3月15日(か) 天気:晴れ 室温:17.2℃
きょうは 旭陽公民館へ 歴史教室を 聴講に 行きました。 今月は 姫路文学館 学芸員
甲斐史子先生による ”はりまの姫君 千姫の生涯 -史実と伝説のはざまでー” です。
当時は 女性に関する資料が少なく 残っている資料も 少ないが 史実と 作家による創
作などを含め 説明されました。
史料として 千姫を中心とする略系図を いただきましたが これは 織田信長をはじめ
豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、秀忠、家光、家綱、綱吉、家宣などの将軍の名前が 複雑
に絡む 複雑な系図で 千姫が 難しい時代を生きたことが 分かります。
途中に 参考史料や 小説の一部などを挟んだ 大変 面白い内容でしたが ここでは 詳し
く 紹介することができません・・・。
1.戦国の姫君 -徳川家と豊臣家ー
1)千姫誕生
慶長2年(1597)4月11日 徳川家康の三男・秀忠(のちの二代将軍)と その正室・
江の長女として 伏見の徳川家の屋敷で生まれた。 千姫誕生の翌年 秀吉が 死去。
2)七つで嫁いだ豊臣家
慶長8年(1603)7月28日 7歳のとき 千姫は 豊臣秀吉の嗣子秀頼に嫁いだ。
家康と秀忠に対する 秀吉の遺言によるものだった。 秀頼を 孫婿とするので 秀頼を・・・。
史料1・2:豊臣秀吉の遺言(遺言状写、遺言覚書)・・返々秀より事たのミ申候・・・
小説・・千姫輿入れの意味:司馬遼太郎 『城塞』・・六歳の姫には その才覚はなくとも・・・・
史料3:大坂城での千姫を垣間見る・・天樹院様御びんそぎをも。見けるが。碁盤のうへに。
3)大坂冬の陣・夏の陣
慶長8年(1603) 征夷大将軍となり 幕府を開いた家康の前には 大坂城の豊臣秀頼が
依然として 秀吉が定めた優位な家格(摂関家)を背景に 徳川幕府に比肩しうる権威を
持って 立ちはだかっていた。 家康が こうした豊臣体制を一掃すべく引き起こしたのが・・・
小説・・秀頼、二条城で家康と対面:司馬遼太郎 『豊臣家の人々』・・このさわやかな口跡を・・・・
小説・・大坂城落城:松本清張 『秀頼走路』・・たしかに、一人の詐欺漢が 豊前、豊後、筑後を・・・・
史料5:侍女ちょぼ(松阪局)が見た千姫脱出・・落城の時 東三矢倉の糒蔵、二間に・・
2.白亜の新天地 -姫路城での歳月ー 元和3年9月~寛永3年11月(1617~1626)
1)伊勢・桑名のロマンス
大坂城落城後 千姫は 江戸へ向かうなか 伊勢桑名から宮への渡しで 警護にあたる桑名城主
本多忠政の子、忠刻(平八郎)と出会い 恋に落ちたと伝わる。
小説:「姫・・・・」 驚いたように 平八郎が呼びかけた時 船が揺れた・・。 平岩弓枝『千姫様』
史料6:坂崎出羽守 千姫奪回事件の真相 : コックスによると 老皇帝(家康)が 生前 彼に・・
2)播磨の姫君
元和3年(1617) 桑名城主・本多忠政の転封にともない 千姫は 忠刻とともに
姫路城に移る。 本多家は この時 五万石の加増を得て 十五万石となり さらに千姫の
化粧料として 部屋住みの忠刻に 十万石が与えられた。
史料7:本多忠政一家 連歌「題 船」 いさきよき 心やたむる 菊の水 池のしつかに・・
史料8:千姫が 姫路城から 父・徳川秀忠に宛てたと思われる書状(元和6年);下の写真
3)失意の日々~愛息・幸千代、夫・忠刻の死~
元和7年(1621) 長男幸千代が わずか3歳で 亡くなった。
その後は 子供に恵まれなかった千姫は 姫路城西方の男山に 天満宮を建て・・
※下の千姫が 父親秀忠に 宛てた手紙には ”はりまより せん” とある。
3.慈母として ー落飾以後ー
1)天樹院
寛永3年(1626) 江戸城に戻った千姫は 下総飯沼弘経寺(現常総市)の了学上人
