続敗戦」思考なのだろう。

昭和二十年、天皇をはじめとする日本の指導者は革命を嫌って敗戦を選んだ。それが今も続いている。

この現実を認めない無責任は国家という概念を軽くする。原発の事故で犠牲を覚悟の措置が必要になった時、国民がテロリストに人質として拘束されて国家が脅迫された時、前線に立つ者の生命に対抗するだけの重さを日本という国家は持っていない。寺山修司が「……身捨つるほどの祖国はありや」と言ったのはこのことだ。

この本を土台にこれから多くの議論が構築されるだろう。   

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