私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

法隆寺領 鵤荘めぐり 後編

2015-02-04 15:45:02 | 歴史探索
 2月 4日(水) 立春  天気:晴れ  室温:17.3℃

 きょうは 天気が良く 風も穏やかで 暖かそうだったので カフェ・エルミタージュへ行く
予定を変更して ”法隆寺領 播磨国 鵤荘”(後編) を 廻ってきました。 国道179号線
から北~太子竜野バイパスの南 の範囲です。 もちろん 自転車・ロシナンテ号で 回り
ます。    10:12 出発し 14:15 帰着で 4時間かかり 腰が痛い・・・。
※ 前回の国道より南の ”鵤荘めぐり 前編” は 〈 こちら 〉 を見てください。
※ 1月20日 山崎からの帰りに寄った 林田川の 「赤井堰」 と 「荒河堰」 は 一番下に
  添付します。
※下のマップには 大津茂川から東 (太田地蔵など) と 林田川の堰は 含まれていません。

 大津茂川沿いに 北へ行き 壇特山の東へ出て 吉備神社の前を通ります。 吉備神社には
天保年間の狛犬や 竜山石の石棺の蓋がありますが・・・。 更に 東へ行き 県道421号線を
横切ると 下太田廃寺跡があります。


 このあたりは 古くから開かれた地域で 多数の古墳が 築かれました。 『播磨国風土記』 には
昔 韓国から渡来した 呉勝らが 住んで 太田里と名付けられた、と記されています。   ここは
古代の寺院跡で 塔跡、心礎の形式や 出土した古瓦の文様から 白鳳時代の創立とみられます。

 下太田廃寺を見て 更に 東へ行くと 福井大池にでます。 池の北を廻って 国道に出て
少し東へ行くと 原西の信号があります。 ここは 国道沿いに来た 西国街道の分岐点です。
西国街道は ここから 北へ向かいます。 この分岐に 題目塚があるらしいのですが・・・。
「南無妙法蓮華経」 の石碑が 題目塚のようです。 調べてみると こんなのがありました。
  ”戦国の時代 多くの戦没者を出し これらの霊を慰めるために、いつごろか
  無名の信者により 「南無妙法蓮華経」 のお題目碑が 建てられたとあります。
  私の記憶の中には 「題目塚」のことは 薄らとした記憶しかありませんでしたが
  塚の前で お題目を唱えていると・・・・”
他にも ・・・ 日蓮聖人が 大切にした 「法華経」 には どのような人でも 全て平等に
 「仏の心」 (仏性)が 備わっていると 説いてあります。 それは 人だけではありません。
 動物も植物も大地も 全ての生きとし生けるものに 「仏の心」 はあるのです。
 その全ての仏さまに 感謝し 手を合わせるのが お題目=「南無妙法蓮華経」 の世界です。

 南は 国道と新幹線が並行して走っており 十一陣の風と共に 新幹線が 走り去っていき
ます。 西国街道を進むと 竹ヤブの中に 「桜井乃清水」 があります。 赤松義村が 定めた
「播磨十水」 の一つで 赤松広英が 歌を詠んでいます。
      黒岡に ゆききの人も 心あらば 薬ともなれ 桜井の水

 坂を下った辺りで 通りかかかったお年寄りに お地蔵さんを 尋ねると ちょうど 帰ると
ころで 案内していただきました。 この人も 歴史好き老人で いろいろ お話しました。
 赤松円心や 黒田官兵衛に 興味があるそうで・・。 城山にあった 楯岩城のことを 説明
されるのですが きょうは お城の日ではないのに・・・。
 という事情で 子授け・延命 下太田地蔵尊を 撮るのに すっかり 時間がかかってしま
いました。 この辺りは 鵤荘ではなく 余分な所で まだ スタート地点に 到達していま
せん・・。 そうそう この地蔵尊は 奈良の大仏を建立した 行基菩薩が 造立したのだった?

 少し先で 大津茂川に かかる栄橋を 渡ると やっと 鵤荘に入ります。 むかしの西国
街道の雰囲気は ありませんが・・・。 少し行くと 太田小学校があり 西国街道は 小
学校の先で 再び 国道に 合流します。

 小学校の西を 北の山(配水池がある) の方へ行くと 「太田牓示石」 があります。
小学校の側に 子育地蔵と並んで 牓示石がありました。 ここは 庭石風です。
牓示石については ”前編” で 説明したので 省略します。 この牓示石が 本日の
”鵤荘” めぐりのスタート地点で 「太田牓示石」は 本日 最初の史跡です。

