私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歴史教室4月 河合家の人々と河合家墓所

2019-04-16 16:01:40 | 歴史探索
 4月16日(火)   天気:晴れて暖かい   室温:22.9℃

 きょうは 公民館の歴史教室に 出席しました。 今月は 元城郭研究室長の中川秀昭さんの
「河合家の人々と 河合家墓所・仁寿山校跡」 で 「河合道臣(寸翁)・河合良翰(屏山)と
河合家の人たち」 について 詳しく説明していただきました。 5月には 河合家のゆかりの
地を訪れる予定です。 次回は 9月に 「池田輝政と池田家」 が 予定されています。

※10月に ”文化財を訪ねて 仁寿山めぐり” を参考に 河合家墓所周辺を 散策しました。

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1.河合(川合)家 略系譜(姓・藤原、本国・遠州、家紋・丸二違鷹羽)
    

2.河合(川合)家の人物点描
 ◆川合定恒(宝永3年~寛永4年・46歳没)
 ・酒井家の姫路転封直後の寛延2年7月 大水に見舞われ、城下の町屋は 流失し、多くの
  溺死者を出した。 定恒は 洪水で逃げ場を失った町民を 姫路城内に避難させ、さらに
  御蔵米(2000石)を 供出し、多くの領民を救助した。
 ・定恒は、藩主 酒井忠恭の進めた前橋から姫路への転封に 反対。 藩主 酒井忠恭の意向を
  汲んで 転封を進めた家老本多光彬、公用人犬塚又内を 寛延4年7月 私邸に招き 殺害、
  自らも 自刃して 果てるという刃傷事件を起こし、家断絶。定恒の母・妻子は 実弟の松下
  次右衛門高通に 引き取られた。

 ◆川合宗見(むねみ)(享保18~天明7年・55歳没)
 ・道臣(寸翁)の父。 妻は 林田藩 家老長野九之丞直通女(娘)
 ・定恒刃傷のとき、長男蔵人定連22歳、次男甚四郎宗見17歳。 定連は 病気を理由に
  隠居。 宗見は 叔父の松下次右衛門に 厄介になり 家督を継いだ。
 ・宝暦5年 御書院番となり 初出仕、その後、宝暦12年 御小姓頭(200石)の後 番頭、
  年寄 そして 安永7年 家老(1000石)になり 家職を復旧させた。

 ◆川合定連(さだつら)(享保13~寛政11年・72歳没)
 ・忠以が 藩主になると、定連は 無役のまま 忠以の深い信頼を得、安永7年 家老に。
 ・安永8年 忠以に 日光諸堂の修理役、同10年 光格天皇践祚祝いで 将軍家治の名代で
  上洛の命。 この資金を 定連が才覚し 調達。 忠以が 上洛の年、卒中を患い 55歳で 再隠居。

 ◆河合道臣(みちおみ)(寸翁)(明和4年~天保12年・75歳没)
 ・姫路城下 中ノ門内の川合家で生まれる。 川合宗見の次男、母は 林田藩家老長野氏女。
 ・幼名 猪之吉、16歳で 隼之助に、・・・号は 白水、漢年 「川合」を 旧の「河合」に 改名。
  前藩主忠道から 「道臣」 の名を賜る。 隠居し 「寸翁」と改名(天保6年・69歳)
 ・父宗見が 歿し、21歳で 家督を継ぎ 家老に、その後、69歳で 隠居するまで 酒井忠以、
  忠道、忠実、忠学と 4人の姫路藩主に仕える。(忠学のときは 隠居)
 ・文化5年、42歳の時に 藩主忠道から 諸方勝手掛を命じられ、負債73万両(現在の730
  億円?)に膨らんだ姫路藩の立て直しを 任される。
 ・木綿の江戸専売権取得や 様々な藩営事業を行い、天保5年には 負債を完済し、天保6年
  69歳で 家督を良翰(さとかた)に譲り 隠居、「寸翁」を名乗る。 天保12年没。
  〇財政再建(経済・産業振興)
  ・姫路の特産物に目をつけ、木綿・朝鮮人参・塩・皮革・鉄製品・藍、藍染-鼈甲(べっこう)
   細工・蝋燭・竜山石・絞油などの専売制 実施
  ・土地の開発、農業生産を高めるため 新田開発、西光寺野の開発、塩田開発
  ・木場港、高砂港、飾磨港の整備(木綿や米の江戸、大坂などへの輸送)
  〇領民救済
   ・固寧倉(米、麦、籾などの穀物を貯蔵)
  〇教育振興
   ・仁寿山學(校)の開校、藩校好古堂の移転拡充、郷校・申義堂の設立