により落髪し 天寿院と号する。 姫路・鳥取・岡山藩主 池田光政に嫁いだ一人娘の
勝姫や 家光らを支え・・・ また 千姫は 三代・家光の子・綱重の母代(ははしろ)として
その子・六代将軍・家宣を 陰で支えた存在でした。
2)愛娘・勝姫
千姫とともに 姫路から 江戸に移り 間もなく鳥取藩主・池田光政に 十歳で嫁ぐ。
後年 岡山藩主となった光政が 藩内の未曾有の大洪水で 窮地に立った際 千姫は 多額の
金を用立てて これを救った。
史料10:娘婿への援助 「池田家借用金子証書控」(応承3年(1654))
3)豊臣秀頼の遺児 養女・天秀尼
慶長20年(1615)の大坂落城後 千姫は 夫豊臣秀頼と側室との間に生まれた七歳の
娘の助命を嘆願し 自らの養女とした。 娘は 家康の命により 幼くして鎌倉の尼寺東慶寺に入り
天秀法泰と称する。 天秀尼は 千姫に先立ち 37歳で この世を去った。
4)千姫の死
寛文6年(1666) 千姫は 江戸の竹橋御殿で 静かに息をひきとった。 享年70。
すでに 弟の三代将軍・家光にも 養女の天秀院にも 先立たれていた。
墓所は 伝通院、弘経寺、知恩院に建てられ 高野山奥の院に 供養塔、満徳寺に 供養塔。
4.伝説に彩られた千姫
大坂城落城のとき 夫とともに 死ななかったこと 翌年には 早くも 本多家に再嫁し
姫路城での恵まれた生活を 手にしたこと そして 将軍家という出自や その美しさすら
人々の非難と羨望の的となり 醜聞に満ちた千姫像を かき立ててゆく。
それらは 近代以降の文学や 映画にも 少なからず 受け継がれた。
千姫は そうした風雪に甘んじることで 庶民の為政者徳川家に対する 反発と根強く残る
豊臣家への同情を緩和する役割を 担ったのかもしれない。
参考文献・・・資料には たくさん書かれていますが 省略します。
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きょうは 旭陽公民館へ 歴史教室を 聴講に 行きました。 今月は 姫路文学館 学芸員
甲斐史子先生による ”はりまの姫君 千姫の生涯 -史実と伝説のはざまでー” です。
当時は 女性に関する資料が少なく 残っている資料も 少ないが 史実と 作家による創
作などを含め 説明されました。
史料として 千姫を中心とする略系図を いただきましたが これは 織田信長をはじめ
豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、秀忠、家光、家綱、綱吉、家宣などの将軍の名前が 複雑
に絡む 複雑な系図で 千姫が 難しい時代を生きたことが 分かります。
途中に 参考史料や 小説の一部などを挟んだ 大変 面白い内容でしたが ここでは 詳し
く 紹介することができません・・・。
1.戦国の姫君 -徳川家と豊臣家ー
1)千姫誕生
慶長2年(1597)4月11日 徳川家康の三男・秀忠(のちの二代将軍)と その正室・
江の長女として 伏見の徳川家の屋敷で生まれた。 千姫誕生の翌年 秀吉が 死去。
2)七つで嫁いだ豊臣家
慶長8年(1603)7月28日 7歳のとき 千姫は 豊臣秀吉の嗣子秀頼に嫁いだ。
家康と秀忠に対する 秀吉の遺言によるものだった。 秀頼を 孫婿とするので 秀頼を・・・。
史料1・2:豊臣秀吉の遺言(遺言状写、遺言覚書)・・返々秀より事たのミ申候・・・
小説・・千姫輿入れの意味:司馬遼太郎 『城塞』・・六歳の姫には その才覚はなくとも・・・・
史料3:大坂城での千姫を垣間見る・・天樹院様御びんそぎをも。見けるが。碁盤のうへに。
3)大坂冬の陣・夏の陣
慶長8年(1603) 征夷大将軍となり 幕府を開いた家康の前には 大坂城の豊臣秀頼が
依然として 秀吉が定めた優位な家格(摂関家)を背景に 徳川幕府に比肩しうる権威を
