2月21日(土) 天気:晴れ 室温:17.2℃
きょうは いい天気で 暖かく 風も穏やかそうだったので 西国街道の鵤荘から西の
揖保町の門前~正條宿~片島宿を 自転車で 歩いてきました。
先日 太子町の歴史資料館でもらった資料の ”山陽道を歩こう ~相生から鵤~” と
地図を参考に 史跡を巡ります。 大して見るものはありませんでした。 驚いたことに
了福寺で 漆道の岡田さんに お会いしました。
帰りに 正條から 南へ回り 揖保川町袋尻?の丸亀藩使者場跡と 道標を見て 南の
王子橋を 渡って 帰りました。 片道10kmほどかと思いますが 帰ると 腿も肩も 痛い・・。
10:20 に 出発し 帰ったら 14:45でしたが 私には これくらいが 限界かも・・・・。
家を出て 北へ行き 太子山の裾を北へ廻り 西国街道に入り 街道を まっすぐ 西へ走ります。
茶屋垣内地蔵の先が 林田川です。 前回 ここまで来たので 今回は ここが スタート地点です。
北の旧国道の誉鳩橋を 西へ渡り 南へ下ります。 村の中の細い道が 西国街道です。
この辺りには なにもありません。 新幹線がありますが カメラを出す 間もなく 走り去って
いきます。 右に 弥右衛門の石碑があります。 説明板が ないので 詳しことは 分からず。
前に 地理院の水準点があります。 二等? 2.5万の地図・網干で見ると 標高12.8m。
その先で 女性に尋ねると 宝林寺へ案内してくれましたが 西から ぐるっと大回りして 国道
の方から 廻るのです。 「あそこの大きな屋根の・・」 と言われても・・。 お寺へ行くのに 東から
回って 結局 大きく一周させられました。 目も回る?
雲門山・宝林寺は 京都紫野 大徳寺開山 大燈国師の誕生地を 記念するために 建てられた
寺である。 国師は 南北両朝の天皇の師となった 禅宗の高僧で 歴代朝廷より 650年間に
8回 国師号を賜っている。 境内には 国師誕生の産湯の井戸伝説と秘めた 夜泣きの水鉢など
見るべき宝物が 現存する。 が 宝物は な~にも見ることができませんでした・・・。
乗願寺は 確か 街道沿いにあったと思います。 乗願寺の前で 女性に 道を尋ねたので
先に 宝林寺へ行くことになりました。
街道は 南西方向に曲がります。 その先の揖保村道路元標を 探すのに 苦労しました。
メモに 郵便局前と書いていたので・・。 悪いことに 少し北に 西構郵便局があるのです。
郵便局の前を 探していたら 運よく 女性が 通りかかり 案内してくれました。 親切な人で
した。 元標を知っていた訳ではありませんが きっと これでしょうと・・。 道路脇の民家の敷地?
にあります。 ちょっと 分かりにくい。 道路元標には 揖保村とありました。
ここで 街道を離れ 南にある崇道天皇神社へ寄ります。 崇道天皇神社の御祭神は 崇道天皇、
恵美酒大神、厄除大神。 崇道天皇は 光仁天皇の第二皇子 桓武天皇の皇六弟で 早良親王と
申し上げる。 延暦19年 七月第廿三日 天皇称号を追贈。
南に 参道が伸びていて 大鳥居もあります。 社殿は 銅板葺きで 緑青が出て いい雰囲気でした。
西国街道に戻り さらに 西へ進みます。 踏切に差し掛かると カネが鳴り JRの電車が
来ました。 続いて 上りの貨物列車も来て 往復ビンタですが 踏切は 渡らないので・・・。
ここに UCCコーヒー?の工場があり 街道は 行き止まりになります。 右に曲がり UCCの
工場の間を抜け 一旦 国道に出ます。 左は ニトリです。 坂道を上がり 揖保川大橋へ。
下流に JRの鉄橋があり その辺りが ”正條の渡し” だった? 橋を渡り 左折して 揖保川
の土手を南へ下ると 大きなくり?の木の下に ”正條の渡し場跡” の標柱があります。
明治のはじめまで 山陽本線 正條鉄橋のやや川下に 高瀬舟が 浮かび 乗客を待っていた。
旅人を乗せた舟が 川を横切っていく 今では 見ることのできない のどかな風景であった・・・。
※この辺りに 高瀬舟が浮かんでいたとすると 官兵衛が 秀吉から 揖東郡をもらって 山崎に
城を構えたとき 網干と山崎の間に 高瀬舟の航路を開いたので そのお陰かも・・・・。
土手から降りて 街道を西へ行くと 揖保川郵便局があり ここに 道標があります。
左 たつの 山崎は 何とか 読めますが 右は・・・。 少し先に 「明治天皇駐輦所」 の石碑
がありました。 傍に 「本陣井口家」 の標柱があります。 往時の姿を うかがい知ることは
できないが 明治18年(1885)8月に 明治天皇が 休憩された御座所が 復元されている。
街道を さらに西へ進みます。 県道120号線を横切るとき 北のJRの踏切を 智頭急行