 ◆河合良翰(さとかた)(屏山)(享和3年~明治9年¥72歳没)
 ・松下源太衛門高知二男、文化2年、3歳で 河合道臣の養子に。 後に 道臣娘・琴泉と結婚。
  天保2年 仁寿山校に入寮、道臣 隠居し、家督を継ぎ 姫路藩家老に
 ・河合惣兵衛(宗元)らと 姫路藩尊攘派志士を リートするが 過激な言動が警戒され 嘉永元年、
  謹慎、道臣の実子(良翰養子)良臣に 家老職を譲り 梅ヶ岡に屏居。 屏山を号す。
 ・文久2年 京で 良臣が客死し、同年 家老に復帰。 しかし 元治元年 甲子の獄で 尊攘派が
  断罪される中、江戸・染井村に幽閉される。 慶応6年 永田伴正に救出された。
 ・その後、家老として、明治2年 戊辰の獄を主導し 佐幕派を 処断。 明治元年 薩長土肥に先駆け
  いち早く 版籍奉還を建白した。
 ・明治2年 姫路藩執政、明治3年 大参事に就任。 この年 仁寿山の地を藩に 奉還した。

3.河合道臣(寸翁)の主な藩政改革
 (1)姫路木綿専売制と江戸直売
   ・太物屋山本佐一郎、金川甚左衛門の二人、木綿江戸表売捌を 道臣に建議
   ・江戸直売届書
   ・御国用積銀の法(文化10年(1813))
    ・木綿を大量に扱うための元手を得るため、領内の余裕のる者に 積金をさせた。
    ・木綿の買い付けや 新たな殖産興業の資金とした。
   ・御切手会所(文政3年)、御国産会所設立(文政4年)
    ・御切手会所:藩札発行
    ・御国産会所:木綿専売制を統括する機関
   ・江戸積議定書
   
       ・高品質の国産姫路木綿は 「姫玉」 「玉川晒」 と呼ばれ、江戸で人気ブランドに

 (2)西光寺野開発と朝鮮人参
   ・西光寺野(姫路市船津町)
    ・西光寺野を開発し、まずは 桑の栽培や絹織物所を設けた。
    ・西光寺野に 当時 薬用として 高価で売れた朝鮮人参を 栽培させた。 人参製役所が設けられた。
    ・西光寺野開発の功績をたたえ、長池のほとりに 河合寸翁紀功碑が建つ。
       

 (3)固寧倉(姫路市指定重要文化財)
   ・領民が災害にあったときや 凶作に備えての社倉制度。 備荒貯穀を目的とする制度。
       

 (4)東山焼(お庭焼き)
   ・文政5年 東山村の興禅寺山 山麓に 窯が築かれ 染付や 青磁が 焼かれたのが 始まり。
   ・当初は 民営の窯、すぐに 藩営となり 天保2年頃 男山に窯が移され 安正年間まで 制作された。
 
 (5)「玉椿」、「かりんとう」
   ・道臣が 5代目伊勢屋新右衛門を 江戸で 幕府の婚礼菓子を扱う「金沢丹後」 へ派遣。
    技術を取得させ、酒井忠学・喜代姫婚儀の際に 新右衛門が作り上げた祝菓子が 「玉椿」


 (6)新田開発・塩田開発
   ・道臣は 新田開発を奨励。 新田開発には、大庄屋や有力商人らが請け負い、・・

 (7)郷校・申義堂、仁寿山學(校)の創設、藩校・好古堂の拡充 (高砂市本町)
   ・郷校・申義堂(半公立(藩立)の庶民を教育する学校
   ・藩校・好古堂の移転拡充(藩士の子弟を教育、藩が 全費用を出す公立(藩立)学校
   ・仁寿山學(校)(河合道臣(寸翁)が 設立した私立学校(ただし 藩から50人扶持支給)

 ※5月12日の新聞に ”姫路藩の特産「高砂染」復活” の見出しで 市民パレードでは、かっての
  姫路藩の特産品、高砂染を復活させた浴衣を着て、女性2人が歩いた。 江戸期の名家老・河合
  寸翁を 顕彰する団体が、高砂染の生産を奨励し、藩財政を再建した河合の功績を紹介しようと
  披露した・・という記事が載っていました。

4.河合道臣(寸翁)略年表
   明和4年 1767年 姫路城下中之門内の川合邸に生まれる。 幼名:猪之吉
   ・・・・ (中略) ・・・・
   天保12年 1841 6月24日没 75歳 仁寿山梅ヶ岡墓所に葬られる

5.主な河合道臣(寸翁)など ゆかりの地
   姫路神社内の寸翁神社など
 


※出典・参考文献:『姫路藩の藩老 河合寸翁伝』 穂積勝次郎著、『姫路藩の名家老河合寸翁』 熊田かよこ著など
 
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