 ここから 西国街道を離れ 北の道を 西へ進みます。 適当に進み 福専寺に着きま
した。 もう 11:40 です。 福専寺は 浄土宗・西本願寺派のお寺です。 お地蔵さん
は? 見当たりません・・。 左のお堂の中に 福専寺 地蔵菩薩立像に 安置されてい
ました。 汚れたガラスの格子戸が 閉まっていて お地蔵さんが よく見えません・・・。
 福専寺の石造・地蔵菩薩立像は 高さ156cmの石材に 高さ82cmの地蔵菩薩が
陽刻されています。 頭上に 梵字で 阿弥陀仏の種子(キリーク) が 陰刻されています。
 風化して 損耗していますが 貞治2年(1363) に 造立された 南北朝時代の石像だ
そうで 兵庫県指定重要有形文化財。 鎌倉時代より 広く民間に 流布した地蔵信仰と
して 興味深い? 
 いまから 200年くらい前に 土中に埋もれていたが 衆生済度ができないので 掘り
起こしてくれと 夢に出てきたので 掘り出して 福専寺に祀った・・。 延命地蔵として
多くの信仰を集めた。

 つぎは 県道424号線を 北へ行き 太子ゴルフ前にある東保大歳(ださい)神社です。
ださい神社は 山崎の千年藤のある神社だけかと思いましたが 太子町にもあるのです。
 大歳神社は 「鵤荘絵図」 にも描かれ 中世には 東保の鎮守として 確認されます。
「鵤荘引付」 に 「東保・平方太歳頭」 と 東保と 平方の大歳(ださい)神社には 宮頭が
置かれていたこと、『当時日記』 に 鵤荘政所の年中行事の中に 両社の祭礼も 位置づ
けられていたことが 確認されます。

 坂を下って 総合公園の角を曲がって 東へ行きます。 次は 「松ヶ下投げ石」 です。
牓示石も 大谷と 松ヶ下は 「投げ石」 となっています。 ここは 分かりにくいところに
あります。 工場の裏に回った 山裾にありました。 探せるもんなら 探してみっ!
そこそこ 立派な石なのに 投げ石とは・・・。
 牓示石 (投げ石) は 聖徳太子が 布施地として 賜った方六町 360町歩の鵤荘の
境界を 明らかにするための 境界石です。

 北の道路に戻り 細い道を 西に進んでいると 「松田地蔵」 を通り過ぎ 竜田公民館に
出てしまいました。 通りがかりの人に聞くと ”あれじゃ ない?” こんな地蔵さまとは
露知らず・・。 これでは まるで 路傍の地蔵です。 いわれも分かりません。

 次は 「平方牓示石」 です。 総合公園前を 西に行きますが これが また 分かりに
くい・・。 素通りして 平方大歳神社へ行ってしまいました。 ここは 木が茂っている
ので すぐ分かりました。
 大歳は ださいとも たいさいとも おおとしとも 読まれますが 太歳神は 陰陽道で
木星を 神格化する歳神(としがみ) とされ 豊作を祈る農民の信仰を あつめました。
 弘安3年の 「鵤庄平方条実検目録」 にも登場し 中世には 平方の鎮守として 確認
できますが その祭祀は 古代まで遡ると 考えられています。

 神社にお参りし 牓示石を探さなきゃ・・。 近くで 畑を耕している老人に 聞くと ”あ
そこに フェンスが見えるじゃろ あそこじゃ” こんなところ 分かるか・・。 道路が 西行き
と 東行きに 分かれ その間の窪地に 埋もれています。 これは 牓示石を 大事にする
ため 道路を左右に分けて 牓示石を そのまま 道路の間に 残した?


 次は 「桜ヶ坪の牓示石」 ですが これが また 超分かりにくい・・。 先に 山裾にある
「坊主山地蔵」 に 行きました。 これは すぐ分かりました。 筑紫の丘斎場の西へ回ると
墓地の下に 六地蔵と並んでいました。 これでは まるで 七地蔵です。 いわれは?

 もう一度 「桜ヶ坪牓示石」 を探します。 地図を見て ここしかない! と思うのですが・・。
斎場の東に 広ーい駐車場があります。 この辺りですが・・。 駐車場の南には 溝があり
その南は 畑。 溝を見ながら歩くと それらしい石が・・。 溝脇の畔に埋もれています。
一応 写真を撮って 隣の民家で 聞きました。 やっぱり そうでした。 溝石です。

 南へ戻り 西へ進み 「福田の牓示石」 を探します。 これが また 分かりにくい・・。
地図を見て 絶対 この辺りにあると 確信しますが この辺りは 住宅地で それらしきもの
は ありそうにない・・・。 近くの人に聞くと ”この家の裏じゃ” この家の裏へどうやって
行くの? かなり大きく戻り 坊主山の裾から大回りします。 すると 休耕田?の奥に
石が見えます。 あれじゃな。 確かに この家の裏ですが・・・。 確か 県の史跡ですが
太子町は 牓示石を 大切にしているのでしょうか?
牓示石は 荘園の牓示というだけでなく 条里制との関連の上で 重要である?