スーパーはくとが 一瞬のうちに 通り過ぎて行きました。
県道を横切ると 竜野駅です。 ここから先は 見るべきものもないので 引返しても良かった
のですが ついつい先へ進んでしましました。 馬路川を渡ると 一里塚跡があるようですが・・・。
見つかりません。 何もないのかも・・・。 圓尾碑を見て 石仏を見て・・・。 平田碑を見て
お地蔵さんを見て・・・。 なにも 書いたものがないので 詳細不明です・・。
右に 了福寺があったので 寄ってみました。 寂れた感じのお寺です。 写真を撮ろうと
すると やあと 声をかけられ・・。 岡田さんでした。 しばらく おしゃべりしている間に
写真を撮るのを 忘れてしまいました。 ∴山門の写真しかありません。
すぐ先の 民家の塀の脇に ”片島本陣趾” の標柱がありました。 標柱があるだけ・・・。
その先で 広い交差点に出ました。 ここの道は 地図にない新しい道路です。
西国街道は まだ先へ続きますが 面白そうなものも ありそうにないので ここで 引返す
ことにしました。
街道を 正條まで戻り 南へ曲がり 室津方向へ進みます。 新幹線の高架下を潜り
揖保川の傍に来ると 大きな水門があります。 手前の川は 馬路川?
山裾を 東へ回り 下の旧道を進むと お堂の傍に 丸亀藩使者場跡の標柱がありました。
丸亀藩使者場は 参勤交代などで 往来する大名が 領地の街道を 通る際 地元藩が
敬意を表し 送迎したところだそうです。
少し先に 道標がありました。 正面に 御大典記念 側面に 右 室津 岩見港とあります。
これで きょうの史蹟めぐりは 終わりです。 室津への道は 山裾に沿って 南西方向に進み
ますが 私は 東へ戻り 王子橋を渡って 帰ります。 じゃあ・・・。
この辺りは 広い平地で ため池もないので 田畑に使う水源に困るのか 堰とか 水門が
多いようです。 昔は 揖保川と 林田川が 合流する辺りは 毎年のように氾濫したようですが・・・。
。。。。。 。。 。。 。。。。。。。。 。。 。。 。。。。。。。。 。。 。。 。。。。。。。。 。。 。。 。。。。。
きょうは いい天気で 暖かく 風も穏やかそうだったので 西国街道の鵤荘から西の
揖保町の門前~正條宿~片島宿を 自転車で 歩いてきました。
先日 太子町の歴史資料館でもらった資料の ”山陽道を歩こう ~相生から鵤~” と
地図を参考に 史跡を巡ります。 大して見るものはありませんでした。 驚いたことに
了福寺で 漆道の岡田さんに お会いしました。
帰りに 正條から 南へ回り 揖保川町袋尻?の丸亀藩使者場跡と 道標を見て 南の
王子橋を 渡って 帰りました。 片道10kmほどかと思いますが 帰ると 腿も肩も 痛い・・。
10:20 に 出発し 帰ったら 14:45でしたが 私には これくらいが 限界かも・・・・。
家を出て 北へ行き 太子山の裾を北へ廻り 西国街道に入り 街道を まっすぐ 西へ走ります。
茶屋垣内地蔵の先が 林田川です。 前回 ここまで来たので 今回は ここが スタート地点です。
北の旧国道の誉鳩橋を 西へ渡り 南へ下ります。 村の中の細い道が 西国街道です。
この辺りには なにもありません。 新幹線がありますが カメラを出す 間もなく 走り去って
いきます。 右に 弥右衛門の石碑があります。 説明板が ないので 詳しことは 分からず。
前に 地理院の水準点があります。 二等? 2.5万の地図・網干で見ると 標高12.8m。
その先で 女性に尋ねると 宝林寺へ案内してくれましたが 西から ぐるっと大回りして 国道
の方から 廻るのです。 「あそこの大きな屋根の・・」 と言われても・・。 お寺へ行くのに 東から
回って 結局 大きく一周させられました。 目も回る?
雲門山・宝林寺は 京都紫野 大徳寺開山 大燈国師の誕生地を 記念するために 建てられた
寺である。 国師は 南北両朝の天皇の師となった 禅宗の高僧で 歴代朝廷より 650年間に
8回 国師号を賜っている。 境内には 国師誕生の産湯の井戸伝説と秘めた 夜泣きの水鉢など
見るべき宝物が 現存する。 が 宝物は な~にも見ることができませんでした・・・。
乗願寺は 確か 街道沿いにあったと思います。 乗願寺の前で 女性に 道を尋ねたので
先に 宝林寺へ行くことになりました。
街道は 南西方向に曲がります。 その先の揖保村道路元標を 探すのに 苦労しました。
メモに 郵便局前と書いていたので・・。 悪いことに 少し北に 西構郵便局があるのです。
郵便局の前を 探していたら 運よく 女性が 通りかかり 案内してくれました。 親切な人で
した。 元標を知っていた訳ではありませんが きっと これでしょうと・・。 道路脇の民家の敷地?