持って 立ちはだかっていた。 家康が こうした豊臣体制を一掃すべく引き起こしたのが・・・
小説・・秀頼、二条城で家康と対面:司馬遼太郎 『豊臣家の人々』・・このさわやかな口跡を・・・・
小説・・大坂城落城:松本清張 『秀頼走路』・・たしかに、一人の詐欺漢が 豊前、豊後、筑後を・・・・
史料5:侍女ちょぼ(松阪局)が見た千姫脱出・・落城の時 東三矢倉の糒蔵、二間に・・
2.白亜の新天地 -姫路城での歳月ー 元和3年9月~寛永3年11月(1617~1626)
1)伊勢・桑名のロマンス
大坂城落城後 千姫は 江戸へ向かうなか 伊勢桑名から宮への渡しで 警護にあたる桑名城主
本多忠政の子、忠刻(平八郎)と出会い 恋に落ちたと伝わる。
小説:「姫・・・・」 驚いたように 平八郎が呼びかけた時 船が揺れた・・。 平岩弓枝『千姫様』
史料6:坂崎出羽守 千姫奪回事件の真相 : コックスによると 老皇帝(家康)が 生前 彼に・・
2)播磨の姫君
元和3年(1617) 桑名城主・本多忠政の転封にともない 千姫は 忠刻とともに
姫路城に移る。 本多家は この時 五万石の加増を得て 十五万石となり さらに千姫の
化粧料として 部屋住みの忠刻に 十万石が与えられた。
史料7:本多忠政一家 連歌「題 船」 いさきよき 心やたむる 菊の水 池のしつかに・・
史料8:千姫が 姫路城から 父・徳川秀忠に宛てたと思われる書状(元和6年);下の写真
3)失意の日々~愛息・幸千代、夫・忠刻の死~
元和7年(1621) 長男幸千代が わずか3歳で 亡くなった。
その後は 子供に恵まれなかった千姫は 姫路城西方の男山に 天満宮を建て・・
※下の千姫が 父親秀忠に 宛てた手紙には ”はりまより せん” とある。
3.慈母として ー落飾以後ー
1)天樹院
寛永3年(1626) 江戸城に戻った千姫は 下総飯沼弘経寺(現常総市)の了学上人
により落髪し 天寿院と号する。 姫路・鳥取・岡山藩主 池田光政に嫁いだ一人娘の
勝姫や 家光らを支え・・・ また 千姫は 三代・家光の子・綱重の母代(ははしろ)として
その子・六代将軍・家宣を 陰で支えた存在でした。
2)愛娘・勝姫
千姫とともに 姫路から 江戸に移り 間もなく鳥取藩主・池田光政に 十歳で嫁ぐ。
後年 岡山藩主となった光政が 藩内の未曾有の大洪水で 窮地に立った際 千姫は 多額の
金を用立てて これを救った。
史料10:娘婿への援助 「池田家借用金子証書控」(応承3年(1654))
3)豊臣秀頼の遺児 養女・天秀尼
慶長20年(1615)の大坂落城後 千姫は 夫豊臣秀頼と側室との間に生まれた七歳の
娘の助命を嘆願し 自らの養女とした。 娘は 家康の命により 幼くして鎌倉の尼寺東慶寺に入り
天秀法泰と称する。 天秀尼は 千姫に先立ち 37歳で この世を去った。
4)千姫の死
寛文6年(1666) 千姫は 江戸の竹橋御殿で 静かに息をひきとった。 享年70。
すでに 弟の三代将軍・家光にも 養女の天秀院にも 先立たれていた。
墓所は 伝通院、弘経寺、知恩院に建てられ 高野山奥の院に 供養塔、満徳寺に 供養塔。
4.伝説に彩られた千姫
大坂城落城のとき 夫とともに 死ななかったこと 翌年には 早くも 本多家に再嫁し
姫路城での恵まれた生活を 手にしたこと そして 将軍家という出自や その美しさすら
人々の非難と羨望の的となり 醜聞に満ちた千姫像を かき立ててゆく。
それらは 近代以降の文学や 映画にも 少なからず 受け継がれた。
千姫は そうした風雪に甘んじることで 庶民の為政者徳川家に対する 反発と根強く残る
豊臣家への同情を緩和する役割を 担ったのかもしれない。
参考文献・・・資料には たくさん書かれていますが 省略します。
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