 「カラカワの地蔵」 は 簡単に見つかりました。 南へ戻っていると 道路の脇の自販機
の横にありました。 水の入ったペットボトルは 猫よけ? カラカワの地蔵は 鵤字蔵元に
ある地蔵で かっては 土中に埋もれていたと 言い伝えられ 像の高さは 73cm。
周りに 五輪塔の残欠があります。

 少し南へ下り 西へ行き 国道179号線を越えると 稗田神社に出ます。
神社の旧の祭神は 豊受姫大神、素盞鳴大神、猿田彦大神、天鈿女大神。
      現祭神は 稗田阿礼大神、素盞鳴大神。
 西暦606年 推古天皇は 摂政の聖徳太子が 経典を講じた褒美に 鵤荘を与えられた。
やがて 猿田彦命、天鈿女命の子孫である稗田氏は 朝廷に舎人として 仕え 聡明で
記憶に優れた 稗田阿礼は 国記や 帝記などをよく学び 日本の国が生まれて以来の古い
事柄を よく聞き覚えていた。 天明天皇は その阿礼の記憶を 文字をよく知る太安万侶に
書きとらせ 和銅5年(712) 『古事記』 全三巻が できあがった。
 やがて 当社では 阿礼を祭神として 祀ってゆくようになった。

 最後に 斑鳩寺に お参りします。 稗田神社から まっすぐ南へ下ると 斑鳩寺に出ます。
斑鳩寺は 聖徳太子が 推古天皇より 606年に 寄進された 播磨国揖保郡の水田百町を
「斑鳩荘」 と名付け 法隆寺領 播磨国 鵤荘の中核として 創建された古刹です。
 天文十年の火災により 全焼失。その後 永禄年間までに 当山中興昌仙法師らによって
漸次 再建され 現在まで 「お太子さん」 として 広く信仰を集めています。
三重塔は 国指定の重要文化財です。  ここへ来たら ピンクのサザンカを見なくては・・。


 供養塔には 赤松政秀と 赤松広英が 祀ってあります。 塔の裏に 龍野城主・赤松政秀 文武の
誉れ高く その子 広英 亦 文雅の才あり 四書・五経の訓点刊行を企て 戦乱の世に 文芸復興の
烽火をあげ 但馬竹田城で 仁政を布き 名君として 慕われしが 関ヶ原の戦に 石田三成に味方し
家康の怒りにふれ 慶長5年 鳥取眞教寺で 自刃。 歳39歳。 赤松氏は 悲しくも 断絶した。
 赤松広英は 竹田城主のころは 広秀 と名乗ったと思うのですが・・・・。

 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
 ここからは 1月20日に 訪れた 林田川の 「赤井堰」 と 「荒河堰」 です。
※下の地図は スペースの関係で 右が 北になっています。

 たつのを通り 太子町へ入る永久橋の手前で 左折して 川沿いに 北へ行き 山陽道
の高架下を 潜ると 赤井堰(あかゆぜき)があります。 姫新線の鉄橋の手前です。
 鵤荘を灌漑する水路には 上流から 内山・赤井・荒河井 がありました。 そのうち 赤
井は 灌漑面積も広く 鵤荘にとって 最も重要な用水路でした。 鵤荘と 小宅荘は 同じ
小宅井を 水源とするため しばしば 水争いが起こりました。 ・・・ この赤井の水路網は
中世鵤荘の開発や 農業を知る上で 非常に貴重です。
*小宅荘は 林田川の西、現在のたつの市側にあり 地図を見ると 小宅神社があります。

 永久橋の下流100mほどの所には 荒井堰(荒河井あらこゆぜき) があります。
ついでに 寄ります。 林田川の西岸道を下り 路肩に車を停めます。 荒河井は 鵤荘の
水路としては 最も下流に位置し 鵤荘南西部の馬場・鵤、弘山荘の阿曽の一部を灌漑し
ています。 この荒河井は 福田片岡遺跡の発掘調査から 鎌倉時代初期まで 遡る水路
であることが 明らかになっています。 ・・・・
永久橋の下流に 広福橋があり 荒井堰は 更に南にあります。 パンフの写真では 川幅
一杯に 土手のような堰がありますが 土砂で埋まったのか 流されたのか 堰がない・・。

 前編と 今回の後編で 歴史資料館でもらった ”法隆寺領 播磨国 鵤荘” のパンフレットの
史蹟めぐりは 完了しました。 最初は 牓示石だけ巡るつもりで 資料館へ 資料をもらいに
行くと 変なパンフレットをくれたので ついつい 太子町全域を廻ることになってしまいました。
疲れました・・・。 太子町全域を回るにも このブログを書くのにも・・・。
次に 揖保町~正条の渡しを回る宿題が残ったし・・・。
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コメント (2)
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