にあります。 ちょっと 分かりにくい。 道路元標には 揖保村とありました。
ここで 街道を離れ 南にある崇道天皇神社へ寄ります。 崇道天皇神社の御祭神は 崇道天皇、
恵美酒大神、厄除大神。 崇道天皇は 光仁天皇の第二皇子 桓武天皇の皇六弟で 早良親王と
申し上げる。 延暦19年 七月第廿三日 天皇称号を追贈。
南に 参道が伸びていて 大鳥居もあります。 社殿は 銅板葺きで 緑青が出て いい雰囲気でした。
西国街道に戻り さらに 西へ進みます。 踏切に差し掛かると カネが鳴り JRの電車が
来ました。 続いて 上りの貨物列車も来て 往復ビンタですが 踏切は 渡らないので・・・。
ここに UCCコーヒー?の工場があり 街道は 行き止まりになります。 右に曲がり UCCの
工場の間を抜け 一旦 国道に出ます。 左は ニトリです。 坂道を上がり 揖保川大橋へ。
下流に JRの鉄橋があり その辺りが ”正條の渡し” だった? 橋を渡り 左折して 揖保川
の土手を南へ下ると 大きなくり?の木の下に ”正條の渡し場跡” の標柱があります。
明治のはじめまで 山陽本線 正條鉄橋のやや川下に 高瀬舟が 浮かび 乗客を待っていた。
旅人を乗せた舟が 川を横切っていく 今では 見ることのできない のどかな風景であった・・・。
※この辺りに 高瀬舟が浮かんでいたとすると 官兵衛が 秀吉から 揖東郡をもらって 山崎に
城を構えたとき 網干と山崎の間に 高瀬舟の航路を開いたので そのお陰かも・・・・。
土手から降りて 街道を西へ行くと 揖保川郵便局があり ここに 道標があります。
左 たつの 山崎は 何とか 読めますが 右は・・・。 少し先に 「明治天皇駐輦所」 の石碑
がありました。 傍に 「本陣井口家」 の標柱があります。 往時の姿を うかがい知ることは
できないが 明治18年(1885)8月に 明治天皇が 休憩された御座所が 復元されている。
街道を さらに西へ進みます。 県道120号線を横切るとき 北のJRの踏切を 智頭急行
スーパーはくとが 一瞬のうちに 通り過ぎて行きました。
県道を横切ると 竜野駅です。 ここから先は 見るべきものもないので 引返しても良かった
のですが ついつい先へ進んでしましました。 馬路川を渡ると 一里塚跡があるようですが・・・。
見つかりません。 何もないのかも・・・。 圓尾碑を見て 石仏を見て・・・。 平田碑を見て
お地蔵さんを見て・・・。 なにも 書いたものがないので 詳細不明です・・。
右に 了福寺があったので 寄ってみました。 寂れた感じのお寺です。 写真を撮ろうと
すると やあと 声をかけられ・・。 岡田さんでした。 しばらく おしゃべりしている間に
写真を撮るのを 忘れてしまいました。 ∴山門の写真しかありません。
すぐ先の 民家の塀の脇に ”片島本陣趾” の標柱がありました。 標柱があるだけ・・・。
その先で 広い交差点に出ました。 ここの道は 地図にない新しい道路です。
西国街道は まだ先へ続きますが 面白そうなものも ありそうにないので ここで 引返す
ことにしました。
街道を 正條まで戻り 南へ曲がり 室津方向へ進みます。 新幹線の高架下を潜り
揖保川の傍に来ると 大きな水門があります。 手前の川は 馬路川?
山裾を 東へ回り 下の旧道を進むと お堂の傍に 丸亀藩使者場跡の標柱がありました。
丸亀藩使者場は 参勤交代などで 往来する大名が 領地の街道を 通る際 地元藩が
敬意を表し 送迎したところだそうです。
少し先に 道標がありました。 正面に 御大典記念 側面に 右 室津 岩見港とあります。
これで きょうの史蹟めぐりは 終わりです。 室津への道は 山裾に沿って 南西方向に進み
ますが 私は 東へ戻り 王子橋を渡って 帰ります。 じゃあ・・・。
この辺りは 広い平地で ため池もないので 田畑に使う水源に困るのか 堰とか 水門が
多いようです。 昔は 揖保川と 林田川が 合流する辺りは 毎年のように氾濫したようですが・・・。
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