私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

姫路城 特別公開 搦手周辺

2024-09-03 15:26:53 | 歴史探索

  9月 3日(火)    天気:曇り のち 晴れ     室温:32.7℃

 きょうは、姫路城の特別公開を見に行きました。 今回は、姫路城の東側に位置する地形と城郭の構造を利用した

高度な防御力をもつ 搦手周辺が公開されています。 今回は、菱の門から ショートカットして、ぬの門、への門から

備前門へ出て、井郭櫓のの前の ちの門から入り、トの櫓、との一門、との二門、(との山門)と 搦手道を下って、

との四門から 退場します。 (一方通行)     トの櫓、との一門、との二門は、令和4年3月に 公開されました。

 

 見どころとして、トの櫓、枡形虎口、長壁神社遺址、との一門、との四門が あります。 備前門の前の井郭櫓が

受付で、ちの門、トの櫓、との一門、との二門、長壁神社遺址から 東へ降りて、との四門へ下ります。

 

 井郭櫓は、多門櫓とも呼ばれ、大きな井戸があるので、井戸櫓とも呼ばれていました。 井戸は、深さ約15m、

直径2.9m、水深は1.2m。 井郭櫓は、北室と東室には 鉄砲狭間があり、搦手のとの一門・との二門の枡形

上から押さえる重要な位置にあります。

 大天守の裏側に隣接する曲輪に 続く小さな門。 搦手側から備前丸へ最短で通じる要所に 位置しています。

 棟門の現存例は 少なく姫路城に 3カ所で、番所が付属するのはここだけです。

 トの櫓:東側と南側に開いている2つの格子窓から、との二門に向けて射撃必要があるため、窓の下に床板を

     張って 高くし、有効な射撃ができるようにしている。 建物の形は 菱型。(部屋の隅は 90度ではない)

 との一門:姫路城に残る櫓門で 白漆喰を塗っていない唯一の門。 「昭和の大修理工事」までは 白漆喰が塗って

   あったが、解体してみると 当初は 塗っていなかったことが判明したため、元のとおり素木造りに戻された。

   秀吉が 自身の権威を示すため、姫路城の北に あった置塩城から 移築したものであるとの説もある。

  との一門は、白漆喰の塗り壁ではなく、自然のままの状態の木材を使った 「素木造」で、他の門とは違った

  雰囲気があります。 輝政の時期より 古い材料が使われていることから 秀吉の時代に 建てられたものと・・。

 

 との二門:石垣の間に寸分の隙間なく作られた、との二門。 小さな屋根の高麗門は 見晴らしがよい。 虎口の

      前方を急な斜面にする坂虎口になっており、押し寄せる敵の勢いを弱めるための工夫がされている。

 枡形虎口:搦手道には、との一門・との二門で構成された枡形が残っています。 姫路城では、枡形の2つの城門

      と土塀が残っている唯一の例。

 長壁神社遺址:との二門の東にある北向きの石段の上の平場には、姫山の地主神・長壁神社がまつられていました。

        現在は、「長壁神社遺址」の石碑がある。 今回も 手前に柵があり、石碑の前には行けません。

 搦手道は、階段ですが、段と段の間には 小さな石が敷き詰められていています。 最近の工法のようです。

 との三門:姫路城が 廃城の危機にあった明治時代に払い下げられたといわれており、現存しません。

 穴蔵:穴蔵は、道が屈曲するところの北側に 大きな窪地があります。 真ん中の窪みが、かって 「穴蔵」と

    呼ばれた蔵があったところです。 半地下式で、壁も屋根も 切石で 作られていました。 壁の切石の

    残り具合から 横穴式石室の跡だと言われていましたが、実際は 火薬を保管するための焔硝蔵でした。

 との四門:姫路城の東側に位置する 搦手の登閣である。 昔、三の丸広場に陸軍が駐屯していた頃は、「菱の

      門」の南側ではなく、との四門が 入城口として使われていました。

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